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筒丼康隆死ね!

作者: 短小マン


「よう、親友。元気にしているか?」

 Yが家に尋ねてきたのは、忘れもしない2085年の七月十一日。日本の宇宙船『轟天号』が冥王星の衛星軌道に到着した日の事だった。

 おれにはYという友人がいるのだが、そいつは少し変わった男だった。その日も唐突におれの家を訪ねてきて、かの高名なる小説家、筒丼康隆氏を殺そうと持ちかけてきた。

「というわけで、筒丼康隆氏を殺すから、ちょいと手を貸してくれや」

「意味が分からないな。どうしておれが高名なる天才小説家、筒丼康隆氏を殺さなくてはいけないんだ」ちょうど実験が終わって、自宅で冷凍うどんを食って一息吐いていたおれは、ドンブリから顔を上げてYを見た。

「誤解しないで欲しいんだが、別におれは筒丼康隆氏が憎いわけではないんだ。むしろ、彼の小説は素晴らしいものだと尊敬している。しかし、だからこそ、殺さなくてはいけない。いや、殺すべきなんだ」

 対するYは、酒焼けした顔に精一杯の真面目な表情を貼り付けて、メリヤスのシャツにステテコ、それにラクダの腹巻きという奇妙な姿でおれに訴えた。

「いいか。これは筒丼康隆氏の為なんだ! 彼の名誉の為におれたちは筒丼氏を殺さなくてはいけない!」

「なんなんだよ、名誉って。殺す事が名誉の為になるって意味がわからないな。戦争をしているわけでもあるまいし」

「いいや、戦争はやっているぞ。我々は、かつての物理的な戦争など足下にも及ばない文化戦争を行っている! その戦争に勝利する為にも、筒丼氏は死ぬべきである!」

 Yは顔を真っ赤にして、持っていた刃物を振り回しはじめた。刃渡り九十センチの大なただ。おれはびっくりしてYから離れようとしたが、少し遅かった。左手の甲を三センチほど浅く切られ「ぎゃあ」と悲鳴を上げる。

「血、血だよ。血が出たぁ」

「うるさい、血がどうした! それよりも大切な事があるんだ!」

 だが、それでもYの興奮が治まる事はなく、彼は刃物を振り回し続けている。このままでは、危険だと判断したおれは、何とかYを説得する事にした。

「お、落ち着け。落ち着け。とにかくわけを話してみろ」

 最初のうち、Yは訳の分からない事を叫ぶばかりで会話は全く成り立たなかった。だが、少し暴れて興奮が収まったのか、あるいはおれの呼びかけが功を奏したのか、少しずつ会話に応じ始めた。

 それによると、Yが筒丼康隆氏を殺したがるのには、次の様な(Yにとって)切実な理由があったのだ。



 Yの話


 おれはいまSF文化圏に属して、文化戦争を行っている。

 文化戦争ってのは簡単に言えば、ミームを使った戦争だ。自身の属する文化圏のミームをより多くの人間に広げて、ミームを生き延びさせれば勝利する――いや、どっちかって言うと、いかに生存し続けるかが重要なのか。まあ、そういう文化闘争だ。

 ともかく、SFというミームを未来に残していく事が、いまのおれの関心事だ。別にSFファンを増やそうって話じゃない。結果的にファンとなる人間が生き残るかもしれんが、おれがやろうとしているのは、どうにかしてSFというミームを生き残らせるって話だ。その主体は人間ではなく、ミームなんだ。

 その為なら、おれは死んでもいい。

 いや、実際に死んだとしても何も問題はないんだよ。SFというミームが生き残るのなら、それはおれが生き残るのと何も変わりはないんだからな。おれはSFであり、SFはおれだ。

 重要なのはSFの生き残り戦略、それだけだ。

 その為に、筒丼康隆氏には死んで貰わなくてはいけない。それも今から六十年前に死んだ事になって貰う必要がある。

 その為に、おれはタイムマシンで六十年前の過去に飛び、筒丼氏を殺す。お前が運用している業務用タイムマシンを使ってな。おれは六十年前の過去へと飛び、筒丼康隆氏を殺害し、氏の著作を青空文庫のライブラリに連ねるんだ。

 青空文庫が誕生して、もう八十年の年月が経っただろうか。

 多くの小説家、童話作家、学者、ライター、雑文書き……様々な文章構築家共は名著奇書駄文を著して死んで行き、死後六十年の年を経て、めでたく著作権が失効しては青空文庫へと入っていった。

