第二十四回 バベルの塔に怒った神は、人々の言葉を乱したが……
ティ連市民であれば誰でも持っているPVMCG。
ゼルクォート造成、情報通信といった多用途の携帯機器で、身分証明証でもある。これ一台があれば、日常の用はたいてい事足りる。
ティ連に加盟後、政府はPVMCGを日本でも早期に普及させるべきかどうか検討したのだが、例によって政権与党内では少なからぬ反対論が出た。
ゼルクォート造成によりモノが売れなくなり、経済を混乱に陥れるのではないかというのである。
政府はハイクァーン使用権については慎重な一方、PVMCGの方は普及を推進したかった。大きな理由として、PVMCGに、ティ連市民に不可欠な機能……翻訳機能がある事が挙げられる。
多種にわたる知的種族が存在するティ連では、統一の共通言語がない。その為、相互の意思疎通にはPVMCGの翻訳機能が欠かせないのだ。
相手方種族がPVMCGを持っていれば、日本人の側が持たずとも意思疎通は図れるのだが、それでは「宇宙に開かれた日本」とは言えず、どうにも外交上の体裁が悪い。
しかし、反対派の懸念ももっともである。
そこで、ゼルクォート造成の影響を受けてしまう国内企業やその従業員については、ハイクァーン使用権によって補償する事となった。
また、軽工業品や家電は従来から輸入が主体となっている。加えて、ゼルクォート造成は、地球内、及び日本国/米国の地球外領土内では、著作権、特許権、意匠のあるベルヌ条約に関連する地球の物品は造成不可という規定も出来た(これはハイクァーン造成も同様)。
よって、PVMCGによるゼルクォート造成が国内企業へ与える悪影響は限定的であろうという試算もされた(これはかなり楽観的な試算で、現実には補償対象が大量に発生したのはご存知の通りである)。
故に懸念へは充分に対応出来るとして、PVMCGは従来の住民基本台帳カードを継承する形で、日本人であれば誰でも申請すれば無償で支給される様になった。
その機能上、各種免許証や健康保険証、旅券といった公的資格の証明も紐付けされ、全てPVMCG一つで済む様になっている。
PVMCG普及による日本社会への影響は多岐に渡るのだが、今回はその内、政府がその普及に踏み切った大きな理由である「言語」にスポットを当ててみたい。
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日本人は従来から、外国語の習得が苦手な傾向があった。
外国語の不得手は、外国人コンプレックスの元凶であり、また、一般人が生の海外情報に触れる機会を制限してしまう。
ティ連とのコミュニケーションがスムーズに進んだのは、PVMCGによって言語の障壁が取り払われた事が大きい。これなくして、日本人があっさりとティ連を受け入れる事は無かっただろう。
PVMCGのクラウドデータに登録され完全翻訳可能な言語は、実に多岐に渡る。ティ連加盟各国の公用語は言うに及ばず、既知の知的種族の言語は、そのことごとくが対象になっている。ティ連との交流を拒否した種族や、遺跡として発見された滅亡文明の物であっても、資料が収集出来ている範囲で翻訳が可能である。
個々に備わっている言語解析機能を使えば、応答速度や精度がかなり落ちるが、未登録の言語であっても対応は一応出来る(そして新たな言語解析データはクラウドにより、ティ連全体のPVMCGで共有されていく)。
当然に、地球においても日本語や琉球語、アイヌ語だけでなく、他国で使用されている言語も登録の対象だ。
現在使われている地球の言語は約七千種(但し、大半は少数言語である)だが、国家や政治実体の公用語/準公用語とされている物については、当該言語による放送電波の受信やインターネットコンテンツ、刊行資料の収集が容易な事もあり、早い段階で完全に網羅されている。
例えば、インドの準公用語でありながら話者が三万人に満たないサンスクリット語(梵語)も、PVMCGによる完全翻訳が早期に可能となった。
変わった物では、半世紀以上も続いている有名なSFドラマシリーズに登場する、架空の種族の母語「クリンゴン語」も対象となっている。
何故そんな物まで入っているかというと、「ISO639」という、言語名称の略称を規定する地球の国際規格で、クリンゴン語は「tlh」というコードを割り振られており、お遊びの域を超えた本格的な人工言語として扱われている為だ。
PVMCGの驚異的な翻訳機能により、日本人は対ティ連のみならず、地球の諸外国の人間とのコミュニケーションや、海外情報への接触が容易となった。
言語の壁は、もはや殆ど無くなったと言って良い。
これにより、日本では原語版の海外コンテンツが大量に流通する様になった。
日本語翻訳版はどうしても原語版に比べて発売が遅くなり、価格も高くなる。そもそも、翻訳されるコンテンツはごく一部である。
PVMCGにより自前で翻訳出来るなら、原語版を通販サイトで個人輸入するなり、クラウド利用権を購入した方が遙かに早くて安く、種類もケタ違いに豊富なのだ。
