第1話 プテラとマル
大地に体を預け、両腕を広げ、すぅーっと深呼吸する。
ほのかに甘い香りが、鼻腔を通り抜けた。
「あぁー良い匂い」
青年は空に向き瞼を閉じて、ポツリとそう呟いた。
ここのところ陽気な彼奴は、高みから香気と愛想を振りまく。
最高に整った舞台の上で、元気な花は今日も優しく歌う。
心待ちにしていた草や木々たちは、その美麗な歌声に魅了され戦ぐ。
耳元で囁くような優しい花の歌声、繊細な息使いは、僕の心を調律してくれる。
そこに突如現れた、ご機嫌な風の笑い声に、僕もつられて笑みが溢れた。
その理由が気になったセレンは、思わず起き上がり、風に話し掛ける。
「何でそんなに笑ってるの?」
「楽しいからだよ」
「楽しい? 何がそんなに楽しいの?」
「自由に空を、舞っているからだよ。キミは今、楽しくないの?」
「ううん、僕も君と話が出来て、すごく楽しい」
「そう、それなら良かった。そんなキミに、良い事を教えてあげる。世界を回って、色々見てくると良いよ。そうすれば、今よりもーっと楽しいよ。なにより、キミはそうすべき定めの人間だから……」
そう言うと風は、新天地を求め去っていった。
「世界を回るか……、良いな。それに『そうすべき定めの人間』って、一体どう言う意味なんだろう……気になる。あー、世界は美しいんだろうな。そうだと良いな。―――いつかこの目で、見てみたいなー」
セレンは立ち上がり、両手でお尻を叩くと帰路に就いた。
歩き始めてからずっと、セレンの頭の中では、風との会話が渦を巻いていた。
「助けて……誰か助けて……」
新たな風が、セレンの元に声を運んできた。
声に気付いたセレンは、駆け足でその声の主の元へと急ぐ。
木々がセレンに声を掛ける。
「その先の森を抜けた所さね。さあ急ぐんだよ」
セレンは木々に一言お礼をすると、ニコッと笑顔を見せた。
―――彼はもしかして〝万物の声を聴く事が出来る〟のか?
風や木々とのやりとりを見ていた、綺麗な海色の大きな鳥が、セレンに話し掛けた。
「ボクがそこまで案内するから、ついてきて」
「わかった。お願い」
セレンは瞼ごしにボヤーっと見える、物影を追いかけた。
やっぱり、彼はボクの言葉を理解出来ている……彼はいったい何者なんだ!?
海色の鳥は木々の隙間を縫って、最短距離でその場所を目指す。
「助けて……誰か助けて……」
その声は直にセレンの耳にも届いてきた。
「これはプシプナの声……」
プシプナは猫科の種の総称である。
「大人しくしてろよ。この後に及んで、暴れてんじゃねーよ。プシプナはプシプナらしく人間様に、素直に捕まってりゃー良いんだよ」
「ニャーウ、ニャーウ、ニャーウ……」
僅少の希望と多大な悲哀を帯びた、プシプナの鳴き声が周囲に響き渡る。
「もうすぐ。ここを抜けたところだ」
「わかった。案内してくれてありがとう」
「うん。あの子を頼んだよ。えーっと……」
「セレン。君は?」
「マル。セレン、じゃー、またどこかで……」
「うん、またどこかでっ、マル!」
マルは森を抜けると上昇し、飛び去っていった。
通りを抜けると、森の少し開けた陽のあたる場所に出た。
その中央あたりに……うずくまるプシプナと、男達の姿があった。
プシプナの全身は、神々しい金色。蒼く透き通った瞳。その瞳の中には、金色で小さな斑点が一つある。フサフサの毛並みで、少し色褪せた真紅の首輪をつけている。更には、翼を有すると言う、極めて稀少なプシプナだった。
そのプシプナは、既に網で捕獲されていた。網の男の他に、籠をもった男、一メートルほどの太い棒を持った男がいた。その三人の男達に、連れて行かれようとしていた。
「ニャーウ、ニャーウ……」
棒で叩かれたのか、プシプナは少し怪我を負い、鳴き声も力強さを失いかけていた。
セレンは遠目にその状況を、なんとなく感じ取っていた。
その状況を感じた時……セレンの脳裏にノイズと共に、映像が浮かんできた。
その映像は、幼子を守る大人の女性が、数人の大人に囲まれている姿だった。
自分の身に起きた、初めての症状に戸惑うセレン。
だったのだが、今はプシプナを助けるために、先を急いだ。
思考を切り替えたセレンは、男達に近付き話し掛けた。
「君達はそこで何をしてるんだ? その子が嫌がってる。今すぐ解放してあげて」
「はぁー? 何だオマエ?」
「僕は、その子の『助けて』って声に導かれて、ここに来た」
男達の感嘆と冷笑、その二つが融和した笑い声がした。
「あっはっはー。ちょっと理由が斬新過ぎて、思わず笑っちまったわ。なかなか面白い冗談だな、それ。オマエ、笑いの才能あるわ」
「冗談じゃない、本当の事だ」
「本気で言ってんのかオマエ? 頭大丈夫か? 何で動物の言葉がわかるんだよ? わかる訳ねーだろっ!」
「本物の馬鹿だぜコイツ」
「痛い目みる前に、とっととここから消え失せるんだな、お兄ちゃん」
「ニャーウ、ニャーウ」
「そうはいかない。やっぱり『助けて』って言ってるから。その子は必死で、僕に助けを求めてる。見捨てる訳にはいかない。だから、絶対この場は引けないし、引く気もない。君達こそ、その子のことは諦めて、ここから立ち去るんだ」