 そうして青空文庫に入った著作達は、文化戦争の大いなる助けとなった。やっぱり、ミームを広げる場合、『タダで見られる』ってのは重要だからな。小説だった頃は知る人ぞ知る程度だったミームが、アニメ化した事によって爆発的に感染拡大したなんて例は幾らでもある。

 青空文庫は、我々文化闘争者にとって非常に強力な武器なのだ。

 そうした武器のライブラリに、様々なSF作家が名を連ねているのに、筒丼康隆氏の名前はない。

 なぜなら、彼は未だに生きているからだ。

 そもそも筒丼氏は長生きしすぎた。

 なんなんだよ、御年百五十歳って。

 SF作家だからって、細胞活性剤でも投与したのかよ! メトセラの一族かよ! 長寿ギネス記録を更新してるんじゃねーよ!!

 最後に小説を書いてから、六十年以上も無駄に生きやがって! 少しはSFファンの身になって早く死ねって話だ! 知り合いに筒丼を勧めようとした場合、電子書籍の購入を勧めるか、実本を貸すしかないんだぞ。今どき骨董品の、モノによっては数百万もする実本をだぞ!

 旅のラオスの初版を貸したらよぉ! あの糞アマ「アイス零しちゃったぁ~」だぞ! ふざけんな!! こっちはミーム汚染させてSF狂いにし、同じミームを共有する事によっての好感度爆上げからの生ハメコンボをキメようと思っただけなのに、最悪だよ!

 だから、おれは決めたんだ。

 こんな悲劇は終わりにしよう。

 筒丼康隆の作品を青空文庫で読めるようにしよう。

 作家は作品を書かなくなったら価値なんてねぇんだからな。最後の作品が九十の時だから、その直後に殺してやれば、ちょうど今年で六十年だ。

 筒丼氏の作品が減る事なんてない。

 そもそも只の老人となった時点で、誰かがそうすべきだったんだ。あの毒に塗れた文章、人のやっている事をやるのが大嫌いな偏屈者の文章、そうした文章を書けなくなって、ただの老人に堕した時点で、誰かが彼を殺すべきだった。最後の作品を書き切って、満足した瞬間に殺すべきだったんだ。

 けれど、それから六十年も筒丼康隆氏は無様に生きてしまった。

 だからおれは、今から筒丼康隆を殺しに行くんだ……



 一言で言えば身勝手で、二言で言えば狂った妄言としか言いようがないYの話であったけれど、それを聞いて、おれは状況は理解した。

 こいつはおれが設計した業務用タイムマシンを使って、六十年前の過去に飛び、手に持っている大きな鉈を使って筒丼康隆氏を殺害し、歴史を改ざんする気なのだ。その目的は、筒丼氏の作品を青空文庫に入れようというものである。


 馬鹿じゃねぇの。


 おれは率直に思った。

 だが、そんな事を口にすればYが暴れ出すのは明白だったので、それは心の棚にしまって、説得を開始する。

「なあ、Y」

「なんだ」

「いいか。お前はタイムマシンの専門家じゃないからわかっていないだろうがな。基本的に時間旅行ってのは片道切符だ。過去だろうが未来だろうが、行ったら戻ってくる事は出来ない。おまえが筒丼康隆氏を殺しに六十年前の過去に飛んだ場合、現代に戻るためには六十年の時を過ごすしかないんだぞ」

「知っているさ。SF者をなめるなよ。だからこそ、こんな姿をしているんだろう」

 おれは改めてYを見た。

 メリヤスのシャツにステテコ、そしてラクダの腹巻きという姿を見た時は、発狂でもしたのかと思っていたが、その姿はYなりに現地に溶け込もうという工夫であったようだ。二度と現代には帰らない。そんな決意を秘めた姿だったのだ。

 もっとも、Yが飛ぼうとしている2025年には、そんな姿をしている人間はいない。Yの姿はもう少し前の時代の、いわゆる昭和のお父さんスタイルだ。

「金だって用意してある。筒丼氏を殺した後、おれは殺人犯になってしまうからな。逃走用の資金ぐらいは用意しとかんといかん」

 そう言ってYが腹巻きから取り出したのは、金のインゴットだった。どうやらYは持っている財産を全て金に変えてしまったらしい。だが、2025年の日本で出所不明の金のインゴットを現金化する事は難しい。かなり安く買い叩かれるのがオチだろう。

