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銀の魔王は棺に眠る  作者: 此島
二章
9/32

 リーファの逃亡劇から一夜明け、陽はまた昇り、温もりとは無縁な弱い日射しを注がせている。それでも空を一面覆い隠すような曇り空の日よりはまだましだろうか。

 多少のずれを伴って響く三人分の足音と、一頭だけになった馬が踏み固められた街道を辿る。一同は近くの宿駅を目指して進んでいた。盗まれた聖骸と賊を追うのに不可欠な馬を借りる為だ。

 賊は馬車を捨てて行ったようだが、だからといってヴェイン等が徒歩で行って追い付けるような近くには既にいないだろう。

 蒼穹には波を模して刷毛を引いたような薄雲が、日射しを透かすように掛かっていた。太陽が中天を過ぎ、一日の内で最も気温の上がるこの時刻だが、街道を行くヴェイン等の向かって右手側に広がり続ける森が影を落としている所為で辺りは陰鬱な冬の寒さに包まれている。

 寒さに身を竦めてとぼとぼと歩くリーファは逃げ出す事は諦めたようで、その態度は今まで以上に大人しい。どうやら彼女は自分の所為であの鹿毛の馬が死んでしまったと悔いているらしかった。そしてどういう訳か、ヴェインにも申し訳無いとして自らの行いを責めている。

 道すがら、あるいは携帯食で済ませる簡素な食事の時間、不意にヴェインと目が合う度にリーファは許しを乞うような瞳をした。自責と悔恨に苛まれている瞳だった。あの目で見つめられるとヴェインはまるで自分が愛馬でも亡くしたかのような錯覚を覚える。

 確かにあの馬とは幾度か任務を共にした。強くしなやかな良い馬だったと思う。だが、それだけだ。

 特別の思い入れなど何も無い。あの馬が死んだ事によって生じるのは不都合であって、悲しみや怒りなどは皆無である。

 命あるものは、どうせ、いつか死ぬ。所詮、その時が訪れるのが早いか遅いかの差があるだけに過ぎない。

 そもそも――と、あれ以来俯きがちのリーファを監視がてら見遣り、ヴェインは思う。

 慚愧して後悔するくらいならば、どうして馬を奪って逃げ出したのか。リーファはそれが彼女にとって最善の選択だと考えたが故にそうしたのではないのか。ならばそうやって後悔する必要などあるまいに。単純に逃亡の失敗を悔やむのならばまだ解るが、何故馬の死に責任を感じ、暗鬱な表情を湛えているのか。それがどうしてもヴェインには理解出来ない。

「ヴェインは揺るぎないからね。折れないのが不思議なくらい真っ直ぐだし」

 昨夜の野営の際。リーファは命の危機に晒された緊張で疲れ切っていたようで、堅パンを幾つか囓る程度の食事を終えると崩れ落ちるように深く寝入ってしまった。心労の所為もあるのだろう、焚き火に照らされていても死人のように青白い少女の寝顔にヴェインがふと呟いた疑問。それに応え、薪が炎に爆ぜる音よりも幽かな忍び笑いを交えてゼラはそう言った。揺らめく炎の向こうで膝を抱え、彼は少しの間静かに笑い続けていた。

 耳を掠めた極小さな歌声につと視線を動かせば、馬を引いて先頭を行くゼラが何かの旋律を口遊んでいた。歩調を合わせなければいけないのなら馬を下りて一緒に歩いていく方が良いと言う彼とは逆にのんびりした歩みが不満なようで、自分はまだ幾らでも走れると言わんばかりに馬が鼻を鳴らす。ぐずる馬を時折宥めながら行くゼラだが、彼一人だけならこんな風に地道に街道を行く必要が無い事をヴェインは知っていた。

 その分野の才知に長け、古の魔術にまで通暁するゼラは彼我の距離を無視して空間を飛び越える転移の魔術をも使い熟す。その気になれば彼は一瞬で遙か彼方の地へまで跳べるのだ。

