第四十二回 城のある風景
城。
軍事拠点、そして統治者の居所として、近代以前に多く建設された施設である。
日本においては、主に地方領主の手によって全国各地に建造され、最盛期には約三〇〇〇にも及んだ。
しかし、江戸時代に入り、徳川幕府の規制によって新規の築城が禁じられ、また各領主の居所たる一城のみしか保有が許されなくなり、その数は約一七〇と大きく減る事となる。
さらに徳川幕府が倒れ、代わって誕生した明治新政府の方針により、残った城もほとんど取り壊され、保存運動が実った一部を残すのみとなる。
加えて第二次世界大戦末期における空襲での焼失にも見舞われた結果、日本に現存する本物の城は、わずかに一二城のみだ。
戦後の高度成長期に、地域のシンボルとして失われた城を再建するブームが発生したが、この時期に建てられた物は、外観のみを模した近代建築である。コスト面だけでなく、新たに定められた建築基準では、木造建築での復元が認められなかった事が大きい。
平成に入ると、静岡県掛川市の「掛川城」の様に、木造建築による復元例も出現したのだが、法令のクリアに苦労し、また、資料が乏しい場合は再現性にも限界があった(ちなみに掛川城の例では、他の城を参考にした部分も多い)。
そして、最大のネックは莫大な費用だ。貨幣経済下では、何をするにもカネが要る。
建築基準については、歴史的建造物を復元する場合、規制も緩和される様になった。しかし、参照すべき記録や資料の不足、そして費用といった壁は残ったままだ。
加えて、新たな観点からのクレームも発生した。再建される城には、障碍者に配慮したバリアフリー化を施すべきとの主張をする団体が現れ、議論となったのである。
当然ながら、本来の城にはその様な設備はない。再現性を重視する向きと、再現性を損なったとしても障碍者への配慮を優先すべきとする向きが、真っ向から対立する事となってしまった。
平成に入り、全国各地で城の再建が再び話題となり始めたのは、高度成長期に近代建築として建設された城の老朽化が背景にある。
順当に考えれば延命の為の補修工事となるが、どうせなら木造で再建したいという要望が相次いだのだ。
だが、一度取り壊して建て替える場合、城の土台となる石垣その物が貴重な史跡である為、その上に建てるならば再現性が高い、資料価値のある物が求められる。
無論、取り壊した上で再建しない選択もあり得るのだが、再現性の乏しい近代建築物であっても、地域のシンボルとして数十年親しまれた物がなくなってしまうのは、地元住民にとって受け入れがたい事だ。
地域の文化財たる城をどうするのか、各所在地の行政は頭を悩ませていたのだが、日本のティ連加盟という社会の激変は、その行方にも大きな影響を及ぼす事になった。
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ティ連から日本を訪れる観光客が急増する中、主要都市や有名観光地がオーバーツーリズムに陥らない様、その行き先を分散させる事が観光行政の課題となっていた。
その為、観光庁は全国すべての各市町村に、ティ連からの観光客を積極的に受け入れる様に要請した。日本のごく普通の日常風景であっても、ティ連市民からみれば発達過程文明なので、それで充分に観光資源となる。
とは言え、迎える側の各自治体としては、せっかく遠方から来てもらう以上、地域の特色をPRしたい。
名所の一つとして、少なからぬ自治体が目を付けたのが城だったのだが、それが形ばかりを模した近代建築で、さらに老朽化して大規模補修か建て替え、もしくは取り壊しを迫られている状態では体裁が悪過ぎる。
よって、城の再建が各自治体の急務となったのだが、日本各地へ移住しつつあるティ連系移民達も強い関心を示したのである。
彼等の多くは住み着いた地域の歴史・伝統を尊重する姿勢を示しており、当然に城の再建事業についても積極的だった。そこで、ティ連系移民達の中にいた建築技術者等の専門家が中心となり、各自治体へ城の再建について提言を行ったのである。
どうせ建て替えるなら本来の姿へ復元すべきであると言うのが、彼等に共通した見解だった。
前述の様に、城の再建にあたっては幾つかの問題があるのだが、提言ではその多くがトーラル技術によって解決可能とされていた。
まず費用面だが、これはハイクァーン造成を使えば極めて廉価となるので問題ない。
障碍者対応のバリアフリー化についても、スロープやエレベーターといった再現性を損ねる固定設備によらず、介助用AI機器による個別対応が可能であるとした。
そもそも、ティ連では障碍の完治が可能な為、バリアフリーに配慮した建築物は基本的にない。また日本国内でも、ティ連医療の導入によって障碍者は急減しているのが実情だ。