 その辺を、Yは何も考えていないようだった。

 勢いだけだ。

 Yは勢いだけで、筒丼康隆氏を殺そうと考えている。

「とにかく、落ち着け」

「落ち着いているぜ」

「刃物を振り回している癖に、なにを言っているんだ。それに、お前の用意って奴も、とてもじゃないが万端とは言えないぜ。そんな格好で2025年に行ったら、不審者どころの話じゃない」

「そうなのか? いや、おれもおかしいとは思ったんだけどな。どうもファッションってのは難しい」

「いや、普通に転写迷彩でも使えよ。その辺の通行人の格好を真似れば、問題なんて出ないだろう」

「成る程!」

「成る程じゃねぇよ! そんな事も考えつかなかったのかよ! そもそも当てもなく過去に飛んで、どうやって筒丼康隆氏の居場所を突き止めて、殺害するつもりだ。見ず知らずの男が尋ねていったって、筒丼氏が会ってくれるとも思えないぞ」

「安心しろ。おれは殺す事だけはちゃんと考えている。2025年の七月、筒丼氏は懇意にしている演出家のパーティーに出席する為、プリンスホテルへと出かける事が決まっている。これは主催者のエッセイに書かれているし、当時の関係者がSNSにも書き込んでいるから、まず、間違いない事だ。つまり、そこに行けば確実に、筒丼康隆氏がやって来る。それを殺せば問題はあるまい。なによりもパーティってのは大量の不特定多数の人間が出入りする空間だからな。殺害するにも、逃げるにしても、あんなに都合のいい場所はない。まあ、実際な。2025年で生活するとか、殺人犯として逃げ延びるなんてのは後付けだ。最初に言っただろ。おれにとって、筒丼康隆氏を殺す事だけが全てなんだ。それ以外はどうでもいいのさ。ただ、一応、死なないならそれに越したことはない。だから、その為の用意をしてみただけだ」

 Yの決意を聞いて、おれは戦慄した。

 何が何でも筒丼康隆氏を殺したいという、Yの恐ろしい信念がようやく理解できたからだ。憎しみや恨みではない、ただ理性によって発せられる『よし、殺そう』という純粋な殺意は、それが感情に由来していないだけあって、恐ろしく、おぞましく、なによりも説得が難しい。

 Yは、純粋に理性によって筒丼康隆氏の殺害を決心している。SF文化圏の為に、六十年前に筒丼氏が死ぬべきであると確信している。

 これを思いとどまらせるには、筒丼氏を殺さない方が合理的であると、Yの意見を翻させるしかないのだが、自分自身の命ですら、SFというミームの前では些末な事であると言い捨てるYを納得させることは難しく、おれはただ唸ることしかできなかった。

「どうやら、納得できたようだな。それじゃあ、タイムマシンを作動させてくれないか。おれはこれから2025年に行って、筒丼康隆氏を殺す」

「ま、待て待て」

「……なんだよ。まだ、なにか文句があるのか?」

 そう言うと、Yは大なたをちらつかせた。思わず、おれは怯えた顔をする。さっきYに傷つけられた傷が痛む。怖くなって「そ、そうじゃない。文句なんかないさ。おれは納得したよ。確かに筒丼康隆氏は六十年前に死ぬべきだ」と、必死にYの機嫌をとった。

「そうか。わかってくれたか!」

 Yは満面の笑みで、おれに抱きついて来やがった。刃物を持ったままだったので、おれは「ぎゃあ、危ない」と悲鳴を上げる。しかしYはお構いなしだ。お陰で肩が少し切れた。また、血が出て、おれは悲鳴を上げる。

 ややあって。

「と、とにかくだ。タイムマシンで時間移動をするのは簡単じゃないんだよ。座標計算だの、時間移動の差異に生じるノイズの除去だの、色々と計算をしなきゃいかん。マシンに年代を入力して『はい、いいですよ』ってわけにはいかないんだ」

