[途絶]文化的なサークル 後半
前半よりの続き。執筆は中途で途絶。
次の日、月子から電話がかかってきた。いつものように、早朝に連絡をよこしてきた。
「ねえ、いまから遊びに行っても良い?」
「うん、まあいいけど、珍しいね、くる前に電話してくるなんて」
それだけ簡潔に話して電話を切ったが、しかし断っておけばよかったと後悔した。いつかははっきりと、家に来るのを拒絶せねばならない時が来る。継続的に海田さんから仕事を請け続けるためにか、道徳の問題としてか、世間体のためにかはわからないが、このまま三十前後の不安定就労者と前途多望な秀才美少女がともに部屋で過ごすという犯罪的状態が許されるはずがない。だが、月子の声のトーンが暗かったのが少し気になった。電話してくること自体が変ではあるのだが、僕の家に押し掛けるのに許可を求めるかのような言い方は普段しないはずだ。本当ならば「いまから行くから」でなければおかしい。
考えていると、もうベルが鳴った。早すぎた。もうアパートの前まで来ていて、外から電話をかけたのに違いなかった。にっこり笑って月子は言った。
「ダーリン、来ちゃった。ハイこれ」
相変わらず僕のような箸にも棒にもかからない人間をおちょくって楽しむのが趣味のようだ。手渡されたビニール袋にはオリジン弁当と猫缶が入っていた。
「ありがとう。ダーリンてなんだよ」
受け取りつつ答えたものの、返事はなかった。
「タロウ~元気か~」
本の山をどけながら猫を探す月子。だがタロウは出てこない。
「あれ、タロウ今日はどうしたの?」
「さあ、まだ寝てるんじゃないのかな?」
「いつもあたしが来ると起きてるのになあ……」
それはいつも月子が玄関のベルを何度もやかましく鳴らすからだ。今日だって実は寝ているのではなくて怯えて隠れているだけなのかも知れない。
「ま、しょうがないか。そのうち出てくるよね」
僕の机のイスに腰掛けると、月子は携帯のカメラで部屋の写真を撮り始めた。
「なに、どうしたの?」
不安になって聞いてみると、
「いや、部屋の模様替えしようかと思って。家具をどんな風に置けばいいかな~と思ってさ」
「え、模様替えって、何、俺の部屋の?」
「そうに決まってるじゃん。こうして写真まで撮ってるんだから」
「いやいや、俺の部屋の模様替えは自分で考えるからいいよ、悪いけどさ」
「え~、いつもこうして遊びに来てるんだからさ、あたしにも模様替えをする権利があると思うんだよね。部屋を過ごしやすくするためなんだしさあ」
どういうつもりなのかは知らないが、これまで以上に僕の部屋に居座る腹でいるらしいのはなんとなくわかった。ここは一つはっきり言っておかなくてはならない。
「この際だから言うけどね、君がここに遊びにくるのはまずいんだよね。色々とさ。わかるだろ?」
「どうして?」首を傾げて可愛らしく問うてくるのが憎らしい。頭がいいくせにバカを装うのは罪悪だ。知っているくせにとぼけるのは説明の手間を相手に要求するあつかましい罪だ。
「いいかい、ぶっちゃけるとね、君が遊びに来ているのがもし近隣の人に知られたら僕はここを出て行かなくちゃいけなくなるかも知れないんだよ。俺みたいなオッサンが女子高生を家に呼んでるなんて知れたらちょっとしたことだよこれは」
「いまどきそんなことあるの? でもわかった、いいよ、それなら今度から平日でも制服は着てこないよ。それだったらいいでしょ?」
「あのね、そういう問題じゃないんだよ。それにね、制服を着てなくたって、俺の気持ちが落ち着かないんだ。俺は色々と将来のことを真剣に考えなくちゃいけないんだよ。いつまでもフリーターやってるわけにはいかない。文筆で立とうと思うんだったら、そろそろ身を削るような努力をしてでも間に合わせなきゃいけないタイムリミットなんだ。そのためには一分一秒が惜しい。こういうことは言いたくないけども、君の相手をしている時間も本を読み、文章を書く時間にあてたいんだ本当は」
「そんなの、あたしがいるときにも存分にやってもらっても構わないよ、別に。やってればいいじゃん」
「そうは言ってもね。とにかく落ち着かないんだよ。一人でやってたいんだよ」
「あたしのこと、キライだったりする?」
キライだ、と喉もとまで出かかったが、本当に嫌いなわけではないので我慢した。好きか、と聞かれたら、まあ、別の出会い方をしていたら気にはなっていただろうと答えられるくらいには僕にとって魅力のある異性だとは思うが、所詮は金を媒介にして繋がっている関係だ。
「嫌いじゃないよ、あたりまえだけど。でもどんなに好きな人間とだって二六時中一緒に居たいと思うわけないだろう?」
「じゃ、やっぱり好きなんだ? あたしのこと」
「どうしてそう極端なんだよ……」
どう説得しようか考えていると、月子の手のひらが目の前に差し出された。
「……何?」
「ちょうだい、合鍵」
まじまじと顔を見つめあったが、どうやら真剣らしい。
「なんだよ、なんかあったの?」
「なんにもないけど。だってこの部屋居心地いいし。もしスギヤマ君が一人で集中したい、って言ったらそのときは喫茶店にでも行ってるからさ。家賃とか光熱費だって払える範囲で払うよ」
「合鍵わたすってのは、ふつう同棲する人同士でしかしないことだよ。分かってる? そんなに気軽にすることじゃないんだ。ハッキリ言っちゃうと、君と俺とは他人同士だよ。判子やら財布やら、君は盗みはしないだろうけど、もし何かあったら君を疑わなければいけなくなる。悪いけど、君の事を完全に信用できるような家族みたいな仲でもなければ恋人ですらないよな、俺たちは」
子供に諭す調子でゆっくりと説いた。が、どうせこんなことは月子には分かっている。それでも合鍵が欲しい事情があるのだ。それをわかっていながらこんなことしか言えない僕は、要するに月子を拒絶するという意思表示をしたということだ。意思表示の時は、思っていたより早く来た。きっと家庭でなんかあったのだろう。親子喧嘩でもしたのだろう。本気で家出をしたいと思っているのだろう。それでも、月子の絶体絶命のピンチのときに、僕は彼女を救わないと、立場表明をしたのだった。
手のひらを差し出したまま動かない月子の、アイドルにでもなれそうな大きな目から、涙が溢れてあごへと落ちた。くちびるが震えているが、決して表情は崩れない。きっと少しでも油断したらへの字口になってしまうのだろう。
「……わかったよ。涙拭いてよ。ほら、この鍵持ってっていいから」
「いいの?」
「ただし一週間だけね。何があったか知らないけど、それまでになんとかしなよ。あと、ウチに来るときには周りの目によくよく気をつけること。わかった?」
「うん!」
月子はそう小さく叫んで、よりによって涙と鼻水を僕のTシャツで拭いた。
とりあえずその日は夜十時くらいまで僕の家に居て、それから海田家の近くまで送っていった。これから毎日送っていかなければならないのかと考えるとかなり面倒に思えたが、帰りに海田さんが僕と同じ歳のときに建てた立派な一軒家をみていると、あんな、中に幸せしか詰まってなさそうな家の中に、どういう問題が起こりうるのだろうと不思議に思わずにはいられなかった。
先日の対談テープの起こしが終わったので、海田氏に納品に行くことになった。原稿だけなら既にメールで送ってあるのだが、テープの返却をしなくてはいけないし、海田氏は紙に印刷した原稿をも要求するので宅急便で送るか持っていくかしなくてはいけない。インク代もバカにならないし向こうで印刷して欲しいとも思うけれど、サービスの一環として僕が家で印刷することにしている。本当は面倒だから送ってしまいたいのだが、暇なので持っていくことにした。外に出るのを億劫がっているうちに、出版社へ着いたのはもう夜八時になっていた。