一昔前に輸入盤CDのブームがあったが、これが映像作品やゲーム、書籍といったコンテンツ全般に広がり、かつ恒久化した様な状態である。
消費者にとっては良い事だが、翻訳業や吹替え声優、また海外作品の日本版をメインとした出版社等は大ダメージを被った。環境の激変に対応しきれず、少なからぬ廃業も発生している。特に翻訳業は厳しい。
異星からのオーバーテクノロジーにより職を失った者は、ハイクァーン使用権による補償の対象とされた事は言うまでも無い。
ただ、翻弄され消えていく者だけではなく、営業努力で生き残る動きも活発である。
例えば「日本限定仕様」の書き下ろし/撮り下ろしの付加コンテンツを付ける出版社があり、そういった物は逆輸出によって、日本国内だけでなく本国で人気を博したりもしている。
また、インターネットでの発信力に乏しい発展途上国で、隠れた名作を発掘して日本で売り出す業者もいた。
代表例としては、本稿第六回でも触れたが、左派系の論調で知られるA(仮)TV局が挙げられる。グループ内の映像ソフト会社と共同で、東欧や中南米、アジア等のドラマコンテンツを熱心に買い付け、TVで放送後にDVD化して販売しているのである。
吹替え声優は、ナレーションや国産アニメ/ゲームに活路を見いだしたり、実写ドラマや舞台の俳優へ転向する者が多い。
ティ連系種族と共生する様になった日本を舞台とした新作企画が多く立ち上がった為、そちらのオファーが強くなったのである。
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国際間ビジネスも、意思疎通がスムーズとなった事でより活発となった。
ティ連技術を使用した工業製品の輸出には厳しい規制がある物の、ブラックボックス化を施し機能も抑えた輸出用モデルがあるので、海外から仕入れに訪れるバイヤーは多い。
また、従来からある日本の産品の需要も、引き続き堅調だ。
ゼルクォート造成の影響で内需が低調となった分、日本経済は輸出主体へ傾斜していく事となるのだが、PVMCGはその補助となった。外国語への対応能力が無い零細業者でも、輸出入を行い易くなったのだ。
これにより、大手業者が手がけないニッチな製品を扱う、小規模な交易商の起業ブームが発生した。
日本全体としては、ハイクァーン使用権による失業者への充分な補償がある事で、就業意欲が下がりつつある。そんな中で起業が盛り上がっている業界として、経済産業省は公的支援を強めていた。
一方、警察当局は、犯罪組織のフロント業者も紛れているのではないかと、取り締まりの強化を始めた。
実際、ティ連製と称した偽物の医薬品が海外で出回っており、出所の一つとして日本の零細業者ルートが疑われているのだ。
これもまた、変化する社会にどうにか適応しようとした者達が、苦し紛れに誤った方向へあがいた結果だ。新時代の暗部である。
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異なる言語を話す相手との意思の疎通が簡便になれば、海外旅行も盛んになるかというと、そちらはむしろ低調となった。日本人に対してティ連各国への観光が解禁され、宇宙へ繰り出す者が増えた為である。
何しろ、ハイクァーン経済であるティ連加盟国は、日本人旅行者から対価を取らない。つまり無料でご招待なのだ(ヤルバーン経由なので、そこまでの国内交通費はかかるが)。
これでは、海外観光地が太刀打ち出来る筈も無い。
一方、海外からヤルバーン目当てで日本を訪れる観光客は激増の一途なのだが、彼等の利便性は大きく向上していた。
従来、海外からの観光客が日本に抱く主な不満に「主要都市や観光地ですら、外国語対応が不十分である」という物が挙げられていたのだが、これが全く解消されたのだ。
今や日本人はPVMCGによって、いかなるマイナー言語にも問題無く対応出来る。この事が海外へ周知されてくると、ヤルバーンへ行くついでに日本の他地域へも立ち寄る観光客が多くなり、地域経済は大いに潤う事となった。
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PVMCGによる翻訳が出来れば、外国語習得は必要無いのではと思うかも知れないが、決してその様な事は無い。
相手の文化を深く知るには、その言語を身につける事が欠かせないのである。
ティ連でも、外国語学習は学校教育のカリキュラムへ組み込まれており、子供達は複数の言語を選択して、自国語同様に使いこなせるレベルまで学ぶ。
そして外国語学習にも、PVMCGは大いに役立つのだ。
PVMCGの翻訳には様々なモードがあり、ティ連では、使用者の聴覚に介入して、相手の言語が自国語として聞こえる様に設定するのが通常だ。客観視すると、互いに自分の母国語を話していて、相手にその意味が通じているという訳である。双方がPVMCGを使用している事が前提となる。