「そうなのか?」

「そうなのだよ。わかりやすい話をしてやると、まず十年前に移動するとするだろう。だが、座標を固定したままで十年前に移動すると、その座標には地球がないわけだな。太陽系ってのは少しずつ銀河の中を移動している。また、その銀河系も少しずつ他の銀河に向かって移動している。地球ってのは全く同じ場所を自転しているわけじゃないんだよ。宇宙の絶対座標――それが存在するのかは置いておいて――を見れば、地球は常に移動している。毎年、同じように太陽の周りを回っているけれど、その絶対座標はズレ続けている。十年前の今日に、座標移動せず飛んだ場合、お前は宇宙空間に投げ出される」

「その辺の計算ってのは自動化されていないのか?」

「タイムマシンが一般的なモノになれば自動化するだろう。だが、今のタイムマシンは業務用だ。一部の業種が使う程度で専門性が高い、で、専門性が高いってのは、つまり専門家しか使わないわけで、細々とした設定ができる反面、使うにしても七面倒くさい仕様なわけだ。それに自動化と簡単に言うが、時空の座標計算なんてそうそう自動化できるものじゃねぇよ。馬鹿でも使えるようにスイッチ一つで簡略化するのは、もう百年先になるだろうな」

「なら、その計算はどれぐらいかかる」

「三日はかかる。座標自体を出すだけなら、割と早く終わるわけだが、人間を転送させるとなると、ノイズの除去をしなければならん。その処理と確認が実に面倒臭い。どんなに急いでも、それだけの時間がかかる」

「三日か。もう少し早くならんのか?」

 そう言いながら、Yはチラチラと刃物を見せびらかせてきた。どうやらこいつは、おれが刃物に弱いと理解して、それで脅しをかけてきたらしい。

 だが、おれは断固として首を振った。

「無理だ。生命体のタイムトラベルをする場合、座標計算には三日の時間を費やすのが鉄則だ。例外は無い」

「マジでか?」

「マシでだ」

 しばらくの間、Yは何度も刃物をちらつかせて、おれに脅しをかけて来たけれど、おれにもプロの意地がある。その度におれが頑として首を振った事で、Yは納得したらしい。

「仕方ないな。どうせ六十年前の七月十一日に行くのは違いないのだからな」

 そう言って、Yはおれの家に居座った。


 それから三日間、おれはYに監視をされながら過ごした。

 クライアントや各方面に平謝りをしながら、Yの為に業務用タイムマシンの設定をする。それは随分と神経を使う作業だった。Yはおれの友人であるが、そいつが刃物をちらつかせて、タイムマシンの設定を強要してくるのだ。

 これには少し閉口した。

 だが、悪い事ばかりでもなかった。刃物をちらつかせている以外、Yは普段のYと変わりない。元々Yは、冗談のわかる、気のいい奴だ。おれが真面目にタイムマシンの設定をしていると確信すると、Yは色々とおれの世話を焼いてくれた。具体的には家事全般を引き受けてくれた。これで、おれの仕事は随分と捗った。

 特にありがたかったのが飯だ。

 おれは一人暮らしをしているのだが、基本的に家事というやつが大の苦手で、特に炊事というものを毛嫌いしている。電子レンジで温める事すら、滅多なことではやらないし、料理はカップ麺を作るぐらいだ。それも作るのはスープタイプの物ばかりで、湯切りが必要な焼きそばだとかスパゲッティなんかは絶対に作らない。だから、飯は外食か出前、あるいは弁当ぐらいしか喰えなかった。

 しかし、Yは料理を趣味にしている男だったから、おれに料理を作ってくれた。久しぶりの手作りの料理は、実に嬉しかった。

 Yの料理はどれも美味かったが、特に美味かったのが川獺蟹のスープである。

 川獺蟹とは、バイオスフィアで繁殖されているバイオ蟹の一種で、川獺の遺伝子と行動様式、それに肉の味を持った蟹の俗称だ。正式名称は型番めいただったので、聞いた瞬間に忘れてしまった。おれにとって川獺蟹は川獺蟹だ。その甲殻からは真っ黒な水を弾く毛が生えており、水中を移動するのではなく、川獺のように泳いで河を渡る。また森に入っては小枝を拾い川にダムを造るという習性があるがこれは川獺にはないもので、遠く北米のビーバーが持つ性質であるらしい。一部の研究者達は、バイオスフィアにて川獺蟹を合成する時に、間違って川獺とビーバーを取り違えたのではないかと糾弾し、名を川獺蟹からビーバー蟹へ改めろと責任者に強く迫ったが、よくよく調べてみても習性以外にビーバーの遺伝的要素が発見される事はなく、川獺と蟹を足すとなぜかビ―バーとなるという自然界の不思議が判明したそうだ。その味は蟹と川獺を合わせたような味という事であるらしいが、おれは蟹も川獺も食べたことがないので真偽の程は定かではない。ただ、匂いは強いが旨い事だけは理解できる。

