逃れられぬ終焉
ザブンと水に打ち付けられる音が聞こえた。肌に触れるぬるい感触にはっとする。流れのない穏やかな場所だ。波と言えば、自分や周りの仲間が起こす程度の小さなものしかない。それにずいぶんと明るい。水は澄んでいて、光の色が全て入ってくる。どうもかなり浅い場所のようだ。
見渡す景色は見慣れない。見たこともないほど色とりどりな岩と、不格好に直立した動物がいる。泳ぐのが下手そうなその動物は、人間と言うのだと昔聞いたことがある。水の上の世界で暮らしているいきものだと聞いていたが、まさか水の中でも暮らせるなんて。
興味に駆られ、一番近くにいた人間に近づいてみた。が、触れそうになったところで見えない何かに行く手を阻まれた。ゴツンと固い感覚が額にぶつかり、じんわりと痛みが広がる。ぱくぱくと水を飲み込んで、とりあえず痛みを紛らわせた。
泳いで何度もぶつかってわかったが、ここは見える景色よりずいぶん狭い場所だった。どういうわけか、ある場所まで行くと見えない何かに遮られてそれ以上進むことができないのだ。閉じ込められている、というべきだろうか。
そうだとわかったら、別の問題に気付いた。食べ物はどうすればいいのだろうか。ここには仲間が詰め込まれているだけで、食べられそうな小魚やエビなんかが見当たらないのだ。逃げ道はないし、もう飢えるしかないのだろうか。
ザブンと泡音がした。圧迫してくる波に気付き、慌てて振り返る。そこには枠に糸を絡ませた物――網があった。
そうだ。確か網に、あれよりもずっと大きくて太い網の中に入ったんだ。それでこんな狭い場所に閉じ込められてしまった。あの中に入ってしまったら、今度はどれだけ小さい中に放り込まれてしまうだろう。
捕まりたくないという思いだけが体を動かした。尾を全力で振り、網から遠ざかる。どうにか逃れることはできた。が、逃げ遅れた仲間が網の中に閉じ込められてしまった。逃れようと懸命に暴れ、尾が水面を叩きつける。だが網は水の上に行ってしまった。連れ出されてしまったら、もうどうにもならない。
網の中の仲間は無造作に落とされた。水のない場所で、彼にできることはもうほとんどない。人間は、それでももがく彼を眺めていた。とても高い声だ。
白っぽい人間が、きらきら光る細い何かを持ってきた。そして、光る物を捕らえた仲間に向かって勢いよく振り下ろした。ダンッと鋭い音がした。仲間の体は、頭と離れていた。赤くどろどろした物が仲間の周りに広がっていく。頭を切られた仲間は、もう動かなくなっていた。
人間はやはり真剣にその様子を見つめていた。鱗が削がれ皮を剥がれ、淡い赤色の身が剥き出しになると、高い声で喚いた。喜んでいる。その事実に、ぶるりと体が震え上がる。
淡い赤色の身は、光る物のためにどんどん小さく分けられていった。仲間だったはずのそれは、ただの肉塊と化していた。つやつやとみずみずしく、張りのある肉。それが同族の物だと知らなかったら、どれだけ美味しそうに見えたことだろう。
人間は切り身になった仲間を掴んだ。そして、口の中に放り込んだ。誰の喉からも、ゴクリと飲み込む音が聞こえた気がした。食べているのだ。人間達にとって、自分たちは食べ物でしかないのだ!
ビビッと素速く理解が駆け巡った。悟ってしまったのだ。彼らは食べるためにここに閉じ込めた。水の上を行けない以上、逃げる術はない。網から逃げ切れば食べられずに済むかもしれないが、それも難しいだろう。飢えるか捕まって食べられるか。その二つしか、選択肢は残されていなかった。
ザブンと水に潜り込む音が聞こえた。恐怖の存在、全ての元凶たる網が眼前まで迫っていた。慌てて尾を振り、遠ざかろうともがく。目の前にふわりと糸が現れて、体を絡め取られてしまった。網のない場所、開いた空間を目指してもがく。暴れる度にしぶきが自分にかかる。糸が絡みついてくる。いつもは乾燥から守ってくれるはずの湿り気が、今はただ網の凶悪さを増していた。
ついに体が水上へと持ち上げられた。相変わらず網はヒレに尻尾にまとわりつき、離れてくれない。もうどうしようもないと、頭の片隅では理解していた。それでも、もがかずにはいられなかった。
これから人間達に切り裂かれ食べられてしまうのだ。その事実が本能をかき立て、ただ逃げるようにと指示する。逃げ道はないのだとわかっていても、本能は命令を変えることはない。
相手が人間でなくとも、食べられるときは食べられるのだ。そう思うことで、すこしは気を紛らわせようとした。けれど海の中で食べられてしまうのとは明らかに違うのだと、もう悟っていた。
ああ、どうして、奴らはこうも理不尽なのだろうか。凶悪な歯を持ったサメも、素速く追いかけてくるマグロも、仲間と力を合わせれば逃げて生き残ることもできる。だが奴らは、その小さな希望さえも与えてはくれないのだ。逃げられぬよう閉じ込めて、絶対の死を一方的に押しつける。
ドタンと体が打ち付けられる。人間がこちらを見ている。頭上できらりと何かが光った。ああそうかと、ようやく理解した。
これが、絶望というものなんだな――
ダンッという鋭い音を、最期に聞いた気がした。
アザとーさんからのリクエストで「いけすに入れられた鰤が死を目前にして思うこと」でした。
本文中に「鰤」という単語が入らない悪い癖が発動しました。
あと、人間以外の動物は生前死を意識しないと言われますが、細かいことは置いておきましょう