工期も極めて短期間であり、土台となる石垣の保全も、補修を含めて問題ないとされた。
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提言を受け、城のある自治体では、史実に基づいた城の復元に向けての検討が進められていった。
真っ先に行われたのは、愛知県の名古屋城である。名古屋市は産業の一大拠点である一方、規模に反して華やかさに欠け、観光対象としては魅力に欠けるという風評が根強い。
そんな名古屋の数少ない観光資源が「尾張名古屋は城でもつ」と評された名古屋城なのだが、本来の城は空襲によって焼失しており、現在あるのは近代建築による物だ。
老朽化が進んだ為、木造建築による復元が市の政策として掲げられたのだが、市民団体がバリアフリー化を主張する等の事情もあり、計画は足踏み状態となっていた。
「トーラル技術ならば、忠実な再現性を損ねずにバリアフリー対応も可能」という説得を受けて市民団体が矛を収めた事から計画は順当に進み、ハイクァーンによって焼失前そのままの名古屋城が復元された。
旧城の取り壊しから復元建築物の完成まで、工期はわずか二週間というスピードである。
復元された名古屋城は、立地や規模も相まって、地域のシンボルのみならず、日本を代表する城郭として、ティ連/地球を問わず、多くの観光客を引き寄せる様になった。
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この成功を受け、全国各地で木造による城の復元が盛んとなり、いずれも観光名所として賑わいを見せる様になったのだが、その総数は百に満たない。
復元に充分な資料が残る城は少なく、事実上、明治期まで残っていて、かつ廃城前に記録が残された物に限られてしまう為である。
では、近代建築による城郭の内、木造復元による建て換えがされなかった物はどうなったのかというと、大半は解体される事になった。
木造復元が盛んとなる中で、それが困難な物は「ニセモノ」感が強くなってしまったという事情もあり、補修しての老朽化対策よりも、史跡である城跡の保全と、再発掘調査が優先されたのだ。
大阪城等、明治末期から昭和初期にかけて再建された一部については、復元性が低くとも、それ自体に文化財としての価値が生じているので、補修の上で引き続き運営されているが、そういった例は少数である。
しかし、長らく地域のシンボルとして存在していた城がなくなってしまう事を残念に思う住民も少なからずいた。
史跡たる城跡の上に再現性に乏しい物を建築していたのが撤去の理由ならば、別の場所に建てれば良いという事で、城跡とは別の場所に、新たな城郭を建てる動きを見せる自治体も出始めた。
ちょうどその頃、老朽化した公共施設を、トーラル技術を組み込んでリニューアルする動きが全国に見られた為、それを兼ねる形となった場合が多い。
つまり外観は城だが、中身は市役所や図書館、公会堂といった施設となっているのだ。設備はもちろん最新式で、イゼイラ等から導入された機器類が使われている。
古風な外観と異星のオーバーテクノロジーというアンマッチな組み合わせには、木造の復元城郭とは違った魅力があり、観光客からもかなりの評判となっている。
変わった物では、警察署というケースもあった。元々、城は軍事拠点であった訳なので、警察施設というのは本来の用途にもっとも近いとも言える。
またここでは、警察官の一部が、鎧兜を装着、馬に騎乗して警邏する様になったのも注目を浴びた。
もっとも、鎧兜は外観に反し、重機関銃の弾丸や高出力レーザーにも耐える最新型の装甲服である。馬も本物ではなく、大型バイク並の速度が出せるロボット馬だ。
観光客を多分に意識したスタイルではあるが、ティ連の軍用品に比べて遜色はなく、重武装のテロリストにも対抗可能な装備となっている。
彼等は「モノノフトルーパー」「装甲騎馬武者」等と通称され、観光客や地域住民から親しまれている。
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この様に、ティ連体制下にあっても、城は日本人の心のよりどころとして、あり方を変えながらも存在を誇示している。
惜しむらくは、明治新政府の廃城令によって、大半の城が一度失われてしまった事だろう。反乱を防ぐという意味から、当時としては当然の政策だったのだろうが、文化財の保全という観点から考えると短慮の感は否めない。
失われて初めて、その大切さに気づく物は多いのだ。
日本は現在、明治維新、そして昭和二十年の敗戦に続く大変革のさなかにある。だが、新しき物を取り入れようとする余り、古き良き物をあっさりと捨て去る事がない様、気にとめておく様に心がけたい。