「飯を作ったぞ。少し一息入れたらどうだ」

 そう言いながら、Yはおれに川獺蟹のスープを振る舞ってくれる。

 こいつが、まあ、とにかく美味い。スープの色合いは黄金色。濃厚な獣肉の旨味と甲殻類の出汁が合わさって、旨味のハーモニーで頬が落ちそうになってしまう。

「堪らないな」

「そうだろ、そうだろ。だから、これで元気を付けて、早くタイムマシンの設定を終わらせてくれよ」

「わかっているよ、順調だ。最終確認のタスクも現在実行中になっている。後は、ここのボタンがグリーンになれば、実行可能だ。ちゃんと予定通り、明日には飛べるさ」

「そうか。ならいいんだ」

 Yは安堵した顔で頷いた。

 だが、次の日にYが六十年前へとタイムトラベルをする事はなかった。それは、おれが座標調整をミスしたわけではないし、タイムマシンそのものの問題でもなかった。

 Yがタイムトラベルをしなかったのは、Y自身の問題だ。彼が彼の判断によってタイムトラベルを中止――つまりは、筒丼康隆氏殺害を一時棚上げしたのである。

 なぜなら、Yがタイムトラベルをしたその日に、筒丼氏が六十年ぶりの新刊を発表したからである。

 その著作は『虚神たち』というタイトルの小説であった。それは筒丼氏が中年期に書き上げた実験作の続編とでも言うべき作品で、構想に五十年、執筆に十年の月日を費やしたという、怪物的長編だった。

 小説は徹頭徹尾に狂っていた。

 あらゆる文学的約束は解体されて、ただの羅列されたテクストが無味乾燥に並んでいるだけであるが、読み込んでいくと、その一つ一つが意味を持ち、万華鏡のように奇妙な物語が浮き上がってくるという、文学的精密さの粋を極めた、狂気的な藝術作品だった。

 世間は困惑と畏怖を以て、筒丼氏の小説を受け止めた。読めば正気を失うなどと、ドグラ・マグラ的な扱われ方もした。御年百五十歳の狂気的集大成に人々は恐れ、また作者に対して恐怖した。

 色々な噂が流れた。

 筒丼氏は六十年前からアルツハイマーに冒されていた。これはそうした痴呆症によって生じる妄想を、文学者筒丼氏が我々健常者に翻訳した小説である。

 筒丼氏は本当は、何千年も生きているメトセラの一族で、これはそうした異様な長寿によって完成された文学技術の結晶体である。

 筒丼氏は悪魔崇拝者であって、魔王サタンと契約したアンチ・キリストである。異様な長寿も悪魔と契約した結果である。この小説は悪魔崇拝者のバイブルとするためにアンチ・キリストたる筒丼氏が世にばらまいたので焚書しなくてはいけない。

 こうした噂は筒丼氏が、ある時期を境にメディア露出を徹底的に拒んでいる所為だった。彼が新作を発表したのは代理人を通してであり、出版関係者すら、筒丼氏の現状を知るものはいない。

 彼はただ生きていて、ひっそりと『虚神たち』を発表したのみである。

 そしてYは、発売された『虚神たち』を読みふけりながら、呻いていた。Yが筒丼氏を殺すと決意したのは、筒丼氏の作品を青空文庫入りさせるためである。

 筒丼氏は文学的活動をせずに、六十年も無駄に生きて著作権保護期間を無意味に延ばした、という事実がYの殺意の源泉だった。

 だが、その六十年は無駄ではなかったとYは知った。『虚神たち』は文学史どころか人類史に燦然と輝く傑作である。おれも少し読んでみたが、その内容の異様さと対比するような、脳へミームが注ぎ込まれてくるような感触は、果たしてこれを文学体験と呼んでもいいのだろうかと空恐ろしくなってしまうほどで、ミーム汚染という言葉の意味を心の底から理解させられた。

