彼女持ちの俺に向けられた、女友達の「私じゃダメ?」は重すぎた。
「私じゃ、ダメ……?」
夏合宿の最中、ゼミ仲間の綾瀬ひかりにそう言われた。
恋人と喧嘩中だった俺に向けられたのは、いつもふざけてばかりいた“女友達”の、本気の眼差しだった。
――その一言で、すべてが変わった。
◇ ◇ ◇
「どう唯人! そっちは例のクワガタ見つかりそう!?」
「いや、影も形も見つからないな」
「もっと気合い入れて探してよ〜。エロいこと考える暇あるなら、賞金百万円のこと考えてね!」
「……まったく考えてないけどな」
夏のゼミ合宿中、俺は綾瀬と2人で山に登っていた。
後輩がレアなクワガタを見かけたらしく、彼女が言い出した「探しに行こっ!」に巻き込まれた形だ。
「お腹空いてきたし、街に戻ろっか。私、何食べよっかな〜」
セミロングの薄茶色の髪をなびかせ、綾瀬は笑う。
その無邪気さに少しだけ救われた気がした。
歩き出して数分後、不意に彼女が言った。
「で、どう? 少しは気が晴れた?」
「気が晴れたって、何のことだよ」
「とぼけないでって。合宿中ずっと、落ち込んでるのバレバレだよ?
だからさ、無理やりでも体を動かせば、気が紛れるかなって思ったんだけど」
その言葉に、俺は思わず振り返った。
「……綾瀬、お前、そこまで考えて――」
「いや、賞金目当てだけど?」
いたずらっぽく笑う彼女。
でも、その言葉が冗談じゃないことくらい、すぐに分かった。
「まあ理由は何でもいいじゃん。
そんなに落ち込んでる君には、この私にすら分からない、
『何故うちは社会心理学を学んでるのに、恋人持ちがほぼいないのか』を、
特別に教えてあげてもいいよ!」
呆れながらも俺は複雑な心境だった。
綾瀬にまで落ち込んでいるのがバレているとは思わなかったからだ。
…だがよく考えれば当然かもしれない。
彼女とは大学にいる間は四六時中一緒にいるし、
綾瀬はふざけているようで他人の機微には敏感な方だ。
俺の異変にいち早く気づいていてもおかしくはない。
「まあさすがに私もそれなりには心配してるんだけどね。
ねえ…何をそんなに悩んでんの?
私にも言えない事?」
「うーん。ちょっと綾瀬には話せないことかな…」
「なんで話せないのかな?
私で解決出来るとまでは言わないけどさ、
少しは力になれるかもしれないでしょ?」
「綾瀬……」
「それともそんなに私じゃ頼りないかな。
まあ、そう思われても仕方ないから、
無理にとは言わないけど。
もし誰にも言えなくなって、苦しくなったら私に吐き出してよ」
「――実はさ…彼女の事で悩んでいてな」
俺は綾瀬が言い終わると同時に呟いていた。
どうしても、今のこのモヤモヤした気持ちを吐き出したかったからかもしれない。
「………
んーっと。その彼女って奴はアレかな。
英語で she her her を指す3人称の彼女のことだね?
で、その彼女がどうしたの?」
「そうじゃなくて普通に恋人を指す彼女だよ」
そう言うと綾瀬の顔がこわばり硬直した。
だがそれは一瞬のことですぐに表情を崩し、
「唯人に彼女がいるだって~?
私がコーヒーゼリーの次に嘘が嫌いなの知ってて言ってるのー?」
などと目を閉じてやれやれといったポーズでそんな事を言った。
「嘘じゃなくてマジだっての…
ったく…本気で相談しようとした俺がバカだったぜ」
俺は肩をすくめて溜息をつく。
「ごめんごめん!
ちょっと唯人に彼女がいるって信じられなかったからさ!
柄にもなくふざけただけだから!
