第四十五回 ソロモンの指輪か、奴婢の首輪か
本稿の第二十四回「バベルの塔に怒った神は、人々の言葉を乱したが……」において、筆者の認識不足により、誤った記述があった事をお詫びすると共に訂正したい。
〝PVMCGは従来の住民基本台帳カードを継承する形で、日本人であれば誰でも申請すれば無償で支給される様になった〟
とあるが、実際には、日本政府は一般の自国民に対し、PVMCGの無条件供給を未だ開始していない。
だが巷を見ると、PVMCGを身につけた日本人は、既に珍しい物ではない。統計によれば、その普及率は六割程度と見込まれる。
この数字は、国際結婚等でティ連既存加盟国との二重国籍状態となった日本人や、ティ連からの移民を除いた物である。つまり、一般国民がPVMCGを所有する事その物について、政府が規制している訳では決してない。
ティ連各国との二重国籍を持たなくとも、日本人が何らかの形でPVMCGを入手すれば、各種免許証や健康保険証、旅券といった、日本国内の公的資格証明も紐付けされる。政府が国民のPVMCG所持を抑制したいなら、この様な便宜を図る事もない筈である。
当初から指摘されていた、ゼルクォート造成の普及による商業活動への悪影響も、海外輸出や観光需要の激増によって充分に補われている。
確かに、産業構造の変化やAIによる省人化の影響を被った失職も大量に発生したが、ハイクァーン使用権による手厚い補償が行われている為、貧困層はティ連加盟前に比べて激減しているのである。
つまり、日本政府がPVMCGの無条件配布に踏み切らないのは、ゼルクォート造成の経済への影響を懸念しての事ではない。
ティ連加盟後程なく、特区指定を受けた複数の自治体で、行政実験として住民へのPVMCG配布が行われたのだが、その際に看過出来ない問題が発生したのである。
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PVMCGを装着していると、位置情報や会話内容が管理AIにモニターされる。違法行為を察知すれば、AIは直ちに警察当局へ内容を通知するので、試験配布開始の初日から、管区の警察は、管理AIから伝えられる膨大な犯罪件数に翻弄される事となった。
法律違反を大量に捕捉したからといって、人員や設備に限りがある以上、警察がすぐに動ける事案は重大性/緊急性のある物が優先される。
それでも、PVMCGによって捕捉された多くの違法行為が摘発される事となり、警察庁はその効果に驚嘆すると共に、フル活用出来る体制の構築を検討した。
〝捕捉した犯罪を摘発しきれないのは、人員や施設の不足に起因する。よって、警察官や検察官、そして裁判官を大幅に増員し、また、被疑者を収容する拘置所、受刑者を矯正する刑務所を増設する必要がある。
法を冒せばただちに捕縛され、裁かれ、そして収監される事を国民が周知する様になれば、日本は清く正しく美しい、ティ連の聖地としてふさわしい国として生まれ変わるだろう〟
当時はハイラ王国が加盟前だったので、日本の犯罪率は、ティ連加盟国中でも飛び抜けた首位だった。この恥ずべき状態を返上すべく、警察庁はやっきになっていたのである。彼等にとってPVMCGは、日本社会の浄化に有効な特効薬と映った。
従来であれば、施設や人員の増強には莫大なコストがかかる。しかし、トーラル技術さえあれば、それは一気に解決出来る。警察官や刑務官はアンドロイドを導入すれば数的・質的共に増強は容易で、裁判の迅速化もAIで可能だ。
取り調べにニューロン検査を利用すれば、冤罪のリスクも極めて低い。
さらに、片っ端から市民を犯罪者として拘留しても、トーラル技術の活用で、社会を運営する労働力の不足は充分に補える。
治安活動に限らず、トーラル技術下では、コストは社会政策の足かせ、言い換えれば歯止めとしては機能しないのである。
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だが、警察庁が期待したのもつかの間で、特区でのPVMCG支給申請は急減し、さらにはいったん支給された物の返却を希望する市民すら散見される様になった。
PVMCGによって摘発された犯罪は、違法薬物取引や詐欺、窃盗、恐喝といった、一般に罪として認識されている物ばかりではなかった。