「お疲れ様です」
「うす、お疲れ」
海田さんは帰り支度をしているところだった。
「これ、原稿です」
「ああ、ありがとう。机の上に置いといて」
「今日は早いんですね」
「まあ、たまにはね。今日はめずらしくやることなくて」
海田氏はいつも大体夜の十一時くらいまで会社にいる。平日は家には寝に帰っているようなものらしいが、好きなことを仕事にしているから全く苦にならないのだろう。いつみても彼より十五歳若い僕よりも全然楽しそうだし元気そうだ。
「そうだ、時間あるし、晩飯でも食いに行こうか。メシ食ってないよね?」
例によって海田さんのおごりで食べに行くことになった。僕と海田さんは同じ所沢市に住んでいるので、所沢の居酒屋に行くことになった。なんでも海田さんがよく一人で行く店だとかで、隠れ家的な店として「通」の間では流行っているらしい。所沢で降りて、プロペ通りを抜けて路地に入ったところにある地下の店に入っていった。確かに西欧風でもあり和風でもありアート系でもある、「通」の好みそうな店構えと内装だった。出てくる料理は串焼きがメインだったが、オリーブ油や魚介類を使った料理も旨かったし、一番旨かったのはおぼろ豆腐だった。
「いやはや、今回は助かったよ」
少しく酔ってきた海田さんが、箸を休めてしみじみ言った。
「テープ起こしですか? まあ、前もやってますし」
「いや、それもそうなんだけどさ」
「はあ」
それきり何も言わないので、要領を得ない。すると唐突に、また海田さんが言った。
「実はさ、うちの奥さんと娘が喧嘩しててさ」
「あ、そうなんですか。意外ですね。海田さん家はごく円満なんだと思っていました」
「いやまあ、普段はそうなんだけどね。娘も難しい年頃じゃん? いま高校一年生なんだけどさ。親の俺がいうのもなんだけど、あいつは頭いいんだよ。だからその分独立心も強いわけ。で、将来のことなんかも自分で細かくしっかり考えてるし、うちでの生活の仕方も自分なりのやり方でやりたいと思ってるわけよ。それを、陽子が――あ、うちの奥さん陽子っていうんだけど――気に入らないんだなあ」
「あらあ、そうなんですかあ」
こないだの月子の涙が脳裏に浮かぶ。やはり僕の予想は間違っていなかったらしい。
「具体的にどういうことで対立してるんですか? って聞いちゃっていいんですかね」
「いいよ、全然。今日は最初からこれを「相談」するつもりだったからね」笑いながら海田さんが言った。
「例えばさ、前にも言ったけど、娘は将来経済学とか経営学とかをやりたいそうなんだよね。それで、大企業相手の経営コンサルタントか何かになって、それから独立して事務所を作る、っていうところまで心に描いているようなんだ。それが陽子には気に食わない。なんでかっていうと、まあ古い頭なんだね、女がそんなことする必要はない、ってこれだよ。まあね、陽子の言いたいこともわかるんだ。男女平等だなんて言われているけど、実際男女差別ってのははっきり残っているよ。まだあと最低三十年くらいは消えないだろうね。そのくらいすごいよ。社員の数にもはっきり表れてるし、なにより男の側の発言がひどい。女ってだけで一くくりにして、女はダメだとか、女はバカだとか、あるいはその逆にしても、女は細かい気配りが得意だとか、人当たりが柔らかいとか、そんな先入観だらけだよ。スギヤマ君は会社組織で働いたことないだろうからあんまり意識したことないかもしれないけど、俺も社会人になりたてのころはびっくりしたなあ。そのくせいい年した中年のオッサンが、恋愛や性欲の対象になった女には、まるで崇拝しているかのような振りをするんだから汚いよね。ま、話は逸れたけど、俺も娘はきっと自分が思い描いている通りの人生は送れないと思うんだ。好きな男でもできて、結婚して、子供を作るか作らないかとかっていう話になったら、どっちに転んでも重荷になるよね。結婚して子供が欲しい、って強く考えるのは意外にも男のほうが多いみたいなんだ。すると子供を作らないことにしても男との関係は難しいことになるだろうし、作ったら作ったで子育てやなんかは嫁さんの仕事におおかたなるだろう? すると実際独立するなんていう話は遠い世界のことになっちゃうんだよなあ。まあもちろん今は色々なサービスがあるから、決して全くの不可能事というわけでもないのだろうけど、朝から晩まで子供はどっかに預けっぱなしでも確かに子供は育って独り立ちはするだろうが、果たしてそれは子供を作る意味があったのか、っていうことにもなりかねないよね」
「結婚しないっていう選択肢は、当然親御さんの目から見たら……」
「そうだね。独りで生きるなんて、そんなにいいもんじゃないよ。うちの会社にも四十過ぎて独身の人は何人かいるけど、やっぱり老後のことみたいだよね、心配なのは。どうやら、将来老人になって体が動かなくなって生活をどうするか、とかっていう話じゃなくて、寂しいんだって、独りの生活が。実際に強がって独身を貫いていた人が四十半ばにして突然結婚、なんていうこともよくあるよね。あと、親の面倒をどうやってみるのか、って問題もある。まあ俺んちは一人娘だし、あいつが嫁に行ったら自分たちのことは自分たちでどうにかしようって、今から陽子と話しちゃいるけれども」
「じゃああとは、よっぽど理解のある主夫みたいな旦那さんをもらうしかないですね」
「そうだねえ。そんな人いるのかね。テレビのドキュメンタリーなんかにはたまに出てくるけどさ。それにそもそも娘の仕事ってのがうまくいくのかもわかりゃしないし。もし失敗したときのことを考えたら、旦那も旦那でなにがしかの仕事をして安定してたほうが安心だしなあ」
話を聞けば聞くほど両親は娘の理想の生き方を認めはしないつもりのようだった。失敗例だけが先に脳みそをふさいでいて、月子の主張が通る道筋がない。普通にOL的な仕事をしながら結婚をして、夫婦で共働きをしていたとしても、人生に失敗はありうるというのに(ともすればそういう月並化した安定モデルを漠然と指向することこそがこれから先の時代は危ないと言う説もあるくらいだが)、その可能性は排除されている。これを「頭ごなし」と言うのではないだろうか。月子は高校生だし、自分の説が正しいんだといくら話しても、経済的に親に依存している限り、どうしてもどこかで親の意見に従わねばならない。聡い月子からしてみれば、親に依存していながらにして親の意見を突っぱねるのもできないのだろう、多分。そのぐらいの自己批判はしてしまう変な真面目さがあるやつなのだ。しかも我が強いからそういう家での状況に耐えられないのかもしれない。
「むずかしいですねえ」
「そうなんだよ。俺としてはさ、そんなに娘の人生を縛ろうなんてつもりはないんだよね。それに今時の高校生にしては将来のこともちゃんと考えてるほうだと思ってる。親バカだけどね。でも、世の中の現実を知っている人生の先輩としてはさ、やっぱり思うところも色々あるわけだよ」
人生の先輩、という言葉に僕は引っかかりを覚えた。海田さんが社会人になって思い知った色々なことが、そのまま月子の社会人生活に応用できるのだろうか。そういう保守的な思い込みが、子供の人生をゆがめているんじゃないかという内省は、「人生の先輩」には訪れないのだろうか。大昔の階層が固定していた時代であればむしろ親の言うことには従っといたほうが合理的だったのだろうが、今は技術革新の時代であり、それに伴って社会の法則もどんどん変わる時代だ。月子にしてみれば、いまだにICレコーダーの使い方も分からない親達に自分の人生をとやかく言われたくはないんじゃないか。
気付けば僕は酔った頭で相当月子に肩入れした考えをめぐらしていた。僕自身が親にかなりの暴言を吐いて家を出てきた経験があるために、こんな風に考えるのかも知れない。