ちゃんと相談に乗るから許してって! ね!」
「…まあいいけどな。
その…彼女と付き合って4年程になるんだけどさ――」
「――4年程って事は…
君が私と出会った1年以上も前から付き合ってたんだ……」
そう言う綾瀬はほんの少しだけ寂しげな表情をしたように見えた。
ふざけた仮面を外した、本当の顔だった。
彼女が珍しく真剣な顔で聞いてるから単にそう見えただけかもしれないが……
俺は少しだけ違和感を抱いた。
「ああ、そうだな。彼女は小学生からの幼馴染でさ。
まあ、幼馴染つっても腐れ縁みたいな仲でな。
昔からいつも2人でバカやって騒いではしゃいでたな…」
俺は思い出す様に言った。
「休みの日にいきなり『今から海水浴とハイキング行こっ!』って誘ってきたり、
『最近、君、元気ないから、私が作った失敗しちゃったケーキ、特別に食べていいよ!』とか、言ってきたり…』
自分で言っていて懐かしい気持ちになる。
「で、彼女に高校2年の文化祭の時に告白されて付き合うことになったんだ。
『君と一生へんてこな事して過ごしたいから私と付き合って!……駄目?』って、
照れ笑いしながら告白されたっけ」
思い返して苦笑する。
…そういうところが、昔からあいつらしかったんだ。
「…ふーん。
……君にそういう相手がいたんだね」
綾瀬は真剣な面持ちのまま続けて言う。
「それで…その彼女と何かとらぶるでもあったの?」
「うーん…まぁ、ちょっと揉めたところだな…」
さすがに、これ以上の事は彼女へ伝えられなかったのでそう言うと、
「まだ私に言ってない事あるんじゃない?
どう揉めたの? 私に言いにくい事でも言っていいからさ」
「いや、さすがにこれ以上は話せないというか…」
「ちょっとちょっとー。
この世に私に話しちゃいけない話なんて両手で数えられない程度しかないんだよ?
どんな話でも笑って受け止めるから安心してって!」
「………」
俺はこれ以上話すべきか悩んだが、思い切って彼女に告げる事にした。
「…その、実は…揉めた原因がお前の事というか…」
「どんな…?」
「その…『綾瀬さんと私、どっちの方が大切なの…?』って…」
「………んー。なるほどね…」
綾瀬は珍しく神妙な顔でつぶやいた。
「なんでそういう事を言われたかというとな。
彼女と会ったら大学の話もする訳だけどさ。
その話の大半は綾瀬の話をしてたみたいなんだ…自分で意識してたわけじゃないけどな」
綾瀬は相変わらず真剣な表情を崩さない。
「それで…こんな時だから言うけどさ。
俺、彼女には綾瀬の事いつも褒めちぎってたみたいでな…」
「……そうなんだ」
「俺自身はそんな気なかったんだけどな。
やれ、授業中なのにこんな悪ふざけしてたとか。
サークル内で、こんなバカな事したとかさ…」
「……うん」
綾瀬は意外そうな顔でこちらを見ている。
「俺は愚痴半分で言ってたんだけどな。
ただ彼女からは、
そういう風にお前の話をしてる時の俺って凄く楽しそうみたいで、
『私と一緒の時にはほとんど見せない顔してるよ』って言われてな…
それでゼミ合宿前に話し合いから喧嘩になって、
『綾瀬さんと私…どっちの方が大切なの…?』って涙交じりに言われた訳だ」
「そうだったんだ……」
綾瀬は真剣な面持ちを崩さずそう呟いた。
「それで、『どちらも大切だ!』と答えたら、
『…やっぱり私は選ばれないんだね』って言われて…
そのまま仲直りも出来ずにゼミ合宿が始まったって訳だ」
「なるほど…」
少し沈黙が残る。
「…笑って返せなくてごめん」
珍しく綾瀬が謝った。
彼女に本気のトーンで謝られたのは初めてだ。
「まあ、ようは俺が不甲斐ないせいで起きた喧嘩だな…」
「そんな事はないと思うけどね」
綾瀬はそう言ってくれたが、俺のせいで間違いはない。
「それで、君は今の彼女とどうしたいの?」
「どうしたいって…そりゃまた昔の様に仲良くやりたいさ…。
今でも好きな気持ちは変わらないしな」
「でも、そこまでこじれたんじゃ、
元通りの関係になるのさすがに厳しいんじゃない?」
「え…?」
はじめて綾瀬がきつい言葉を投げかけた。
「聞いてる限りさ。
もう君から距離置いても、そこまで心が離れたら厳しいんじゃないかな?
一応、同じ女子の意見としてはそう見えるよ」
「じゃ、じゃあどうすりゃいいって言うんだよ!?」
綾瀬が立て続けに厳しい事を言うので思わず声を荒げてしまった。
「…私じゃダメ?」
「……え?」
綾瀬の言っている意味が分からなかった。
私じゃダメ…ってどういう意味だ…?