最も多かったのは配偶者間暴力、いわゆるDVや、児童虐待といった家庭内の事案である。これまで発覚するのは氷山の一角に過ぎなかったのが、一気に可視化された為に摘発が進んだのだ。
従わない子供に暴力で制裁して何が悪いかと思う親は、未だ多い。DVにしても、これまで警察があまり相手にして来なかった、女性側が加害者というケースも容赦なく摘発対象となった事から、これに不服を訴える女性団体が続出した。
加えて、加害者を摘発した事で結果的に家庭崩壊へ至るケースも多発した事から、公権力による私生活への過干渉として批判する声が高まった。
さらに、司法当局がマンパワーを強化して、将来的には細かな違法行為も漏らさず、容赦なく摘発出来る体制の構築を検討している事を知るや、PVMCGは市民監視の為のツールであるという認識が広まってしまったのである。
また、有識者からは憲法上の問題も指摘された。PVMCG同士は、従来のスマートフォンの様に会話やデータ送信が可能なのだが、この機能が、憲法第二一条で保護されている〝通信の秘密〟に抵触するというのである。
従来の電話通信を犯罪捜査の目的で傍受するには、裁判所の発行する令状が必要となっている。PVMCGは、通信に限らず装着者の会話内容が管理AIによって常時モニターされている為、これが問題視されたのだ。
この結果を受け、政府は、国民へのPVMCG無条件配布を時期尚早と判断。特区での行政実験を凍結し、国内の法制度との調整が困難として、国民へのPVMCG無条件配布を無期限で留保する事としてしまった。
行政特区で既に配布されたPVMCGについては一律に回収される事なく、引き続き使用するか否かは個々の判断に委ねられる事となったが、回収率は四割に及んだ。
少なからぬ国民が、便利さの代償として、AIに私生活を監視される事を望まなかったのである。
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この決定を、国内世論は静かに受け止めた。
日本の行政が配布せずとも、希望する国民のほとんどには、PVMCGを入手する手段があった為である。
まず、自身で無くとも、近い親族の誰かがティ連加盟国の市民の配偶者、あるいは養子であれば、姻族の扱いで相手国へPVMCG支給の申請が可能だ。
また、ティ連各国への観光訪問は一般国民も可能なのだが、現地での行動はPVMCGが必須なので、持っていなければヤルバーン、もしくは目的国の大使館へ申請して支給を受ける事になる。これは日本へ帰国しても返却する必要はなく、引き続き使う事が出来る。
そして、ティ連各国からPVMCGを支給された日本人が、先の行政実験で問題になった様に、監視の目におびえて生活する羽目になるかと言えば、決してその様な事はない。
彼等の持つPVMCGの管理AIは、地球上ではヤルバーンが管轄している。その為、AIによる違法行為の通報も、ヤルバーン/イゼイラの法規に基づいた物で、通報先もヤルバーンの治安当局となる。日本へ通報されるのは、双罰性、つまり双方の国で違法となる事案のみだ。例えば自宅で賭け麻雀をした位で、日本の賭博罪違反で通報される様な事はない。
そして、ヤルバーン/イゼイラに限らずティ連各国では、日本と違い、市民の日常生活に、罰則付きの法律や条例が事細かに羅列されていない。他者に危害を加えない限りにおいて、大半の個人的な欲求は、ハイクァーン経済やトーラル技術で簡単に満たせる為である。よって、法で取り締まる必要もない。
無論、DVや児童虐待といった行為はティ連でも犯罪なのだが、その様な事態に至る前に、PVMCGを通じたAIによる適切なアドバイスで、家庭紛議が深刻化して暴力に至る事態は、ほぼ避けられるのである。(残念ながら〝ほぼ〟である。ティ連のAIとて決して万能ではなく、警察が介入する家庭内暴力も、希にだが発生する)
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では日本政府がPVMCGを全く配布していないかというと、職業や立場上、必要な者については独自の物を支給している。