「それだけじゃないんだよ」
「他にも問題があるんですか?」
「その喧嘩の種がね。将来の話だけじゃなくて、娘の生活態度も陽子には気に入らないんだよ。俺は普段仕事で家にいないから、休日の様子しか直接は見ていないけれど、娘は自分が勉強ができるってことを良く知っているし、そんなにガリ勉しなくても一番がとれることもわかっている。だから家では結構奔放なんだよね。なんていうのかな、どうせ一番はとれるんだから、おとなしく机で勉強をしてなくちゃいけない理由はない、親の言うことなんて適当に聞いとけばいい、って考えが態度に出ているというか。例えば陽子がメシを用意しても平気で食べないことがあったりするし、土日は必ず勝手に外に出て夜遅くに帰ってくるし、あと部屋の片付けは全然しないし。恥ずかしながらうちの娘は何でも面倒なことは人にやらせようとするところがあって、そこは俺も育てかたを間違ったかなあと思わないでもないんだけど、またそれを陽子が厳しく叱るんだよね。昔はそんなに大声を出したりしなかったんだけど、最近娘が言うことを全然聞かなくなったから、隣近所まで響いてるんじゃないかってくらいでかい声で怒鳴るんだよな……」
「そうなんですか……」
酔っ払っているとは言え、そんなことまで僕に話してしまって大丈夫なのだろうか。土日に夜遅くまで外出してるっていうのは、僕にも責任のある話なので内心動揺していた。
「こないだなんか手が出ちゃったこともあってね。初めてじゃないかな、陽子が叩いて言うこと聞かせようとしたのは」
「はあ」
段々居心地が悪くなってくる。他人の家のひどい事情を聞くのは悪い気がしてくる。海田家の奥さんや月子は、こんなところで自分たちの話が赤の他人に漏れ出ているということを知らないだろう。
その後は段々酔いが深くなった海田さんが、とりとめもない社会批判をいつもの調子でやりはじめて、一時くらいまで飲んで、タクシーで新所沢へ帰った。
熱を持った頭を冷まそうと、コンビニで冷たい缶ジュースを買って飲みながらフラフラとアパートへ戻ると、電気がついていた。消し忘れたかと思ったが、僕のより一回り小さいスニーカーが玄関に脱ぎ捨ててあった。
「ただいまー、来てたんだ」
海田さんから話を聞いてきたばかりだったのだが、こんな時間まで帰らないでいるってことはただごとじゃない気がしてきた。そしてその予感は当たっていた。狭苦しいキッチンを抜けると月子が僕の机に突っ伏していたのだが、
「おーい、寝てんの?」
声をかけても返事しない。でも寝てるわけでもなさそうだ。夏なのにカーディガンを羽織って来ていた。猫は、と探してみると布団から尻尾がのぞいていた。
「そろそろ帰んなくていいの?」
カバンを壁にかけつつ聞いてみたが、やっぱり返事がない。そのうち肩が震えだし、犬の鳴き声みたいな甲高い音が漏れ、泣いているんだとわかった。
「どうしたの? なんかあったの?」
何も知らないふりをして聞いてみたが、返事はない。かといってこのまま知らん振りして寝転がるのもまずかろうと思われた。
「黙ってちゃわかんないよ」
月子の肩に手を当てて言ってみたら、ようやくこちらに顔を向けたのだが、その顔は、泣いているのもあったが、何より頬やまぶたが腫れてぐちゃぐちゃだった。唇にいたっては腫れるだけでなく血が固まっていた。
「うわ、すぐ氷とってくるから、じっとしててよ」
冷蔵庫を開けたが、普段使わない氷は冷凍庫の中ですら半分蒸発してしまっていた。しかし今は氷を作っている暇がないので、トレイに残っている氷のクズをビニール袋にかき入れて差し出した。黙ってまぶたに当てる月子。
「どうしたんだよ一体」
どうしたも何も、殴られたんだというのは一目瞭然だったのだが、まさか母親がこうもあからさまに暴力を振るっているとは意外だった。海田さんの話だと、奥さんは普段全然殴ったりしない人のはずだったが、これを見ると怪しいものだ。海田さんも僕には隠していたのか、それか海田さんの居ないところで暴力は日常茶飯だったのかもしれない。相変わらず月子は黙ったままだ。既に泣き止んだのか完全に無表情なのだが、涙の残滓が頬をつたっている。
「とりあえず横になったほうがいいよ。そんだけ腫れてたら熱が出てるかもしれない」
素人診断でそう良い、干しっぱなしの洗濯物から適当にTシャツと半ズボンを取ってやり、月子に貸した。タオルを絞っている間に着替えてもらい、たらいに水を張って枕元に置き、濡れタオルを額にあてた。その間もずっと月子は無表情だ。まるではじめて看病をされる子供のようだ。
「どうしたもんか……」
つい独り言が出る。今日ばかりは海田家に帰さないほうが良いだろう。合鍵を渡しておいて結果的には正解だった。
「鍵を渡しておいて正解だったな」
頭で考えたことがそのまま言葉になってしまう。
「そうでしょ? 今日は家出をしてきたんだ」
やっと開いた口からは、場違いな感のある能天気な台詞が出てきた。
「家出って、お母さんと喧嘩したの?」
「喧嘩っていうか、一方的に殴られまくったんだけどね。出て行く、って言ったら、もう帰ってくるな、だってさ」
どんなに殴られても、殴られた分だけ母親を心では見下すのだというような、精神的な矜持が月子の語り口にはあった。
「ちょっと熱測ってみてよ」
勉強机の引き出しから体温計を取り出して、濡れたタオルでよく拭いてから(他人である僕が普段脇に挟んで使っているものを貸すのだから、少しでもマシになるようにと配慮してのことだが)月子に渡した。最初口に入れようとしたのを慌てて止めて、脇に挟んでもらった。月子には、高校生にしても常識に欠けているところがある。
「もし熱があったら、解熱剤を飲んだほうがいいのかな。確か前に医者にもらったのが残ってたと思うんだけど」
立ち上がって今度は薬を探し出した。アレコレ考えて落ち着くことができない。
「大丈夫だよ、別に。それより、今日は泊めてくれる?」
「当たり前だよ、帰ったらまた殴られるかも知れないだろ」
「ありがとう。いつもはダメって言うのに」
少し笑って月子が言った。何と言い返そうか考えていると、携帯が鳴った。海田さんだ。当然奥さんから一部始終を聞いたあとだろう。電話に出るのが怖かったが、とにかく出てみた。
「もしもし、さっきはどうもね。すまないね遅くまで。ところで、月子、ウチの娘、そこにいるだろう」
「え……」
なんでバレているんだ、と思ってうろたえていると、
「あ、もしかして君は月子が内緒にしていると思っていたのかな。実はね、俺は結構前から知ってたんだよ、月子が君の家によく遊びに行ってるのを。本人がよく話してくれてね。月子は君のことを気に入っていて、最初に君の事を話したときから会ってみたいと言って聞かなくてねえ。仕方ないから君んちまで連れて行ったんだよね。そう、三年前、初めて月子を紹介した日がそのときだよ。会ってますます君の事を変な人だ何だと言って気に入って、今度は一人で遊びに行ってみたとかいうからはじめはびっくりしたけれど、まあ君のことだから大丈夫だろうと思って何も言わなかったんだ。そんなわけだから、君んちに居ることは分かっているよ。だいたい月子には友達なんかいないんだ。少なくとも家に泊めてくれるような友達はいない。君以外にはね。あれは頭が良すぎるんだな。本当のことを言っちゃうと、俺にも娘のことを理解できないんだ。話が合う人間がいないんだよね。学校の友達なんか、多少勉強ができるやつでも、今の時代、話す言葉は軽薄だよね。東大の医学部に入るやつだって、テレビが好きだし、SF映画が好きだし、ショッピングが好きだし、セックスが好きなんだ。そういうもんだよ。俺が東大に居た頃はまだ大分違ったがね。あれは本当は、この日本じゃ持て余すんだよ、頭を。あいつはアメリカにでも行って、一度本当の天才たちとディスカッションすべきなんだ。それで自分の凡才を知るにしろ、まだ日本のやつらとよりは合うだろう。話がそれたね。そういうわけで、娘は自分の母親ともうまくコミュニケーションできない。普通の会話ができない。ちょっとしたことで、母親のバカさ加減がわかってしまう。陽子のほうだって、自分が娘より相当バカだってことが、話しててわかっちゃうから憎くなる。親なんてそんなもんだよ。子供に優秀に育って欲しいが、しかし自分より優秀だとかえって憎い。子供はね、いつまでたっても自分より少しバカなくらいが丁度いいんだ。それくらいのことは月子にもそろそろわかっていると思うが、あれはおそらく手加減ができないんだろう。つまり、自分を相手のレベルまで落として会話する、ってことができないんだと思う。それか、せめて親くらいは自分の考えをちゃんと知っていて欲しいという期待があるのかもしれない。でも、それはダメだよね。親だって他人なんだから」