日本で使用する場合、相手がPVMCGを持っていない場合も多い事から、発声も相手側言語で行う設定とする事が多い。使用者の言語中枢に介入し、自国語を話しているつもりでも、口から出る言葉は相手側言語となる。声帯の形状から発声不可能な言語の場合は、PVMCGから合成音声が出る。
音声はそのまま聞こえて思念で意味が伝わるモードや、視覚に介入して字幕として表示されるモードもある。このモードは、外国のドラマや音楽を視聴する場合によく使われる。
また、文章の翻訳は基本的に、思念か字幕のいずれかとなる。例えば外国語で書かれた街の看板を見ると、自然と脳裏に意味が浮かぶ、あるいは字幕が見えるのだ。
翻訳モードを使い分ければ、外国語の習得はかなり早い。実際、日本に移住したティ連系住民は、短期間の内に日本語を習得する者が多い。
泣き所は文章作成の習得である。特に日本語は、表音文字の平仮名/片仮名だけでなく、表意文字の「漢字」を使う為に厄介だ。
何しろ、法定の常用漢字だけでも二一三六字ある。読む方は何とかなっても、書くとなると、高等教育を受けた日本人でも結構怪しく、コンピュータの変換辞書を使う事が多い。
よって、移住したティ連系住民の日本語学習は、文章作成に力点が置かれる様になり、関連として書道や作詞、短歌に取り組む者も増えた。
いわゆるボールペン習字もティ連系移民の間で盛んとなり、少女漫画風の雑誌一面広告で知られる、某通信講座の人気が特に高い。同広告のキャラクターは、これまでに数回代替わりしているのだが、次代はティ連系種族になるのではないかとの噂もある。
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日本人側の外国語習得意欲はというと、実用面からは随分と下がっている。
ただ、ティ連系種族との国際結婚が盛んとなっている為、配偶者や姻族の母語を覚えようという者は多い。
そういった動機で学ぶ者がもっとも多いのはイゼイラ語なのだが、これが学習者泣かせなのだ。
まず、イゼイラ人は一つの声帯に主音帯と副音体を持つ。その為、イゼイラ語のネイティブ同様の発声は、地球人には不可能なのである。
地球人がイゼイラ語を使う場合は、発声出来ない部分を、手話に近い規格化されたボディランゲージで補う事になる。
無論、PVMCGはボディランゲージにも対応していて、学習補助にも活用出来るのだが、手の動きを機械で補正される事に抵抗感を感じる者は少なくない。
大学で学ぶ第二外国語では、ティ連主要国の言語が選択肢として導入されているのだが、こういった事情から、イゼイラ語を学ぼうという者は少数派だ。
人気が高いのは地球人にも普通に発声出来る言語で、特にディスカール語やパーミラ語を選択する学生が多い様である。
ダストール語は単調で覚えやすいのだが、規格化されていない表情や身振りを交えなければ、相手との正確なコミュニケーションが取りにくく、イゼイラ語以上に、日本人には辛い言語と受け止められている(もっとも、他のティ連系種族の大半が「ダストール人はよく解らない」と言うのだが)。
一方、移住や留学によって日本の大学で学ぶティ連系の学生は、第二外国語の選択として地球の言語を選ぶ事が殆どだ。
意外にも、彼等にとって読み書きの修得が難しい中国語の人気が特に高いのだが、これは決して親近感による物では無い。地球で最も話者が多い言語という点が重視されているのと、「己の敵を知れ」との気構えからだという。
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小中高教育における英語科目の位置付けは、ティ連体制下の新カリキュラムとなっても変わる事が無かった。
ティ連系言語との選択制にすべきという意見も強かったのだが、当のティ連に共通言語が存在しないという事情もあり、実質的な地球の共通語である英語を、引き続き必須科目とする事になったのだ。
前述の通り、小規模な交易事業の起業ブームという事で、契約書類等のビジネス文書への対応能力を養うというのが、文部科学省の掲げる、英語科目を必須として継続する趣旨である。だが実態としては、従来の英語教員の存在が大きい。
ティ連系言語の教育導入を検討した際、既存の英語科目との選択制とし、余剰となった英語教員には早期退職を促してはどうかという意見が、文部科学省では相次いだ。これに対し、日教連が強く反発したのである。
経済的には、早期退職に応じてハイクァーンによる補償を受けた方が、教員の給与よりも遙かに良い。それを望む英語教員も実は少なからずいたのだが、教育者にあるまじき態度として、そういった声は日教連により徹底的に封殺された。
AIによる個別習熟度教育やPVMCGの活用についても、特に小中学校では地域によって判断が分かれており、導入を拒む自治体も、市区町村単位で少なからずある(全体のおよそ二五%)。