具体的には、国会議員や国家公務員、警察・消防など地方公務員の一部や、海外流出規制のかかったティ連技術を扱う事を許されている民間の企業・団体の職員が対象者だ。翻訳や通信、身分証明、ゼルクォート造成といった利便の為だけでなく、不正行為の監視目的を兼ねている事は言うまでもない。
但し、他国からPVMCGの支給を受けている場合は、それを装着する事も認められているので、日本政府発給の物を使用している者は少数派である。
PVMCGは発給した国によって意匠が異なる為、服務中の公務員が自国製の物を使用していないのは、国家としての体面に関わるのではないかという指摘もある。
だが閣僚の大半、さらには皇族までが、交流開始初期にイゼイラから贈呈されたPVMCGを愛用しているので、強く指導出来ないのが現状だ。
また、国産とはいっても、その管理はヤルバーンに委託(但し第二地球はイゼイラ本国、熒惑県は火星のティ連直轄区域、レグノス県は要塞司令部が委託先)された状態なので、体裁はともかく、実務上は他国製と差異はない。
先の行政実験時にイゼイラから導入した、国内のPVMCGを統轄する為の中央管理AIも、運用を無期限休止したまま現在に至っており、自主管理開始の目処は全く立っていない状態だ。
日本に限らず、地球各国の法規は、全ての犯罪を捕捉するのが不可能である事を前提に、刑罰の制定で犯罪の発生を抑止するという考え方に立っている。
そして、取り締まりが徹底していない法律も少なからずある。例えば日本では、速度制限を律儀に守っている自動車の方が珍しいし、違法行為の筈の麻雀賭博は、家庭内でしばしば行われていたりする。つまり、実務上無理があったり、国民のコンセンサスを得られていない法律も少なからず、改廃されないままに放置されているのだ。
この様な状況でPVMCGを本格導入すれば、政府は管理AIから伝えられる違法行為の大半を〝能力限界〟を理由に看過するか、徹底的に摘発出来る体制を構築するかの二択を迫られてしまう。法治国家としては後者を選択するのが筋だが、国民からは〝監視国家化〟として怨嗟の声が挙がるのも必至だろう。
よって、国民が窮屈な思いをしない様、法律を全面的に再点検して、遵守が無理な物や、道徳の押しつけとなっている物、時代に合わず死文化している物、そしてトーラル技術の導入で規制が不要になる物を改廃する作業が必須となる。
だが、現状の法を維持しようとする動きも当然に出て、難航する事も予測される。例えば刑法一七五条が、表現の自由の観点から問題視され、国会で議論となった事があるのだが、維持派の声も大きかった為に廃止には至らず、慎重な運用を行う旨の警察庁通達という〝灰色の決着〟となった事は記憶に新しい(第十八回参照)。
独立国家として情けない限りだが、日本のティ連への正式加盟は、ファーストコンタクトから異例の早さであり、本来はまだ加盟準備国状態の時期という事を鑑みると、法整備の遅れもやむを得ない面がある。
ちなみに、第二十四回の執筆担当者は、父親が国家公務員の為、同居家族という扱いで日本政府から十代の頃に国産PVMCGの支給を受けていた。
これが、〝現在は日本政府が国民に無条件でPVMCGを支給している〟という誤解に繋がってしまったというのが本人の弁なのだが、確認不十分である事は間違いない。加えて、第二十四回の執筆当時、新人だった彼女の指導担当は、他ならぬ私であった。改めて、読者諸氏にはお詫び申し上げる次第である。
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普及の壁は法整備だけでなく、もう一つ深刻な問題がある。
PVMCGは仕様上、個人のバイタルデータによる認証が必須である。身分証を兼ねた物である以上、このデータは国家の市民登録(日本で言えば戸籍)にもリンクしているのだが、これがプライバシーの侵害になると言うのだ。
バイタルデータのプライバシー問題というと、健康、特に遺伝障害を連想する人が多いだろうが、これはティ連医学による遺伝子治療が可能となったので、さしたる事ではない。
では何が問題かというと、血縁関係が露わになるのである。戸籍上の親子関係が、医学上の事実と一致しない場合、それが解ってしまうのだ。