「私が君の彼女になるって話をしてるんだよ」
「………」
何を言っているか意味は分かったが理解が追いつかない。
「……いつもの冗談だよな?」
「私が冗談言ってる顔に見える?」
「………」
綾瀬は真剣な眼差しでこちらを見ている。
こんな彼女の顔を見るのは初めてだ。
「私さ。正直君の事が好きだよ。
それはずっと前からだったんだけどね……
いつのまにか恋愛相手として好きになってたみたいなんだわ」
「綾瀬……」
彼女は少し目を伏せ続けた。
「びっくりしたよ。まさか私が君に惚れてるとか…。
最初は何かの勘違いかと思ったけど、
何度考えてもやっぱり本気で好きみたいなんだ」
「………」
正直、にわかには信じられなかった。
「信じられないって顔してるけど、当の私も信じられなかったよ。
だけど――
気づいたら、君と馬鹿な事してる時が一番楽しくなってた。
他の友達とふざけてても、ふとした拍子に君の顔ばっかり浮かんでさ――
この間なんて君が他の女子と楽しげに喋ってるの見てね。
それだけなのに――
気づいたら、胸がぐちゃぐちゃになってた。
その夜、誰にもバレないように枕に顔埋めて、
……息殺して泣いた」
小さな声で、綾瀬は、
まるで自分でも信じられないように呟いた。
まさか彼女が――綾瀬がそんな気持ちを抱いているなんて、
つゆほどにも思わなかった。
俺は驚きすぎて唖然としている。
「だからさ…君に恋人がいると知った時は正直きつかったよ。
だけど話を聞いてみたら彼女とは喧嘩別れする一歩手前……
しかも原因はなんと私だった」
綾瀬は少しだけバツが悪そうにした。
「だけど話を聞いてるうちに、
その彼女さんとやらよりも、私と君の付き合いのほうが強いんじゃないかと思ったよ。
だってそうじゃない?
ハタから聞いた彼女の立場でも私達、お似合いなんだよ?」
「綾瀬……」
「だからさ、もういっそ付き合おうよ!
付き合ってくだらない事やバカな事をもっと沢山しよ!
ねえ、悪くない考えでしょ?」
「………」
綾瀬は一緒にいるだけで、楽しくて、救われた。
こんなに素敵な女性は、世界中探してもそうはいない。
それは俺が誰よりも知っている。
気づけば、手が勝手に伸びていた。
心が叫んでいた。“抱きしめてしまえ”と。
伸ばしかけた手が、彼女の指先に触れそうになっていた。
指先に、触れる寸前だった。
あと数センチ。たったそれだけで、すべてが変わってしまう気がした。
――でも、それは違う。
その衝動が、本当に大切な人を傷つけることも、俺は分かっていた。
だから俺は、その手を、心ごと押し殺した。
「ごめん…それは出来ない」
――もしも彼女に出会ったのが、もう少しだけ早ければ――
恋人への冒涜だとしても、そんな無意味な想像をしてしまった。
「……なんで?」
綾瀬は顔色を変えず訊ねてきた。
「やっぱり…どうしても彼女の事が好きなんだ…」
「………」
綾瀬は相変わらず顔色を変えない。
その表情からは内心までは読み取れない、
「小学生からの仲だしな…
まだ別れた訳でもないのに諦めきれないんだ。
結婚だって考えてたんだ…
そんな想いを抱えてるのに乗りかえるだなんて出来る訳がない。
彼女とはもう1度よく話し合って必ず仲を戻してみせる」
未練がましい事この上ないが俺は淡々と告げた。
「だけど綾瀬…お前にはホントに感謝してるっていうか…
お前のおかげで人生楽しくなったっていうか…
落ち込んでる時や辛い時でもお前と一緒にいるだけでホントに助けられてんだ。
お前と出会わなかったら、今頃もっとつまらない人生過ごしてただろうよ」
「………
…今の私が聞きたい言葉じゃないな…」
綾瀬は少し俯いて言う。
「………せめて…一瞬でも迷ってくれたらな……」
表情を崩さずにそう呟く。
俺が数瞬、迷った事を告げても、
それは彼女の傷口に塩を塗るだけだろう。
「………すまない。
その…だから…綾瀬、本当にごめん!」
俺は綾瀬に頭を下げた。
ここまで想っていてくれている彼女をフラなければならないのに胸が痛む。
綾瀬にはいつも助けられているのに…
こんな事を告げなくてはならないのに申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
「顔、上げて」
「………」
俺はゆっくり顔を上げると――
「ぶごはぁっ!?」
思いっきり鼻に2本の指を突っ込まれた。
「うわー、鼻水えぐい量で指についちゃったよ…汚っ!」
「…は? 綾瀬、何やって…」
鼻水がついた指をティッシュで拭う綾瀬に問いかける。
「何って『ついに俺にモテ期到来!!』って勘違いして喜んでるアホの子にお仕置きしたんだけど?」
「勘違いってまさか…」
すると、綾瀬の顔が途端ににやにやし始めた。
「ちょっとちょっと~。
この私が唯人のこと本気で好きになったとで思った~。
ちょっと自意識過剰なんじゃなーい?」
そう言いながらバシバシと俺の背中を叩きながら彼女は笑っている。
「綾瀬…お前な…」
「おっと私に怒るのは筋違いだよ?