「はあ……」
居酒屋での批評家・海田がここにも顔を覗かせていた。
「陽子はよくやっていると思うよ。月子はわがままで自己中で、社会の慣習ってものに自分を合わせる気がないから、その辺を矯正するにあたっては俺より学校の先生より一番頑張っていると思う。しかし、月子にはそのしつけは厳しすぎるんだよね。そういうわけだからさ、とりあえず月子を預かっといてくれないかな。陽子には、俺の友達夫婦の家に行かせたとでも言っとくよ。君に頼んどけば安心だからね」
「安心ですか。いやぁ……そうなんですか。いやぁ……そうかあ」
いやぁ……と三度うめいた所で一方的に電話を切られた。向こうは向こうで、長々電話をしている場合ではないのだろう。それにしても海田さんも月子がうちに遊びに来ていることを知っていたとは。これは全く意外なことだった。さすがの月子も、男の家に一人で遊びに行っていることを親に話したりはしないだろうと、勝手に期待していた。そして、それを知っていながら海田さんが今までどおりに僕と付き合っていたということも驚きだった。よっぽど僕は性的に不能に近いと思われているのだろう。
「お父さんから?」
横になって聞いていた月子が言った。
「うん。今日はキミをここで預かってくれって」
「そっか……」
そう言ったきりすっかり月子が黙ってしまったので、いたたまれなくなり、
「そうだ、飲み物とか冷えぴたシートとか、適当に買ってくるよ。他に要る物ある?」
「え? うん、別にないと思うけど」
「そう。じゃあ、行ってくるよ。マツキヨは……確か24時で閉まっちゃってるから、コンビニで買ってくる。ジャンプとか読む? いらない? あっそ。じゃあ行ってくるね」
アパートのドアにしっかりと鍵をかけて、買い物に行った。海田家の内紛に巻き込まれて、しばらく忙しくなりそうだ。
それからもう一週間が経ったが、驚くべきことに以来一度も海田家から連絡がない。月子にも聞いてみたが、ケータイには親はおろか友達からさえ一件たりとも着信もメールも無いという。この友達の無さも心配だったが、しかし親から一度も連絡が来ないというのは普通じゃない。こちらから連絡してみようかと何度も考えたが、全ては向こうの親子喧嘩なのであって、向こうがアクションを起こすまでは極力何もしないほうがよかろうと思って差し控えていた。だがそれも限界だった。バイトから帰る道すがら、帰ったら月子に相談して海田夫妻に連絡をとってみよう、と考えていると、3日に1回しかチェックしないアパートのポストに手紙が入っていた。海田氏だ。早速部屋に持ち帰って、月子と二人で内容を読んだ。極めて飾るところ少なく、こう書かれていた。
「スギヤマ君へ
先日の電話のときから、我が家の問題に君を巻き込んでしまって本当に申し訳ないと思っています。陽子と話したところ、やはり学校が夏休みの間は月子を君の家に預かってもらうようお願いするのが一番だ、という結論に達しました。理由は2つあります。1つ目は、今まで月子も昼間は学校に通っていたから家の中と学校とで適切なバランスで生活を送ることができていたけれども、夏の長期の休みで、陽子と月子で互いにそりが合わない部分が目に付きやすくなってしまい、我慢しづらくなってしまっていることです。2つ目は、陽子の接し方の問題です。妻もよっぽど忍耐の強いほうだと思うけれども、悪い癖は、つい手が出てしまうことです。私は知らなかったけれど、言葉にうまく言い表せないくらいに感情が高ぶると、先日のようなことになってしまうのは、よくあることだったようです。陽子本人もこの悪い癖は治したがっているので、しばらくは母親のためにも休養の期間が必要だと考えました。
このような親子間での問題は、本来血を分けた家族なのだから起こりえるはずのない不自然な話であり、スギヤマ君にお話しするのは本当にお恥ずかしい限りなのだけれど、私と君との友情に免じて、われわれを助けると思って、今しばらく月子の教育者兼保護者代理を、務めていただけないだろうか。
もちろん、生活に人一人が加わればそれなりに出費も増えるでしょうから、さしあたって必要だと思われる分のお金を、後ほど書留で送ることにします。もしも余るようなことがあったら、それは全てスギヤマ君へのわずかばかりのお礼ですから、君の将来へ役立ててください。
君の友人 海田 聡より」
読み終えて二人で絶句していると、丁度玄関のベルが鳴った。玄関を開けてみると郵便局から書留が来ていて、差出人は海田聡氏だった。早速それも月子の前に持っていて、二人で中身を空けてみると、札束が出てきた。
「なに、これ」
月子は両手で札束を握り締めて、なんとも言えない、とでも言いたげな複雑な表情でそれを見ていた。
「とりあえずさ、いくら入ってたのか数えてみようよ」
二人で手分けして、ゆっくりゆっくり札束を数えた。何度数えてみても五十万円ピッタリだった。それともう一枚封筒が入っていて、そちらには「スギヤマ君へ これで何か美味しいものでも二人で食べてください」と書かれていて、三万円が入っていた。
「これってさ、これってつまり、その……」
テーブルの上に広げられた五十三万円を見ながら、月子が何かを言おうとしたが、言えないでいた。想像するに、自分の両親は他人に金を払ってでも自分を育てたくないのだと気付いた、と言いたかったのだろうが、しかしその現実を認めるのはつらかろう。だが、他人の僕から見ても、どうみてもその認識は正しすぎた。高校生一人をほんの一ヶ月面倒をみるだけならば、五十万もいらないのだ。むしろ「美味しいもの」代の三万円で丁度良い。だからこの五十万には、両親から月子へ向けたきっぱりとした拒絶の意志がこもっていた。僕みたいな意志の弱い人間には、月子にかける慰めの言葉など思いつかない。
「どうする? この五十三万円。キミが持っとくか?」
僕は月子を苛めているかのような気持ちで訊いた。特に「五十三万円」と口にするときには快感に近い感情を覚えてしまった。今までさんざん劣等感を味わわされてきた人間に、このような残酷な言葉で責めることができるのは、ほんの少し道徳的な抵抗を感じるにしろ、気持ちがいいことには間違いなかった。五十三万円とともにゴミのように海田家から排出されたのが、容姿にも知性にも恵まれた優れた存在、この海田月子に他ならなかった。容姿も知性も才能にも恵まれない僕の怨念も、少しは浮かばれようと言うものだ。
それきりぼんやりと月子が黙考しはじめ、僕はパソコンの前に座ってネットをしている振りで様子を窺っていたのだが、突然月子が、
「とりあえず三万で、マンガ喫茶いって豪遊しよう」
と言い出した。