産院での取り違え、そして母親の不貞等々、事情は様々なのだが、いずれにせよ、当事者にとっては一大事だ。これまで家族だったのだから、これからもこのままでいいという、大らかな者ばかりではない。
無論、医学的事実が明らかになっても、戸籍が自動的に修正される訳ではなく、当事者のいずれかが家庭裁判所に申し立てる必要がある。だが既に、PVMCGでのバイタルデータ登録に端を発した親子関係不存在の確認、また医学上の父に対する強制認知の訴訟は多数発生しており、深刻な社会問題となりつつある。
この様な問題が浮上した為、政府内から、PVMCGの積極普及や自国管理に踏み切る機運が失せてしまったのが現状である。
ティ連としては、日本にもなるべく早く、自主的にPVMCGの普及を図って欲しいというのが本音だが、その普及が家庭崩壊の引き金となりかねないというので、促す事が出来ないでいる様である。何らかのきっかけで、他加盟国へPVMCG支給を個人単位で申請してくる日本人に手渡すのが精一杯なのだ。
ちなみに、ティ連には一夫一婦制の他にも様々な婚姻態様を持つ国があり、中には一妻多夫や多夫多妻といった物もある。また、婚外子も皆無ではない。
だが、市民のバイタルデータ登録が徹底しているので、母側が複数の男性と関係があろうとも、子の医学上の父は簡単に特定され、それがそのまま法的な父子関係になる。
地球の様に、不貞は黙っていればばれない、間男の子供は夫の子として養わせればいいという処世術は通用しないので、問題も発生しづらいのである。
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自国で配布していないとは言え、日本人がPVMCGを手にするのは、さして難しい事ではない。その為、PVMCGを持とうとしないのは〝訳あり〟ではないかと勘ぐる空気も、一部では出始めている。
犯罪が出来なくなるからではないか、不貞が発覚するのを恐れてではないかというのだ。
一方で、PVMCGは日本人に不要として、ネガティヴキャンペーンを張る層も少なからずいる。既存経済の終焉を加速する、怠け者が増える、物を大切にしなくなる、監視社会の首輪である等々、その声には鬼気迫る物がある。
ネガティヴキャンペーンのスポンサーとしては、携帯電話企業の国内大手三社の関与が噂されている。無料で利用出来るPVMCGの通信機能が、彼等にとって存続に関わる脅威という理由の様だ。
PVMCGを巡る市町村の対応については、大きく三つに分かれている。
最大は静観派で、全体のおよそ六割程だ。身分証明等、PVMCGを利用した公的手続きは受け付けるが、住民の所持について、積極推奨はしない立場である。道府県庁所在地や政令指定都市は、ほぼこの姿勢だ。
次に多いのが普及反対派で、これが市町村の三割を占める。「プライバシーを大切にする街」「発達過程文明の誇りを持とう」「ゼルクォート造成の〝幻〟に頼るのはやめよう」等と言ったスローガンを掲げ、PVMCGによる公的手続きを受け付けないばかりか、自治体職員の着用を禁じたり、教育委員会を通じて小/中学生の所持を禁じる校則を制定する等している。
何らかの事情でバイタルデータ登録を拒む者達はこういった普及反対派の市町村へ移り住む傾向が顕著で、逆にティ連出身者は移民/観光客とも、近寄るのを避けている。その為、普及反対派の市町村は、言わば〝先住民自治区〟の様相を呈しつつある。
最後に、PVMCGの利用を積極的に推進している自治体だが、熒惑、レグノス、第二地球の他、パーミラヘイムと濃密な交流がある、漁港を持つ沿岸地域や離島がその中心となっている。だがその比率は、全市町村のおよそ一割程である。
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革新的な技術の導入が、国民生活を大きく向上させる事は言うまでもない。だが同時に、新たな問題が発生するのも確かだ。
PVMCGは、ティ連社会に必要不可欠なインフラ機器である。その普及をいつまでも遅らせる事が出来ない以上、副作用として生じる問題、特に深刻な痛みを受ける人々に対するフォローをどうするのかが問われている。
暮らしを便利にする為のPVMCGが、国民を二つに割る鉈となってはならないのだ。