私が当て馬役になったおかげで、
君も彼女への本当の気持ちに気づけた訳だしさ!
怒るどころか感謝するポイントだって!」
うんうんと頷く綾瀬。
「まあ、確かにな…
一応礼は言っておくよ。ありがとな」
釈然とはしなかったが綾瀬の言う事も事実なので礼は言っておいた。
「ああ、そうそう彼女さんの件だけどさ。
『綾瀬と彼女、どっちが大事』問題、まだ片付いてないでしょ?
だったら、そこは彼女に向かって、
『君の方が大事だ!』って言っとくんだよ。
夏合宿が終わったらすぐ時間作って会って言った方がいいよ」
綾瀬はいつもの笑顔を浮かべてそう言う。
「いや…しかし、それはお前に失礼じゃ…」
「うわっ…ここで私に気を遣うとかないわ~…」
彼女は引き気味にため息を吐いた。
「そこは恋人を立てなきゃ可哀想でしょ?
だから、彼女に何言われても絶対に、
『君の方が大事だ!』って何度でも言っとくんだよ?
私からは君にデコピン一発でチャラにするからさ」
そう言うと綾瀬は俺の額に軽くデコピンをした。
「………
綾瀬…何から何まですまない…
本当にありがとう…!
…俺、やっぱりお前に会えて本当に良かったよ」
俺は心の底からの礼を告げた。
――彼女のおかげで、俺はようやく前へ進む事ができた。……そんな気がする。
「いいってこと!
それじゃここから街まで追いかけっこしよ!
ビリだった方が昼食で全部おごりね!」
「は? いや、待て待て待て!
それ、元陸上部のお前に勝てる訳ないだろ!
それに今日に限っては最初からおごるつもりだし…」
「え~。こういうスリルがある方が楽しいんでしょうが。
分かってないなあ。
それじゃ、優しい私は100秒数えてからのスタートでいいからさ!
じゃ、行くよー!」
「えっ!?
ちょっと待っ――」
「いーち、にーい」
「ああくそっ! こうなりゃヤケだ! 全力で走るぞ!」
俺は街まで目掛けて全力で走り出した。
◇ ◇ ◇
「じゅうしち、じゅうはち…」
唯人が走り出し、綾瀬ひかりから姿が見えなくなると
「……はーぁ…」
彼女は数をかぞえるのを止め大きなため息をついた。
「卒業する頃までには彼と付き合えてると思ってたんだけどな…
……恋人がいたのは予想外だったな…
それでも……もしかしたらいけるかもって思ったんだけど…」
独り言を呟く彼女はもう1度深いため息をついた。
「私が別の場所で生まれて……彼ともっと早く出会えてれば……
………
何、無意味な事考えてんだろ…私は……」
綾瀬は悲しげな視線でうつむき喋る。
「なんで私…敵に塩送るような事言ったんだろ…」
彼女はうつむきながら喋り続ける。
「……あの言葉…ほんとは、私に言ってほしかったんだけどな…
……なんて、そんなこと彼に言えるわけないか……」
彼女は視線を崩さず、誰にも聞こえない場所で呟く。
「あーあ…まだ諦めきれないな…
どれぐらい経てばこの気持ちにふんぎりつくんだろ…
………
時間で片付く気……しないんだけどな……」
彼女の眼が少しだけ潤む。
「全く…こんな気持ちにさせた彼には後で、もう1回強めのデコピンでもしとこっと…!」
綾瀬はうつむくのを止めると再び数をかぞえ始めた。
彼女は数をかぞえている最中、自分の頬にポツリと雫が落ちたのに気づいた。
――1人で数をかぞえる事がここまで苦しかったっけ…
何度も頬を伝う雫を拭うことなく、彼女はそんな事を考えた。
-終-
※お読みいただきありがとうございました。
もし何か感じたことがあれば、ブクマや評価、ご感想をいただけるととても励みになります。