うっかり湖に斧を落としたら 怒った神が浮上した
木こりは湖に斧を落とした。
水の中から現れたのは頭に大きなたんこぶをこさえた男神。
木こりは青くなった。
斧がぶつかったに違いない。
男神は怒っていた。
澄んだ湖の底で、ゆったりとした時間を過ごすのが彼の楽しみなのだ。
それなのに、上から斧が飛び込んできた。
しかも、頭に当たるだと?
「誰だ? 私の楽しみを邪魔したのは!」
男神は水面から顔を出した。
木こりは謝罪した。
平身低頭して謝った。
「たいへん申し訳ございません。
この通り謝りますので、どうか怒りをお収めください」
男神は木こりと目が合った。
なんと、木こりは女性だった。美人だった。
身体は引き締まっているのに、胸が大きかった。
男神のどストライクだった。
そこで、男神は自分の務めを思い出す。
働き者で正直者、そんな人間には褒美を。
それが主神の言いつけだった。
人里離れた湖に、仕事道具を落とす者など滅多にいない。
あまりに暇なので、すっかり忘れていたのだ。
しまった。目の前の木こりは、どう見ても働き者で正直者。
サボっていて斧が当たり、怒ったことが主神に知られたら……
「済まぬ! 私が油断していた。貴女は少しも悪くない」
こういう時は、さっさと頭を下げるに限る。
「少し寝ぼけていたようだ。
さて、仕事をさせてくれ。
貴女が落としたのは、この金の斧か? それとも銀の斧か?」
「いいえ、わたしが落としたのは夫の形見の鉄の斧でございます」
なんと、木こりは未亡人だった。
男神はゴクリと唾をのむ。
「女だてらに木こりをしているのは、夫の跡を継いだのか?」
「はい、子だくさんでございまして、ちまちま働いていては養えませんもので」
丁度、領主館の普請があり、材木は確実に稼げる。
夫の手伝いをしたこともある未亡人は、なんとか頑張って木こりを続けていたのだ。
しかし、屈強な男仕様の鉄の斧は扱い辛い。
油断した隙にすっぽ抜け、湖へと落ちて行ったのだ。
それならば女性にも扱いやすい、軽めの斧を授けることにしよう。
男神は湖の底から、新しい斧を持ってきた。
「貴女にはこっちのほうが使いやすいだろう」
「まあ、本当です。とても、力が入れやすいようです」
ありがとうございます、と笑顔で言われ、男神はすっかり絆された。
「良かったら、私も伐採の手伝いを……」
ついつい口に出していた。
『許可する』
見回しても、他に誰もいないのに声が聞こえた。
『儂じゃ儂。主神じゃよ』
「主神様……」
『サボっとるので活を入れようとしたら、務めまで忘れとったとは』
「なんとも申し訳ございませぬ」
『まあ、よい。それで、彼女の手伝いをしたいのだな?』
「はい。そのように思います」
『神でなくなってもよいか?』
神でなくなる、すなわち人間になれば寿命がある。やがて死ぬ。
しかも、あくせくと働いて、休む暇もあまりない。
それでも、誰かのために何かをしたいと思ったのは初めてだった。
だから、迷わなかった。
「はい、かまいませぬ」
『うむ、達者でな』
主神の声は聞こえなくなり、男は自分から神の力が失われたことを感じた。
「あの、どなたと話されていたのですか?」
彼女には主神の声は届かない。
「主神と話していました。貴女を手伝いたいと言ったら、人間になることを許可されました」
彼女は息を呑んだ。
「わたしが誤って斧を落としたばかりに、神の力を失われたのですか?」
「いえ。私は神に向いていなかった」
男は笑った。
人間になったからには、屋根の下で寝た方が良い。
彼女は、とりあえず男を家に連れ帰る。
家では、父親を亡くした寂しさから、子供たちが男を離さない。
その夜は、父親が使っていたという大きなベッドで、子供たちにしがみつかれながら眠った。
それから、昼は彼女と共に森で木を伐り、夜は子供たちに囲まれて眠る日々。
あくせくと働き続けるのも、それほど悪くないと男は思うようになった。
一年を過ぎた頃、すっかり心を通わせるようになった彼女と結婚した。
二年を過ぎる前には妻が新しい命を宿し、男は一人で森に行った。
三年を過ぎて、一番上の男の子が仕事を教えて欲しいと、一緒に森に入るようになった。
それから何十年もして、男は人間の生涯を終える。
人の一生も悪くはないと思いながら、家族に囲まれ、穏やかに眠りについたのだった。