「はぁーっ? さてはオマエ、このプシプナを横取りするつもりだな? そうはさせねぇーぞ。このプシプナは、俺達が先に見つけたんだ。俺達のものだ」
「僕はその子が欲しくて、言ってるんじゃない。その子が僕に助けを求め、僕はその声に耳を傾け助ける。ただそれだけだ。人が安易に、その子の自由を奪っちゃいけない」
「ふっ、そうか。なら邪魔なオマエには、この場から消えてもらう。そう言えばオマエ、さっきからずっと両目を閉じたままだが、まさか目が見えないのか?」
「だったら、なにか?」
「そうか、やっぱりそうだったのか。目も見えない欠陥人間のくせに、大人三人に喧嘩を売るとは。まーその無謀な勇気と、図太い根性だけには、誰等しく敬意を払おう。だがしかし、残念ながらオマエはただの大馬鹿者だー」
棒を持った男が、セレンの頭に振り下ろす。
セレンはそれを、難なく躱してみせた。
「どう言うつもりかわからないけど、暴力は良くないよ、やめた方が良い」
「何なんだよコイツ? 見えてるのか?」
「いや……確実に目瞑ってますよ」
「それにこの状況で、この落ち着きよう……普通じゃない」
三人は驚きを隠せないでいた。
「どーせ、万に一回のマグレで躱せただけだ。三人で掛かりゃーすぐに終わる」
「そーだな。そー何度も連続で、マグレが起こるはずもねー」
そう言うと、三人が同時にセレンに襲い掛かった。
網の中でうずくまる、プシプナが声を上げる。
「ニャーウ!」
「心配してくれてありがとう! でも大丈夫だからっ」
セレンは棒、蹴り、殴打、三人の攻撃を躱す。
すかさず腰を落とし、その場で回転しながら、三人に足払いした。
三人は「うわっ」っと声をあげながら、体勢を崩し地に尻をついた。
「何なんだよオマエは? 本当に見えてないのかよ」
「見えてない。色もわからないし、細かい事もわからない。でも、なんとなくわかる。なんとなくね。十六年もこうして生きていればね。それはそれで、その子の事なんだけど、そろそろ諦めてくれないかな? 僕もこれ以上、君たちを傷付けたくないから」
「わかった。諦める……」
「そっか……良かった」
棒の男は折りたたみナイフを取り出した。そして悪意の仮面を被り、プシプナに狙いを定めると、殺意を込めてそのナイフを投げ飛ばした。
「諦めるが、そのプシプナの命だけはもらうけどな!」
「ニャーウ!」
「しまったー」
殺気を感じ取っていたセレンの体は、思考を先回りして動いていた。
セレンの素早い動きで、突如竜巻が起こったかの様に、辺りに砂煙が舞った。
視界が晴れると、セレンがプシプナの盾となり、ナイフからその身を守っていた。
セレンの左手にはナイフが突き刺さり、鮮血がポタポタと、地面に滴り落ちていた。
「痛たたたっ……」
「ニャーウ……」
「謝らなくて良いんだよ。だって君は、何も悪くないんだから。それよりも君が無事で、本当に良かった」
そう言うとセレンは、プシプナに「ニィー」っと微笑んだ。
「ニャーウ」
「どういたいましてっ。さてと……」
セレンは、左手に突き刺さったナイフを引き抜くと、地面に放り投げた。そして、素早い動きでナイフを投げた男の間合いに入ると、少し声を荒げながら、力強く握り締めた右の拳で、躊躇も容赦すらもなく、男の左のコメカミをぶん殴った。
「無抵抗な生き物に、なにやってんだー」
鈍い音が響き、男は後方に数メートル吹っ飛び、そのまま倒れ気絶した。
唖然とする仲間の男二人が、気絶した男の元に駆け寄る。
セレンは少し崩れた感情を整えると、次第に理性を取り戻していった。
「まだやりますか?」
残った男達には、この七文字の言葉で十分だった。セレンの重圧を帯びた言葉と、例え閉じたままの瞼であろうとも、開眼しているかの様な、見劣りない怒りの形相は、男達のか細い闘争本能をいとも容易くへし折った。
男達二人は、気絶した男を肩で支えると、セレンに捨て台詞を吐き、荷もそのままに、その場から去っていった。
セレンが網を外すと、右手で軽くプシプナの頭を撫で、そして話し掛けた。
「安心して、もう大丈夫だから」
「助けてくれて、本当にありがとう。きみが来てくれなかったら、今頃私は……」
「うん。無事で良かった。君、怪我は大丈夫なの?」
「私は少し休めば大丈夫だよ。それよりも、きみの怪我の方が……」
「うーん? たぶん大丈夫だから、心配しないで!」
「本当に?」
「本当、本当。たぶん……ほらコレをこうしてこうすれば。ねっ」
「それ、お手拭きを手に、グルグルに巻いただけじゃない。早く手当てしないとダメよ」
「そう? じゃーとりあえずこれは応急処置って事で。ちゃんとした手当は家に帰って、じーちゃんにやってもらうよ。それで、君はこれからどうするの?」
少し間をおき、考えるフリをするプシプナ。
「―――プテラ。私の名前」
「プテラか。僕はセレン、よろしく」
「セレン……。うん、よろしくね。それで……相談なんだけど、私も一緒にセレンの家に行きたい。ダメ……かな?」
「別に良いけど……どうして?」
「セレンに、興味があるからって言ったら?」
それに……訊きたい事もあるしねっ!