「ペンは剣よりも強しなんてことわざもあるが、実際に強いペンを見せられると、こりゃあれだな。剣なんて比べものにならないぐらいに恐ろしいな」

「ああ、そうだな……」

「それで、どうするんだ。やっぱり止めるのか?」

 一応聞いてみたが、Yはずっと視線を落としたままだった。Yは完全に『虚神たち』に心を奪われているようだった。

 それを見ておれは、これで殺人の片棒を担がなくて済むと安堵した。

 Yは百五十歳の筒丼康隆氏の価値を認めている。六十年の歳月を費やした文学的窮極藝術を受け容れている。そして、六十年前にタイムスリップをして筒丼氏を殺した場合、人類がどれほどの文学的損失を蒙るのかも、Yはよく理解している。

 まだ、腰には大なたを佩いているが、やがてYはそれを手放して、彼は家へと帰っていくのだろう。

 いや、Yに家はもう無いのか。奴は財産を全て金インゴットに変えてしまった。なら、それを現金化して、取り敢えずの住まいが見つかるまでは家に居候をさせてやってもいい。Yは料理だけでなく、家事全般が得意だった。

 家政婦を雇っていると考えて、少しなら給料を支払ってもいい。

 そんな事を考えていた時だった。

 Yは突然、読んでいた『虚神たち』をパタンと閉じると「よし」と呟いた。

「なんだ。どうしたんだ」

「行ってくる」

「行ってくるって、どこだ。買い物か?」

「いや、過去だ。最初の予定通りだ」

 そう言うと、Yはおれが止める間もなく、タイムマシンに飛び乗って、起動のスイッチを押してしまった。

 マシンの時間座標軸の演算は完了している。業務用タイムマシンは、引き絞られた弓矢のように、いつでも六十年前の七月十一日に飛ぶことができる状態になっていた。その弦を放つボタンをYは押した。

 Yはいともあっさりと時間遡行の矢を放ち、タイムマシンは起動して、青白い光を放ち始める。

「お、おい。いいのかよ!!」

 おれは後ずさりしながら、Yに向かって問いかけた。

 筒丼康隆氏は『虚神たち』という歴史に残る傑作を著したのだ。六十年の歳月は無駄ではなかった。ここでタイムマシンを使って、六十年前の筒丼氏を殺せば、この歴史的傑作はなかった事になってしまう。それはYにとっても耐えがたい事であるはずだ。『虚神たち』は純文学的傑作であると同時に、SF要素を多く含む作品であるからだ。それが消えるということは『SFというミーム』に命を捧げるYにとっても耐えがたい事に違いない。

 それなのに、なぜかYは笑っていた。

 穏やかな、何かを納得したような笑みだった。その笑顔の意味が分からず、おれは「おい」だの「どういうことだよ」だのという叫びを上げるが、ついにYは応えなかった。

 彼は無言のまま青白い光の中へと溶けていき、次の瞬間には跡形もなく消え去っていた。


 Yが過去に飛んでしばらくの間、おれは茫然自失としていた。空になったタイムマシンを眺めながら、どうしてあいつは筒丼康隆氏を殺そうという考えを捨てきれなかったのか。そんな事を考えていた。

 だが、所詮は他人の事である。おれはY本人ではない。幾ら考えたところで結論などでるわけもなく、すぐに考えるのは止めた。

 なにより、それよりも重要な事に、おれは気が付いた。

 筒丼康隆氏の傑作『虚神たち』が消失していないのだ。Yは筒丼氏を殺しに過去へ飛んだ。やつは有言実行の男であるから、心変わりなどすることなく、己の全知全能を使って筒丼氏を殺しに行っただろう。

 だが、筒丼氏が六十年の歳月を費やして完成させた『虚神たち』は、そのままの形で残っている。


 ということは――


 Yは失敗したのだ。

 彼は何らかの事件に巻き込まれて、筒丼氏を殺せなかった。あるいは、タイムマシンの不具合によって、目的の場所へたどり着けなかったのだ。

 その事を理解した途端、おれはどうしようもなく残念な気持ちになった。別におれはSFというミームの信奉者ではない。筒丼氏に死んで欲しいわけでもない。

 だが、Yというおれの友達が命がけで行った事が、全くの無駄になってしまった。それは酷く悲しくて、おれをセンチメンタルな気持ちにさせた。友人が命を賭した以上、それが正しい事であれ、間違っている事であれ、本懐を遂げて欲しいと思うのは、一人の人間として当たり前の感情である。