「マンガ喫茶じゃあ豪遊も糞もないだろう。三万あれば丸三日篭ってもまだお金が余るんじゃない? いったいどうしたんだよ」
「だって美味しいもの食べろって言われても、思い浮かばないし……」
うなだれる月子。
「じゃあいいじゃん持っとけば。どうせ色々必要な物が出てくるだろうし、まあまだ五十万あるわけだからそうそうお金が足りない状況になるとは思えないけど、持っとくにこしたことはないよきっと」
そう諭すと、じっと三枚の一万円札を扇のようにひろげて睨んでいた。よっぽどこの五十三万円の恩恵に預かるのが嫌なのらしい。パッと空費して、自分と五十三万との等価交換を阻止したいらしい。
「まあ、ものは考えようだよ。五十三万と身の完全な自由が手に入ったと思えばいいじゃないか。親元でのくらしなんて大抵の高校生にとっては桎梏以外の何物でもないんだから、キミは恵まれてるよ。俺も高校生のころは早く実家を出たくて仕方がなかったなあ。毎日親の顔をみるのが嫌でね。朝と晩は親に毎日必ず小言を言われていたから、家では極力部屋に篭ることにしてたよ」
「そうなのかな。じゃあ親のいない学校は楽しかったの?」
「いや、かといって学校が心安らぐ場所だったわけでもない。アホな同級生も教師も、毎日殺したいほど憎たらしく思っていたよ」
「それじゃあ、学校が終わっていつも街に遊びに行ってた?」
「それもないなあ。帰りに古本屋に寄るのが趣味なくらいで」
「スギヤマ君の青春って……」
「……」
結局こうして自己の優越性を確かめずにはいられない人間なのだ、月子は。自分も人のことを言えないくらいにあらゆる人間関係から孤立しているのだから、本当は僕のことを見下したりできないはずだ。一瞬同情する気も失せかけたのだが、しかしこうした心の仕組みをでもこしらえなければ、彼女は精神のホメオスタシスを維持できないのだろうと考えると痛ましさをすら感じ、むしろ僕は憐憫の情を倍加させた。
「その金で、じゃあ、タロウに何か買ってあげればいいじゃないか。猫にもきっと色々と高級な遊具とか餌とか、あるだろう」
「そうだね。そうしようかな」
その気もなさそうにそう答え、昼間だというのに月子は布団にもぐりこんだ。タロウもかたわらにいる。僕は、月子がここで寝るようになってから新たに購入したソファに横になった。ソファはアパートから歩いて十分程度の場所にある、通行量のやや多い県道に面したリサイクルショップで購入した。くすんだ濃い赤色だが、十分に派手派手しく、月子が大層気に入ったのでそれに決めたのであった。派手な外見の割りに重量は大したことがなく、部屋まで二人で持って運んだ。ただでさえ本の山に圧迫された部屋の床面積は、ソファの導入によりさらに小さくなり、大学のサークル部室みたいになっていた。
「サークルの部室みたいだな……」
思わず口に出してしまうと、
「そういえばスギヤマ君ってまだあのサークル行ってるの?」
月子が聞いてきた。
「まあ、そうだね。行ってるね」
「ふうん」
「なんで?」
「いや、面白いのかな、と思って」
「うーん、話してる内容自体はたいして面白くもないと思うんだけど、あんな小さなサークルでも派閥みたいなものが出来たり、派閥同士で意見が合わず軽く対立してたりするのをみるのは、少し面白いかもしれないな」
「へえ、詳しく教えてよ」
こんなつまらない話をわざわざ聞き出そうというのは、月子にしては妙な反応だったが、外に関心が向くのはよいことなのかもしれないと思い、サークルの内情を話して聞かせた。一通り聞き終えた月子は、
「ふーん……要するに若者とおばさんが主に対立してて、中立派がスギヤマ君と無職家事手伝いの女二人なわけね。で、司会進行が教祖と参謀役。あれから全然人増えてないんだね」
「それが俺も意外で、人員を増やす活動はいまのとこしてないみたいなんだ。まあ、どうせいずれは何かしら始めるんだろうけどね」
「家事手伝いの女は、相変わらず調子に乗ってるの?」
「調子に乗っていると言うか、サークルのことを本来の居場所だと感じる、とかなんとか言っていたよ。気に入ってるんじゃないかな」
「そうなんだ」
やたらと雪絵さんのことを気にしているようだが、僕にはそれが何故なのかわからない。まるで真逆の世界に住んでいる二人だから、互いに関心を持つこともなさそうなのだが、一つ推測できるのは、親しい同世代の友達が一人もいない月子から見て、大学休学の憂き目にあった雪絵さんが、社会からの疎外という似たような境遇にあるにも関わらず、いかがわしいサークルに入って社会性を取り戻しつつあることに対し、嫉妬のようなものを感じているのかもしれないということだ。二人とも得意分野は全く違えども、各々の領域では(僕の目から見たら)非常に優秀だという点では同じであるのにもかかわらず、今現在その生活の充実度・幸福度において、月子は全く水をあけられていると言うしかない。もちろん月子はまだ高校生なのだから、数年歳上の雪絵さんよりも可能性には恵まれているのだが、そんな2、3歳の年齢の差は、28歳の僕から見たら五十歩百歩だ。つまり月子は、一人勝ちしているように見える雪絵さんのことが許せないという気持ちをもっているのだろう。
しばらく黙って考え込んでいた月子だったが、
「じゃあ、今度のミーティング、あたしも参加していいかな?」
「え、本気で? 前はキモいとか言ってなかったっけ?」
「まあ、そうなんだけど、家出したことだし、なんか暇だからさ。それに、家事手伝いの女を言い負かしたりしてみたいし」
雪絵さんを言い負かしたいというのは本当だろうが、サークルに参加させてみるのは悪くないと思った。学校には友達がおらず、しかも家族にも見離されたとあっては、僕のアパートで一日中猫と遊んでいるくらいしかすることがないだろう。それは精神的にも肉体的にも非常に不健全な暮らしだと思えた。大金をもらって月子を預かっている以上、彼女を健康な状態に保っておくように努力するのは、年長者として、一次的な保護者代理として、当然果たすべき役目のように思えた。
「いいよ、じゃあ今度の日曜日行ってみようか。俺からサークルの衛藤さんに連絡しておくよ」
その後衛藤さんに電話をしてみたら、「そうですか」と、あっさり月子参加の許可を得られた。彼は、月子が新たに参加することに対して何の興味も持っていないようだった。
日曜日の午前十一時、僕は月子を連れて新所沢のコメダに来ていた。コメダは愛知県に広くチェーン展開している喫茶店で、最近新所沢にも店舗ができたのだった。既に「文化の会」の他のメンバーは集まっていた。
「うわ、あの怪しい人たちでしょ?」
月子が耳打ちする。軽く頷いてテーブルに近づき、挨拶した。
「遅くなってすみません。今日は見学者を一人連れてきました。嶋中さんとお知り合いで、僕をこの会に紹介してくれた、海田さんという出版社に勤務している編集者のかたがいるんですが、その海田さんの娘さんの、海田月子さんです」
「よろしくお願いします」
月子はおとなしくお辞儀をした。
「おお、これはこれは! 衛藤君から聞いていましたよ、こちらこそよろしくお願いします!」大げさに両手を広げて挨拶したのは言うまでもなく嶋中さんだった。「海田氏に娘さんがいたとはね! しかもその娘さんがわが会に参加してくれるとは! これは良いことです。本当に会を続けていてよかったなと思います。月子さん、どうぞよろしくお願いします」
月子はその若々しい可憐な美しさから、また新しい顔の新鮮さから、皆の視線を集めているようであったが、月子自身は気にせず嶋中さんによるミーティング開始の言葉を真面目に聞いている様子だった。
「今回は、家族の問題について話し合おうと思います」
嶋中さんがそう言った瞬間、これはかなり不味い議題だと、僕はすぐさま思った。しかし、月子の表情を覗いてみても、別段動揺した様子もない。
