突然、詩の話です。
『が』はあまり好きではありません。出来るだけ『は』を使いたいのです。
突然すいません。やわらかい調子の詩の文で使う助詞の話です。なんだかそうなのです。『が』は固いように思えます。わたしの勝手な感覚ですけれども。
例えば、
「春雨は朱の橋を濡らす」と、
「春雨が朱の橋を濡らす」では、
やはり『は』のほうがいいでしょう。
しかし、重い調子の文には『が』の方が似合います。
例えば、
「遠くて近い闇がいる」と、
「遠くて近い闇はいる」では、
『が』のほうがはっきりと闇が見えます。
また、これはわたしなりの思いですが、ひらがなと漢字の使い分けも大切だと思っています。
また、例を挙げますと、
「哀しみ」と、
「悲しみ」と、
「かなしみ」では、
それぞれに印象が異なります。相応しかろうとおもう言葉をつけるなら、
「しみじみとした哀しみ」
「痛切な悲しみ」
「われわれのかなしみ」
と、いったところでしょうか。
最近、わたしが何を思って詩を書いているのかというと、『分かるものにしよう』と、いうことです。そうすると、どうしても散文的になりがちですが、そこをがんばってせめてポエムまで持っていく。出来ればポエム的でありながら詩的であろうとする。
わたしの思う散文とは、説明が作中で完結している小説と名乗らない詩文のことです。叙情的で私的な内容です。わたしの作品では、『建て替えられた病院と父母との夢』が多分に散文的な内容を含んでいます。これは、ほぼ散文でしょうね。
ポエムとは、素直で叙情的で幻想的な詩と思っています。かつ、分かり易い言葉で出来ている。しかし、分かり易い詩が簡単な詩だという意味ではありません。伝える努力を失っていないと言いますか、受け取り手を想像しながら語り掛けるものという感じでしょうか。これもわたしが勝手に思っているだけです。これが答えではないでしょう。
では、詩とは何かと考えると難しすぎてはっきりと言えません。けれど、理想の詩の形を求めて試行錯誤を繰り返している中で、過去の自分の作品を見たり他の方の作品を読ませてもらったりしていると、やはりその世界(叙情も含む)に放り込まれる詩や、新しい世界の切り口を鮮やかに見せられる詩がいいなと思います。酔える詩や新しい詩と言いますか。どうしても、自分の読みたい詩を理想としてしまうのは仕方ないかも知れないですね。
わたしが詩を作るときには、まず浮かんできたフレーズを追って、繋がる言葉をとりあえず打ち込んで、まとまったら推敲します。
そのときにイメージが見えてきます。あるいは湧き出してきた着想の正体とでもいうべきそれを掘り出そうとする作業こそが、わたしにとっての詩作なのかも知れません。
着想したフレーズまたはイメージから、思いがけない作品が生まれることもあります。わたしは動物が好きなので、それが詩の中にも出てくるのでしょうか。わたしの『アライグマとカワウソ』という詩には、題名の通りの動物が出てきます。猫も良く出てきます。
結局、小説でも詩でもエッセイでも、湧き出てきた着想や言葉を形にすることがわたしは嬉しいのでしょう。自分自身の在りようを承認するかのようにその作業をすることで、自分の分身を残しているのかも知れません。なんとも頼りない分身たちではありますけれども。