 そうした意味で、筒丼康隆氏が未だに生きているという事は、おれにとって――

「……残念だな」

 そう素直に思ってしまう。

 恨みはなく。

 殺意もなく。

 ただ、純粋に「筒丼康隆は死ぬべきだった……」と呟いた。


「大丈夫、筒丼康隆は死んでる」


 背後から、嗄れた声がした。

 おれは吃驚して振り返ると、背後に一人の老人が立っていた。歳の頃は八十以上だろう。顔には深い皺が刻み込まれ、髪や髭は真っ白で、目はくぼみ落ち、身体はぷるぷると震えている、恐ろしく歳を取ったご老人が、いつの間にかおれの家に入ってきていた。

「あ、貴方は……?」

「今の時代では筒丼康隆と呼ばれている男」

「げっ」おれは驚いて変な声が出た。「い、いや、そのさっきのは言葉の文で、別に本当に筒丼氏に死んで欲しいと思っているわけでは……」

 おれが必死に言い訳をすると、筒丼氏は寂しそうに笑った。

「そして、かつてはお前の友。Yと呼ばれた男だよ。六十年ぶりだな、親友。もっとも、お前にとっちゃ、たった今おれが消えただけなんだろうけどな」



 老いたるYの話


 順を追って話をしよう。

 まず、おれはタイムマシンに乗って、筒丼康隆氏を殺しに六十年前に飛んだ。

 おれは筒丼氏の『虚神たち』を読んで迷ったが、それでもやはり、筒丼康隆を殺す事に決めた。確かに『虚神たち』は恐ろしい小説だ。けれども、おれは筒丼康隆氏を殺す事に決めていたんだ。男が一度決めた事を少し都合が悪くなったからといって、取りやめる事なんてできない。違うか?

 どうしても筒丼康隆氏には死んで貰う。

 そう決意して、おれはタイムマシンに飛び乗った。

 突然の行動に見えたのは、そうしないと決心が鈍るからだ。それほど『虚神たち』は素晴らしい小説だった。おれの信念が覆ってしまいそうになる程にな……

 不可逆な時間遡行をしてしまえば、もうおれは筒丼氏を殺すしかなくなる。おれは自分の退路を断ったんだ。

 そうして、おれは六十年前にタイムスリップした。

 座標はお前が計算した通り、ドンピシャだ。2025年奥多摩の、人気のない森の中に辿りついた。そこに到着したおれは、金のインゴットを換金して当座の資金を確保すると、早速筒丼氏を殺害する為、筒丼氏が出席するパーティが催される、赤坂プリンスホテルに潜入した。ホテルのボーイに変装して、筒丼氏が一人になった瞬間、殺そうと思った。

 しばらく、筒丼氏は他のパーティ客と談笑をしていたが、やがて催したらしく、そそくさとトイレに向かった。チャンスだと思った。トイレの個室に連れ込んで、苦しまぬように一突きで殺してやろう。おれは何食わぬ顔で付いていった。

 だがな、おれが殺すまでもなく筒丼氏は死んでいたんだよ。たぶん、脳溢血だろう。トイレの便座に顔を突っ込んで、そのままぽっくり逝っていた。

 おれは心底驚いたよ。

 だって、そうだろ?

 おれは筒丼氏が百五十まで生きる歴史を生きていたんだ。それで、彼が無駄に生きすぎだと憤慨し、彼を殺す為に六十年の時をタイムトラベルしたんだ。そんな筒丼氏が、勝手に死んでいるんだから、混乱しない方がどうかしている。

 しばらく、おれは呆然としていた。

 すると、トイレの外から「先生、どうなされましたか?」なんて声が聞こえてくる。他の客が心配して、筒丼氏を探しに来たんだ。

 このままでは見つかってしまうと、おれは気が動転した。

 だから、とっさに転写迷彩を使って、筒丼氏の姿形をコピーしたんだ。探しに来た客は「先生、随分と遅くなってましたね」なんて気楽な調子で言ってくる。おれは適当に「うん」とか頷いた。

 そんな調子でおれは、筒丼氏に成り代わり、その場を切り抜けてしまったのだ。

 本人を掃除用具入れに隠してな。

 成り代わりは上手くいったよ。

 あの人は、当時既に九十歳のご老人だったから、少しおかしな事をしても頭にウロが来ているだけだと思い、誰も何も言わなかった。おれは酒に酷く酔ったふりをして、車で自宅まで運ばれた。そうそう、その時の車はガソリンエンジン車でな。内燃機関を使った車に乗ったのなんて生まれて初めて、振動が酷いわ臭いわで、気持ち悪くなって吐いてしまった。すると、周囲は余計に心配をしてな。「先生、身体をお大事にしないといけませんよ」とか言うわけだよ。それがなんだか可笑しくて笑いを堪えるのに必死だった。