「家族とは、一見地味なテーマですが、実は私たちは皆、どこかの家庭の家族として存在しています。誰も家族という問題から自由ではあり得ないのです。例外はありません。たとえば天涯孤独で生まれてきた孤児のことを考えてみましょう。その孤児は制度上親を、つまり家族を持たないかもしれませんが、しかし生物として親を持たない個体はありませんし、また、孤児とはいえ社会の外で生きることの出来ない人間は、生まれ落ちた瞬間から成人していくまでの期間に自らの生存を保護し、あるいは社会の外圧から庇護してくれる何らかの居場所や人間集団を持ち、それゆえそれを家族の機能的代替物として考えることは、由なしとしません。孤児自身がどのように感じているかは別として、孤児にとっては明らかに孤児院のような施設とそこにいた人間たちこそが家族ですし、幸運にも孤児院から引き取られた先の家庭が第二の家族を得る場所となることは疑いありません。もちろん、「本当の家族」を持つ者とは幸福度や家族の恒常性において大きな断絶がありますが、しかしながら、この社会に生まれて育つ、という現象が可能になるためには、各人にそれぞれの家族が前提とされなければならないのです。これは恣意的な定義ではありません。人間は社会の中でしか生きられませんが、しかし社会はむしろ人間を自然から守るようなものというより、人間に対して自然よりも厳しく何かを要求してくるものであります。自然は人間に何かしろと言ってくることはありませんが、社会は明確に言語でもって個人に命令を下します。それに従わない者は、極端な話、死刑になるのです。社会はつまり、犯罪を犯すな、という不作為の命令を我々に与えていて、それを無視して犯罪を行えば最悪死刑になる、ということです。家庭は、しかしながら、個人にとってその社会からの外圧をかなりの程度免除された空間です。家庭では、社会のルールよりも家庭のルールが優先します。家庭においては人間は、実際のところはどうあれ、主観的には刑罰の恐怖から自由です。このように家庭という項を自然や社会という大きな項とは独立したものとしてとらえてみると、見通しがとてもすっきりしてきます。人間は社会の外で生きられないのと同時に、社会の中だけでも生きられないのです。人間は、家庭と社会を往復して人生を営んでいるのです」
「我々の過去の調査によれば」衛藤さんが口を挟んだ。「人間が行動する空間の種類は大きく四つに分けられます。一つは自然空間。これは社会の外側の空間で、人間が単体で山や野を歩く場合などは、人間は自然空間に居ると言えます。次が社会空間。この社会空間にはさらに細かい区分が可能なのですが、基本的には他人同士の人間たちが共存している空間のことです。次が家庭空間。今の先生のお話にもありましたが、社会空間における抑圧から人間が解放される空間であると同時に、家庭にはまた別種の抑圧が働くと考えられます。最後が個人空間。誰の視線もない場所のことで、この個人空間は実質的に場所を選ばず出現します。例えば自然空間である野原でも、人の目がなければ人間は服を脱いで裸になっても恥ずかしくありません。社会空間においても、ホテルの個室などはこれに当たります。家庭空間でも、自分の部屋が家にあればそれが該当します。この個人空間では、内面化していない限りあらゆる抑圧が存在しないとみなすことが可能です。これら四種類の空間では、それぞれ人間のとる行動の法則が異なります。このうち人間にとってなくてはならないものは、社会空間と家庭空間であるということは、同じ調査ではっきりと確認できました」
「調査」なるものがいったいどんなものなのか非常に気になったが、彼らの演説はいつも通り非常にテンポに優れており、僕が質問をする暇もなかった。
「ところで最近、家族の空洞化、ということが言われることがあります」嶋中さんが続けた。「家族の空洞化とは、家庭や家族が個人に対して担っていた役割が果たされなくなることを意味しています。ですので、外見上家族が維持されているように見えても、家族としての機能が十分に果たされていなければ、その家族は空洞化したと言うことができるのです。例えば、父母子と三人からなる核家族があったとして、父は早朝から深夜まで仕事、母は近所づきあいや家事労働に縛り付け、子供は部活に遊びで殆ど家に寄りつかない、という状態なのであれば、実際には父と子は家に寝に帰っているだけであり、家は母一人の家のようになってしまいます。結局、家は社会空間において抑圧されていた部分を解放する場所とはならず、空転してしまいます。これが空洞化です。この例でも、三人とも各々好き勝手に暮らしていてストレスがないのであれば、それでいいじゃないかという意見が出そうですが、そうではありません。社会空間と家庭空間は一人の人間に同様に必要なのです。ですから、社会空間の中だけでは人間は生きられません」
「それについて具体的な説明をいたしましょう」衛藤さんがまたも口を挟んだ。「厳密に言えば今の先生の例で言っても、父も子も寝に帰る程度には家に依存していますから、完全に家庭空間を捨て去ったわけではありません。完全に家庭空間を捨て去った人間は、文字通りのホームレスです。しかし、過度に家庭への依存を減らしてしまうと、社会準拠型の人間が生まれます。社会のルールが家庭のルールを上書きしてしまった人間です。このような人間は、家庭内において適切に振る舞うことができませんし、うまい抑圧の解放の仕方もしりません。具体的な生活の場面においては、家族に対して社会人としての振る舞いを求めたり、様々な共同生活上のルールを「契約」などと呼び始めたりすることが起こります。加えて家族として家族を扱うことができないので、率直な意見や正直な意見を対面で言うことができなくなります。人間関係の摩擦をおそれて、学校や職場やご近所での寒々しい人間関係が家庭内でも再生産されるのです。本人はそれが一番賢い振る舞い方だと思っていますが、実際にはそれが社会空間における問題解決能力にまで深い影響を及ぼしはじめます。なぜなら、社会の制度やルールのほとんどは家庭の存在を前提に作られているからです。つまり、原理的に家庭の存在抜きに社会に立つことは、人間には不可能なのです」
「このように、家族の空洞化は我々自身の空洞化をも促します」また話の主導権は嶋中さんに移った。衛藤さんは個人の空洞化などには言及してなかったはずだが、嶋中さんの独自の解釈で、あるいはなんとなく雰囲気で言ってみたのだろう。「空洞化とはすなわち、家庭の機能不全であり、この機能不全が社会への影響を表面上及ぼさないとしたら、その悪影響は必然的に個人に過度な負荷を与えることになります」
一同は奇妙な静寂に包まれた。喫茶店にはまだ客は少なく、アルバイト従業員の話し声が響いていた。
「私、ようやくわかったわ。今の時代がどうしてこんなに生きづらいのか、先生のお話を聞いてようやっと、心の底からわかった気がします。家族の良い部分が失われてしまったからなんですね!」
「画家」の片割れが感極まった声で言った。しかし彼女の発した言葉は信じられないほどに短絡化されたいかにも蒙昧な台詞であった。
「……たしかに」今度はロック好きの片割れが言った。「俺たちも、確かに親たちが俺らの生き方を認めてくれてたら、もうちょっとマシな人生を生きてたような気がする。親はどうあっても普通の就職をしてほしいらしいけど、俺は俺の一回きりの人生を生きているんだし、このままロックやっててそのうち飢えて死ぬんなら死ぬでいいし。でも、親がそれを認めてくれてたら、同じ死ぬでももうちょっと幸せに死ねるかな、って思う、っていうか……」