導入の有無は、英語教育では他科目以上に、生徒の成績へ大きく影響している。PVMCGを学習補助に使うと、標準的な知能さえあれば、中学生の段階でTOEICの高スコアを得るに至る事も難しくない。
実際、TOEICで九〇〇点以上を出したり、英検一級を取得する事で、私立高校/大学では入試の英語試験を免除するケースも多くなっている。
一方で、教育現場へのティ連技術導入を拒否している学校では、英語教員が旧来の教育手法に固執している。
成績の差という絶対的な評価を突きつけられても、彼等は全く退かない。生徒個々の「やる気」が第一と位置付け、竹刀を片手に根性論を振りかざすのみだ。
その様な方法を続けるのは、教員側の旧守的な態度だけが原因では無い。「努力」「忍耐」を徹底的に刷り込まれた管理教育世代の父兄の多くが、それを積極的に支持しているのである。
ティ連からの派遣教員や、留学を経て採用されたLNIF出身の教員もかなり増えているのだが、彼等はこういった、ティ連技術の導入を拒否している旧守的な学校への赴任を忌避する者ばかりだ。
結果、旧弊が新しい人材によって改められる事も無く、この問題は現在も続いている。
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ティ連の一員となるべく、移民を前提に日本へ留学を希望するLNIF加盟国の若者が激増しているが、彼等にとってもPVMCGは大きな福音である。
大学等の高等教育機関へ入学するには、一定の日本語能力が問われる事になるのだが、教育を受けるのに充分な日本語能力を持つ者は少ない。日本アニメの影響等で、自学により相当なレベルに達している者もいるが、全体としては少数派だ。
その為、留学希望者の大半は、まず日本の語学学校で学ぶ事となる。
従来の留学生向け語学学校の中には、就労目的の者が便宜的に籍を置く為の、充分な教育能力がない劣悪な物が多かったのだが、そういった学校は駆逐されている。
現在の語学学校の多くは、ヤルバーンが外貨獲得の一環を兼ねて経営に参画しており、その認可の元で、留学生にPVMCGを使用させているのである。
PVMCGによる学習効果は絶大で、一年以内に充分な日本語会話能力を身につける事が容易である。よって学習の大半は読み書きの習得に費やされる事になるが、留学を志望するだけあって、コンピュータの変換辞書を使えば、日本語文章の作成が出来る程度には上達する。
留学に際し、語学能力は従来から大きな壁なのだが、日本に関してはそれが随分と低くなったのだ。
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PVMCGを利用する語学学校は、日本で学び移住を望む者を対象とする物だけではない。逆の目的、つまり日本を去る為に学ぶ学校もある。
従来の自由主義陣営がLNIFへ再編する過程で韓国が放逐され、CJSCA陣営に加わった事により、在日韓国人の立場は極めて微妙な物となった。
過去に日韓で交わした協定は有効で、関係が冷却化した現在でも、特別永住者の地位が剥奪される事は無い。だがティ連としては、過去のいきさつから存在を容認せざるを得ない事には理解を示しつつも、敵性国家の国民が日本に居住し続ける事について、強い懸念をあらわにしている。
問題解決の為、日本政府は在日韓国人に対し、日本への帰化を促している。審査も一般の帰化に比べて緩やかになっているが、しがらみやプライドから拒み続ける者も多くいる。
では韓国に永住帰国するかというと、言葉の問題が立ちはだかる。韓国籍ではある物の、彼等の多くは日本語を母語として生まれ育ち、韓国語を解さない者が大半なのだ。
そこで選択肢を柔軟にする為、日本政府は、韓国に永住帰国を決断した在日韓国人に対し、住宅を市価の+αで買い上げ、さらに移住費用を支給すると共に、母語たる韓国語の教育を施す事にした。
そして、在日韓国人の永住帰国準備を目的とした、韓国語を教育する語学学校が設立されたのである。
日本で生まれ育ったとはいえ、CJSCA陣営、しかも敵性国家の国籍を持つ者に、教材用途とはいえPVMCGを使用させるのは、極めて異例の事だ。だがティ連も、在日韓国人問題の解決の為ならばと、日本の方針を容認した。
韓国は当然に日本へ抗議したが、彼等自身も少子化に悩む中で人口を補うべく、従来から在日韓国人の永住帰国を促す施策を取っていた手前、強い調子では無かった。加えて、帰国する者達が持ち込む日本円も、対日/対LNIF交易がほぼ途絶えた状況では、貴重な外貨である。
こうして、在日韓国人の内、永住帰国を決めた者達は、PVMCGによって本来の母語を身につけ、本国へと去って行く。
現在では廃止された、日韓を往来する高速船やフェリーは、運行末期にはそういった永住帰国者が主な利用客となっていた。
家族の内でも、韓国への永住帰国と日本残留/帰化で意向が分かれ、離婚や一家離散に繋がるケースも少なく無かったという。
彼等もまた、時代に翻弄されたと言えよう……