 誰も、おれが偽物の筒丼康隆じゃないかなんて疑わない。いや、それが当たり前なんだ。2025年当時、転写迷彩なんて実用化されていなかったからな。

 だから、おれは何の問題もなく、筒丼康隆氏に成り代わる事が出来たんだ。

 Yは筒丼康隆になったのだ。

 そして世間を欺いていた。

 六十年間もの間、ずっとな。

 ああ、そうだよ。筒丼氏が小説を書かなくなってから今日までの六十年、おれは筒丼氏を演じ続けていたのだ。

 彼は九十歳で、最後の小説を著してすぐに死んでしまっていたんだよ。筒丼康隆はもう死んでいたんだ。全くもって天晴れな、生涯現役の人生だった! 彼の人生には無駄がなく、小説家として誇るべき人生を歩んで、天命が尽きたと同時に死んでいたのだ! 彼という存在を無駄に生かしたのは、偽物の筒丼康隆、つまりおれだ。筒丼康隆氏の無駄な長寿はおれが企んだ事だったんだよ。だいたい、普通の人間が百五十年も生きるはずがないだろ。その時点で明らかに不正が行われているのは明白だったんだ。

 だが、それでも、おれは筒丼康隆氏を演じる必要があった。『虚神たち』という、文学的終局的傑作小説のためにな。

 六十年後に『虚神たち』を世に出すためには、どうしても筒丼康隆という概念を殺すわけにはいかなかったんだよ。幸いにも『虚神たち』のテキストデータは、インプラントされたチップが記憶している。おれは一文字一句の間違いなく、いつでも『虚神たち』を出力する事ができる。抹消も止むなしと思っていた筒丼氏の小説が再び世に出す事ができるのだ。

 うん?

 いつでも出力できるなら、すぐに出版しても良かったんじゃないかって?

 まあ、確かにそれはそうだ。しかし、どういうわけか、おれにはそうした発想がまるでなかったんだ。六十年後に『虚神たち』を出す事ができると理解した瞬間に、その考えに取り憑かれ、他の選択肢が思い浮かばなくなっていた。

 あるいは、それは歴史の修正力というものだったのかもしれないな。そこでおれが雌伏の時を過ごせば、表向きの歴史は何も変化が起こらない。なら、そうするべきだと神だが蟹だか無神論者であるおれにはわからない、何者かがやらかしたのかもしれないな。

 ともあれ、おれは六十年間、待ち続けた。そして、一昨日、筒丼氏の代わりに『虚神たち』を発表した。

 もう、残っているのは後始末だけだ。

 おれが本物の筒丼康隆氏ではないと世間に公表するだけだよ。本物の筒丼氏は、六十年前に赤坂プリンスホテルで死んでいて、その遺体は家の庭の片隅に埋められていると発表するだけだ。

 そうすれば筒丼康隆氏は今年で死後六十年になって、その著作は青空文庫に入るって寸法よ。

 ただ一つ『虚神たち』がどうなるか。そればっかりは分からないけどな。

 なあ、親友。

 おれが読んだあの小説は、一体誰が書いたものなんだろうな。文体は筒丼氏のものなのだけれど、あれが書かれた時点で筒丼氏はとっくに死んでいる。家の中にあった創作ノートの山にも、『虚神たち』に関する記述は皆無だった。あの小説の本当の作者は誰なんだろうか。あれの著作権は誰が保持しているのだろうか。それこそ得体の知れぬ名状し難き何ものかが、それこそ神だか蟹だがか、あれの作者なのかな。

 そうなると、あれの著作権が切れて、青空文庫に入るのは一体いつになるのだろう。

 それだけが、ちょっとおれはちょっと気がかりなんだ。

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― 新着の感想 ―
[一言] ・短編としては文章が冗長。作品にとって不要な情報が多すぎる。 ・実在の作家をモデルにしたキャラクターを登場させる必然性が感じられず。 「虚人たち」という作中作品も、この作品でなくてはならない…
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