言葉で自己表現をする訓練をしたことのない若者にとって、自意識と人生とが大いに絡む問題について真面目な言葉を整合的に組み立てるのは難しいことのようであった。
「でも問題は」今度は雪絵さんが言葉を発した。「我々の活動が、すなわち文化に関する活動が、家族の問題をどのように扱えるのかということではないでしょうか」
「その通り!」大声で嶋中さんが言った。「文化はこういう時にこそ本当の力を発揮します。文化とは何だったでしょうか? その定義を思い出してください。文化とは、人間の生活様式そのものなのです。すなわち、家族の空洞化もまた文化の射程圏内にあるのです。我々が考えるべきなのは、言うまでもなく、それが復古すべきものであるにしろ打ち壊して刷新すべきものであるにしろ、家族という名の文化なのであります。別言すれば、家族の文化さえ定位することができれば、我々の日常生活が根本から変わることでしょう。我々の理想とする生活が実現することでしょう」
「私は思うんですが」またしても雪絵さんが発言した。「家族の空洞化の原因から考えることが有効ではないでしょうか。なぜなら、家族の空洞化によって私たちの日常生活がおかしくなったのであれば、その原因を正しく知ってこそ、日常生活を思うとおりの方向へ導くことができるのではないかと思うからです。では、家族の空洞化はなぜ起こったのでしょうか。おそらく、個人主義的価値観と、経済至上主義の跋扈という二つの大きな原因があると思います。これらは衛藤さんの先ほどの四つの空間のお話を踏まえると、そっくりそのまま個人空間と社会空間の領域に対応すると思われます。両者の狭間にある家庭空間は必然的に空疎化します。宙に浮いてしまうのです。個人空間の領域においては、その個人空間の永続性が犯すべからざる神聖性とともに何物にも代え難い固有の価値を認められ、他方社会空間の領域においては市場への志向が過剰に採用されました。本来社会空間それ自体の規範には、市場を志向すべしという条項は特別なかったのではないかと推測致しますが、戦後の日本のエコノミックアニマル化は必然的に「社会」という大きな概念と「市場」や「経済」という部分的な概念を短絡化しすり替える危険を生み出しました。「経済」という考え方は、あらゆるものに値段をつける擬制のもとで成り立っていますから、一度その魔法の力にとりつかれてしまった者は、家庭内にまで経済の基準を持ち込んでしまいます。家族の時間を減らしてでも会社で働くかあるいは予備校で勉強をすることが、結果的に経済合理的だということになれば、自然に家族の時間は減らされていきます。そうして、家族の文化にも固有の価値を見ようという考え方が廃れてゆきます。この家族の廃棄が社会全体に広まったとき、いよいよ家族は空洞化します。それも徹底的に。この空洞化の時代を生きている私たちが日常的に抱える問題は何でしょうか。きわめて具体的に、私は確信を持って言いますが、それは居場所の絶望的な少なさです。地域共同体が崩壊したということも、よく評論家のみなさんが言われることですが、それによってもたらされるのは、会社・学校か、家庭か、という二者しか居場所を設定し得ないという息の詰まるような状況で、会社・学校で万が一適応できずに居場所を失ったら、もはや家庭しか居場所がありません。ですが、家庭はすでに空洞化しています。すると、会社・学校で居場所を失うことが、即この世界から疎外されることを意味してしまうのです」
「よくわかんないんだけど、結局金儲け主義が悪いってこと?」ロック好きの青年が言った。
「私はそのように思っています」雪絵さんは神妙に頷いた。
「今の雪絵さんのお話は大変に興味深かったですね」嶋中さんも、いつになく弁舌を振るった雪絵さんの様子に痛く感心したようであった。「あなたの言う通り、我々は非常に危機的な状態におかれていると思います。何がいけないのか、どういう理由でそれが起こってしまったのか、大きな枠組みとしては今のお話でわかると思うのですが、では、肝心の、これから我々がどうそれに対処していけばいいのか、という問題について、何かすでに考えられていることはありますか?」
「はい、あります」静かにだがハッキリと、雪絵さんは答えた。「この対処法もやはり漠然とした答えになってしまうのですけれども、すでに一つのアイデアが私の中にあります。それは、多元的帰属です。多元的帰属とは昨今よく社会学者などによって言われている考え方ですけれども、私なりの考えを言わせていただくとすると、それは複数のコミュニティに所属するということです。例えば、朝から晩まで会社で働いていて、家には単に寝に帰っているだけの毎日を送るサラリーマンと、昼間は介護施設で働きながら、休日は手芸サークルを開催しているシングルマザーとでは、どちらがより安定した生活を営んでいるでしょうか? 一般的な臆見とは逆に、私は後者の方がはるかに安定した生活を送っているのではないだろうかと思います。なぜなら、一日中会社に勤めているサラリーマンは、確かに収入の面ではシングルマザーに比べて何倍もの賃金を得ているかもしれませんが、しかし会社人間はその名の通り会社に依存してしまっているわけで、会社ありきの人間なわけです。すると、会社が何らかの理由で突然業績悪化に陥ってしまった場合、他になんらの専門性を持たない高齢無職者が一人生み出されてしまう可能性が高いわけです。そして、我々の今生きている日本社会では、それなりに名の知られた大企業が、業績悪化を理由に大幅なリストラを行う事例が少なくないわけですね。それに対してシングルマザーは、まず介護職というこれから先の社会において需要が増えることはあっても減ることはあり得ない大変重要な職に就いていますから、実は長い目で見たらとても安定したキャリアを踏んでいると言えますし、いざというときには手芸サークルの仲間が同じ女性としてのアドバイスをくれることでしょう。そして、この手芸サークルは彼女の精神的な安定性をもきっと高めます。つまり、彼女は居場所を複数持っているわけで、これをサラリーマンの好きな経営学用語で言えば、リスクを分散させる戦略をとっていることに他ならないわけです。このように、何が安定的で何が不安定なのかについて、現代的な尺度を申し上げるとするならば、それはやはりどのようなコミュニティに何個所属しているのかで計られるべきなのではないかと思うのです。これが、多元的帰属が鍵だと考える根拠です」
一同は静まりかえっていた。いつも文学的で個人的な感想しか発言してこなかった雪絵さんが、このように時代や社会を思考の範囲に含めて意見を述べたことは初めてであって、サークル構成員の皆が皆、雪絵さんを侮っていたことを恥じているかのようだった。かくいう僕も雪絵さんがこのように雪絵さん自身の範囲を超えて思索していることは、今日初めて知った。彼女の喋っていることの内容自体は別段珍しいものでも何でもなく、彼女自身の言うとおり最近のオタクがかった社会学者たちによってよく持ち出されるネタの一つだ。
「はい」突然、僕の横で黙って座って聞いていた月子が、ほとんど遠慮のそぶりを見せずに手を挙げた。
「どうぞ、海田月子さん」嶋中さんが促した。月子は背筋を伸ばしなおして話し始めた。