「そっか、わかった。良いよっ。じゃー、一緒に帰ろー」
その返事を聞くとプテラは羽ばたき、セレンの頭の上に、ちょこんと香箱座りした。
そして、さもあたりまえの様に寛いでみせた。
二人は楽しく話しながら、家路へと急いだ。
「ねー、セレンは一体何者なの? どうして私の言葉が理解出来るの?」
「何者って……僕はじーちゃんと二人で、アルヒの街外れに住んでる、ただの普通の十六歳の男。どうしてプテラの言葉が、理解出来るのか、昔からそうだからとしか……。うーん、これ以上は、上手く説明出来ないかな」
プテラがセレンの頭を、前足でポンポンしながら訊ねた。
「そっか……。じゃー、じゃー、次の質問」
「なに?」
「セレン、私を助けに来てくれた時から、一度も目を開けてないよね。セレン、その目は開ける事が出来ないの? それとも……」
「一度も開けてないんじゃなくて、僕の瞼は開かないと言うか、開けられないんだ。そもそも開けるって感覚も、正直わからない」
「えっ!? じゃーずっと閉じたまま……なの?」
「そう、生まれてから今までずっと」
「そう……なんだ。何か変な質問しちゃって、ごめんなさい……」
「いいよ、気にしないで。僕は、話をしてると楽しいんだ。誰かと、何かと話をする事が好きなんだ。例え目が見えてなくても、話は相手の時間が許す限り自由にできる。話をすると、僕のまだ知らない事を知る事ができる。そうしてこの世界の、見えない真実を積み重ねてる。僕はそれを、頭の中の世界で想像するんだ。僕には色と言う概念が存在していないから、色の無い世界なんだけどね。だから偶然出会ったプテラと、今こーして話ができる事は、僕にとっては凄く新鮮で、貴重で、幸せな事だったりするんだ」
プテラもセレン同様、あの日以来となる、自分と話せる初めての人、セレンとの出会いに僥倖を感じていた。
そして、あの日のことを、少し思い出していた。
「あたしがあなたを、ここから逃がしてあげる。この首輪は、お守りだよ」
プテラは、自分を助け真紅の首輪をつけてくれた、あの少女のことを懐かしんでいた。
「そっか。でも、セレンは変わってるね。なんて言うか、どこか普通の人とは違う、独特な感じで、人を惹きつける不思議な雰囲気を持ってる」
「プテラ、それって褒めてる……んだよね?」
「もちろん、褒めてるんだよ。あと、セレンは優しくて、見た目も格好良いよ」
「褒めてくれてるんなら、そのご意見は素直に受け止めておきます」
「そーして下さい」
セレンの笑い声につられ、花も、草木も、風もアハハと笑っていた。
「それにしても、セレンはどうして普通に歩いたり、戦ったり出来るの?」
「僕は目が見えるって言う事が、どんな状態かわからないから、プテラに上手く伝わるかどうかわからないけど、瞼の上からでも情景が何となく、ボヤーっとわかると言うか、見えていると言うか、そんな感じ」
「なるほど……なんとなくはわかった。でも、それはそれで凄い話なんだけどね」
セレンが不意に、右手で頭のプテラを触った。
「プテラは凄く毛がフサフサだね。触ってると気持ち良い。それにいい匂いがする」
「女の子に触ってて気持ち良いとか、いい匂いって、なんかいやらしいよ」
「そう……なの? ただ事実を言っただけなんだけどな……。でもそうなんだ。次からは気を付けるよ。ねー、プテラの毛は何色なの?」
「金色かな。わかるの?」
「んーわからない。あははっ。でも、月と同じ色だね」
「そうだよ。なんで月の色なんて、知ってるの?」
「じーちゃんに、教えてもらったから」
「なるほど。でも、どーして毛の色を? そんなに色が、気になったの?」
「知りたかったんだ、プテラの事をもっと」
「ふ、ふーん」
第八話まで戦闘ありません。