2.1人の女
僕の祖父は画家だった。
描くのはいつも女の人で、アート界では「花シーズ」と言われている。
子供の頃は、ただ単に綺麗な人だと思うに過ぎなかったが。大きくなるにつれ、そんなお気楽なことを言ってはいけない、と徐々にわかってきた。
花の女性は、祖父の愛する人だった。そして、祖母を描いたのではなかった。祖父は昔の恋人を描き続けていたのだ。
絵が評価されればされるほど、祖父の恋人への未練の凄まじさを評価されることになった。受賞のたびに、家族の中では何となく微妙な空気が流れる。
単に芸術だと割り切れれば良いような気もするが、身内の事情はなかなかキッパリとはいかなかった。
祖母は、凄い!と喜んでいたが、父は気に食わないようだった。母は当たり障りのないように、話題を変えたりして取り繕った。
今から思えば、祖母は本当に喜んでいたのか……わからない。
父は芸術家の祖父に反発し、公務員になった。きっちりと家と役所の往復、妻を思いやり、娘や息子と休みを過ごす。時々、外食に出かけたり、旅行に行ったり、派手さはなかったが、誠実で堅実だった。
僕はそこに息苦しさを感じ、隣の祖父の家に遊びに行くことが多かった。祖父は僕が何をするでもない時も、ただ絵を描き続け。
話しかけられると、黙って聞いているだけだった。それでも、僕はなんとなく横にいるとホッとできたのだ。祖父は僕を認め、好きにさせといてくれる。
そんなある日の出来事が、僕の中では祖父の衝撃的記憶として脳に刻まれている。
祖父と美術館に行く機会があった。祖父の「花シリーズ」のレプリカを展示する催しがあったのだ。
「優亮、このフロアーから動いてはダメだぞ」
祖父は僕にそう注意すると、知り合いの人と絵を前にして話をしていた。僕は多くの人が祖父の絵を見ていることが誇らしくて、この場所を離れるつもりはなかった。
グッズ売り場ではポストカードやポスターを買う人達もいた。父とは違い、お洒落でカッコいい祖父が自慢だった。
僕はふと、1人の女性が気になった。最後の展示画「別れ」を見ている女性、その人は長い時間その前に留まり、その絵だけを見ていた。
そっと近づくことにした。そんなに見入る人は珍らしく、興味を覚えたからだ。
水色のワンピースを着た、長い黒髪が腰まである、二十代前半の女。その人は、その絵をひときわ切なそうな表情で眺めていた。
そんなにも心に突き刺さる絵なのだろうか?自分も一緒に見てみたが、何がその女性にそんな表情をされるのか、僕にはわからなかった。単なる女の絵である。
その絵は【別れ】という題とは反対に、とても明るい色調だった。悲しいというより、花は前向きな別れを告げている絵のようにも思える。
しかし、祖父は僕以上にその女性に興味を持ったようだ。
「優花……優花……帰ってきてくれたのか」
そう、夢心地に呟いていた。
気づいた時には、その女性の横へとやって来ていた。いつも物静かな祖父とは思えない、ドカドカと大きな音を立てて歩く足音と共に……。とても焦っているように思えた。
祖父が近づくと、その女は怪訝そうな表情を浮かべた。驚くではなく、拒絶の態度である。
「優花?優花だな……僕はキミを想って描き続けてきた……優花、優花」
祖父は迷いなく、女性の手首を掴むんだ。女性は手を引っ込めようとしたが、それは許されなかった。
「姿を変えてもわかるからな、僕にはわかるんだ」
「止めてください!」
「逃げないでくれ!間違いはない!ほらここに印が」
祖父が女性の右手首の裏側を確認した。そこには、薔薇の刺青が入っていた。
やはりと目で頷くと、祖父は女性を引き寄せようとする。
「会いたかった!待っていたのだ、もう離さない」
何かに取り憑かれたように、彼女を貪ぶり続ける男。女性は睨むと、必死で抵抗した。
その姿に僕は嫌悪感を感じた。自分の知っている祖父だが、目の前の男は知らない男だった。穏やかな聖職者のようだと思っていた祖父はどこにもいない。
目の前の男のこの激しさは、狂気であった。
祖父はどうしてしまったのか、何かに取り憑かれたのだろうか?その鬼気迫る欲情は、幼い孫の心に恐怖を与えた。
騒ぎを聞きつけた関係者が、次々と祖父に駆け寄った。
「木村先生!どうされたんです!?落ち着いて!!」
女性を遠ざけると、祖父を別室に避難させる。既に大きな人だかりができていた。それでも、祖父は半狂乱になりながら名前を叫び続け、最後まで暴れていた。
祖父は2人がかりで、抱えられるように連れて行かれ。僕はその場に取り残された……。
「なに?なに?なんかあったの??」
「いやぁ、元カノと間違えたみたいだったけど……」
「え?すごく若い子だったよね?ありえないでしょ」
「元カノの娘だったとか?」
「その割には、あの絵と全然似ても似つかない感じだったよ……」
口々に、現場の野次馬達が語り合っている。いきなり暴れ出した文化人、それだけでニュースになる。
それも、若い女に狂っていた。
コソコソ声が耳に入ると、優亮は恥ずかしい気持ちでいっぱいになった。祖父は男の欲情というものを隠しもせず、堂々と皆の前で見せつけたのだ。
父が感じていたのは、これだったのだろうか……。家族が忌み嫌っていたのは、この恥だったのか……。
祖父に言い寄られた女性は気配を消すように、僕の横を通り過ぎた。そのすれ違いざまにポッリと漏らした。彼女は、自分がただの子供だと油断していたのかも知れない。
手首を庇いながら、小さな声で一言だけ。
「和樹、私はもうあの時の私ではないのよ」
その吐き捨てた冷たい言葉は、孫の僕の記憶に残ることになった。和樹は祖父の名前であり、彼女の言葉からは、その名に十分な愛着を感じさせた。
それからずっと、僕はあの人のことを忘れることができない。
それが、彼女に最初に会った日。
僕は小学四年生の時だった。