「今の彼女の--ああ、花田雪絵さんとおっしゃるんですね--お話に対していくつか疑問に思う点がありました。一つは経済に関する考え方です。花田さんは経済とはあらゆるものに値段をつけるという擬制によって成り立っている、とおっしゃっていましたが、あらゆるものに値段をつけることなんて擬制としてすら不可能です。そんなことはありえません。人間があらゆるものを把握することができて初めてそれは可能になることのはずです。つまり、市場経済が人間関係の繊細な部分や家族同士の暖かい絆に対してまで値札をつけてやりとりするのだから、そこに家族の空洞化の原因がある、と経済を分かりやすい悪役に仕立て上げるのは間違いです。そもそもそんなに経済は万能ではないのではないでしょうか。人間が経済的な取引をするのは、そこに合意があるからにすぎません。仮に家族関係に値札をつけて売っている人がいたとしても、それは売る人と買う人の間に合意があるわけですから、経済の仕組みが家族関係を破壊するのではなく、むしろ家族関係なんて売りに出してかまわないという人の心が先になければおかしいですよね? ですから、社会が経済至上主義に傾いたから家族が空洞化した、なんていうのは全く説明になっていないと思います。この場合、家族よりも経済を人が重視するようになった理由が述べられなければならないはずです。というのが第一点で、第二点が、多元的帰属の説明の際に出されたたとえが、たとえとしての体をなしていないのではないかということです。サラリーマンとシングルマザーという二つの例を比較して、シングルマザーの安定性における優位を言うことによって多元的帰属の考え方をご説明されたわけですけれども、しかし少し考えればわかることですけれども、世のサラリーマンのほとんどは妻帯することによって朝から晩までの社畜生活が成り立っているわけですよね? だって、そんなにいつも仕事しているなら、家で掃除や洗濯などを一手に引き受けてくれる人がいないと、生活できませんから。たとえ夫が家には寝に帰るだけだったとしても、奥さんが昼間せいぜいパートに出るくらいで家事を全部やる、というモデルがあれば、そっちのほうがより安定しているのではないでしょうか? 夫婦という単位で見れば収入の経路は複線化されていますし、夫の給料が安くなることがあれば妻のパートを増やすなりできるはずです。また、シングルマザーの方も、介護の仕事をしながら手芸教室、などとおっしゃいましたが、手芸教室などというものはお暇な専業主婦の方たちが嗜むものと相場は決まっております。朝も夜もない介護というハードな仕事をしているワーキングマザーが、その上たまの休みにまで手芸教室など開けるわけがありません。こんな荒唐無稽な空想的たとえ話では、なんら「多元的帰属」とやらの実践的な可能性が見えて参りません」
またも一同は黙って沈思しはじめたが、さっきとは打って変わって冷たい緊張感が場にあふれた。ロック好きも「画家」も、会話についていけていないようで、何も言えずに固まっている。衛藤さんはいつもと同じように能面のような顔をして微動だにしない。嶋中さんだけ、首もとの金ネックレスをいじりながら、いつになくにやにやと気持ちの悪い笑顔を浮かべていて不気味だった。
「どうですか、花田雪絵さん」嶋中さんはいつものいやらしい声で雪絵さんのことをフルネームで呼んだ。
「お答えします。まずは経済の問題について。確かに先ほどの私の話だけでは一体なにが経済至上主義をもたらしたのか、わかりにくいかもしれません。ですが私は、それをもたらしたのもやはり経済だと思います。より正しくは自由市場経済です。これは資本主義と端的に呼び換えることが可能です。資本主義がなぜ家族を空洞化し、経済にその空間を売り渡してしまうのか? 答えは簡単です。資本はより大きな資本を求めるからです。なぜ資本は自己増殖を求めるのか? それは、資本があらゆるものについての権利だからです。お金で買えないものはない、と言ったお金持ちがいましたけれど、これこそが典型的な資本主義者の考え方ですし、実際今の世の中およそ人間のほしがる物の中で、お金で買えない物を探す方が難しいでしょう。人の命も、医療を買うことによって間接的に買えますし、あるいは非合法ですが人身売買をする人は今日でもいます。時間は一見買えないように思えますが、自分の仕事をお金を払って他人にやってもらうことで、実質的に時間を節約し捻出することはできます。愛は買えませんか? 買えます。どうやって愛を買うのかについては、一つは相手との直接交渉という手段がありますし、もう一つには興信所に相談するのも有力な手です。このように資本は、それを持つ物に対してほぼあらゆる能力あるいは権利を付与します。莫大なお金持ちには国家がすり寄ってきますので、実際には国を動かすことだって不可能ではありません。お金さえ持っていればなんでもできると言って過言ではないのが資本主義の世の中です。こういう世の中にあっては、一度お金を手にした者は、当然さらなる力を手に入れたいと思うようになります。ではどのようにすればさらなる力を手に入れられるのでしょうか? 資本の性質を思い出せば、資本を多く持つ者ほど多くの能力を持つわけですから、結局さらなる力を手に入れられる者は大きな資本を持つ者に限られるわけです。ですから、正確に言えば、資本は自己増殖せざるを得ないのです。ほぼそれしか資本を増やす方途はあり得ません。それ以外の方法もないことはないですが、それには自らの身を奴隷的な状態におとしめる必要があり、全く人間的だと思われません。例えば苦しみながら起業して資本を得た人間の話を本で読むと、ほとんど二十四時間すべてを仕事のために費やしたという話が自慢げに書かれていますが、全く滑稽です。自ら喜んで奴隷となった話を自慢しているわけですから。もう一点の、多元的帰属の例についてお答えしましょう。サラリーマンの長時間労働は妻の助力によって成り立っている、というお話でしたが、こんな非人間的な話こそ空想的だと言わざるを得ません。しかも資本家にとって都合のよい空想です。夫のために自分の生活を犠牲にしている妻の人生はどうなるのですか? 過労死するんであれば夫が勝手に死ねばいいだけの話です。妻が夫の生活をお母さんよろしく面倒を見なければならないなんて、こんなバカな話はありません。そういう夫は、決まって家のことで何かあったら全部妻のせいにするんです。そして、子供の問題も全部母親の育て方が悪いということになってしまう。バカですね、夫が子供の相手をしないから悪いに決まっているんです。それに、あなたのような子供がケアの現場や手芸教室の現場を知っているわけがないのに、訳知り顔で批判するのはどうしたことでしょう? 介護の仕事がそんなに劣悪な労働だとどうして決めつけるんですか? 少なくとも朝八時から終電まで奴隷のようにはたらくサラリーマンよりもずっと労働環境はよい上に社会のためになる実質のある仕事をしていると思いますよ。それに、手芸教室のために集まった女たちが本当に手芸だけにうつつを抜かしているとお考えですか? あなたのように周囲が自然に人生のコースをサポートしてくれる人間は、何のためにわざわざ時間を見つけて女性たちが集まって活動するのか、理解できないのでしょうね。あなたみたいに現実意識の欠けた人間に、文化について考えるなんてことができるはずがありません」
「あんたにあたしの何がわかるんだ!」
突然月子が立ち上がって叫んだ。僕は瞬間的にマズいと思い、月子を抑えつけようとしたが、僕の手を払いのけ、向かい側の雪絵さんの席に歩いていき、一同が介入する暇もなく頬に強烈な握り拳を食らわせた。キャーキャーわめく「画家」たち。立ち上がりこそするもののなす術のないロック好きの若者たち。静観する嶋中さんと衛藤さん。雪絵さんはイスと一緒に床に倒れたが、おもむろに体を起こすと、冷然たる微笑みを月子に返した。
「おい……」
と僕は月子を呼ぼうとして、そういえば名前で呼ぶときは「月子ちゃん」と言えばいいのか、それとも「月子」と呼び捨てで呼べばいいのか迷った。迷っているうちに月子は過呼吸になり、胸を押さえ、しまいには床に膝をついて座り込んでしまった