 ゼラが賊を追う為に空間転移を使わないのは相手の現在位置が正確に把握出来ていない事と、転移の魔術を用いた際の消耗を考慮しての事だ。現在地からの空間距離を超越して目指す場所へと移動する転移の魔術とは、その高度さ故に乱発出来るような術式ではない。加えてヴェインやリーファなどの同行者――つまりは自分以外の他者を連れて転移など試みれば、丸一日はまず動けなくなるくらいの消耗が予想されるそうだ。であれば有事を考えて温存に努め、己の足で歩いて行く方が良いというのが彼の意見であり、それについてはヴェインも同感である。

 進めども然して変わらない景色を見るとは無しに眺めつつ、歩く。責任を感じて下ばかりを向いている無言のリーファと、暢気に歌など歌っているゼラ。その後ろに続く形で街道を進むヴェインには前にいる正反対な二人の対比がちょっとした鏡合わせのように思えた。

 そのまま明と暗を混在させながら歩くこと一刻。段々と傾いてゆく太陽が雲間に隠れて空が陰った頃合いに、一行は宿駅に到着した。

 森の奥へと続く小道から街道を挟んで真向かいに建つ石造りの宿は、淡い灰の色合いをしている。建物全体の形はやや横長の四角になっており、同色の石で葺かれた屋根は平たく、その外観はまるで巨大な石の箱のようである。宿の脇には厩があり、元気そうな数頭の馬が繋がれている。宿駅の造りは何処でも同じになっているので、ヴェイン等の立つ正面からは見えないが宿の裏手には木組みの納屋がある筈だ。

 入口の側に停められた小さな荷馬車から野菜の箱を下ろしている中年の女がヴェイン等に気付き、仕事の手を止めて顔を上げる。制服姿であるから此処の駅員だろう。

「これは軍の方。何かご用でしょうか?」

 黒の軍服を珍しそうに見たものの、すぐに姿勢と表情を正して挨拶をし、責任者である事を示す徽章を付けたその女が尋ねてくる。

「馬を一頭借り受けたい。それから今夜の宿も頼めるか?」

 ヴェインは懐から身分証明に軍の認識標を取り出す。細い銀鎖の通された、掌に収まる大きさの細長い金属板には彼女の姓名と帝国軍内での所属が記されている。

 身分を確認した駅長は「はい。承りました」と丁寧に返答をして認識標をヴェインに返した。ヴェインは認識標を受け取る代わりに一人分の宿代を駅長へ手渡した。

 アルトナージュに於いて宿駅とは全て国の管理下で運営されている。その為軍人や役人などの人間が職務で利用する場合の諸々の代金は国庫が負担をする。よってヴェインとゼラは利用の代金を支払う必要は無いのだが、国務や軍事とは一切無関係のリーファがいるので、ヴェインはその分の宿代を支払ったのだった。

 皇帝直属の部隊と知られる黒の軍服を着込んだ人間二人と一緒に、その連れとして謎の少年――仕草そのものは紛れも無く少女のそれなのだが、顔を隠すような頭巾と眼鏡に加え、体型を誤魔化す厚手の上着といった格好から、黙って立っているだけなら少年にも見えるだろう――がいる事に興味を持ったようだったが、彼女等駅員も一種の役人であるので敢えて質問はせず、気にならない風を装って駅長は職務を全うする。

「それでは手続きを致しますので中へどうぞ。其方の軍馬は手続きの後でお預かりしますので、そのままで結構です」

 駅長は序でにか野菜の詰まった箱を一つ持ち上げ、荷運びの為に大きく開け放たれた間口の広い玄関の中へ入って行った。言われた通りにヴェインは宿の扉を潜る。荷下ろしが終わるのを待っている荷馬車の引き馬が好奇心に満ちた目で前を通るヴェインを、居心地悪そうに続くリーファを、最後にゼラと、此処にいるよう言い付けられている栗毛の馬を追っていた。

 入ってすぐの部屋は食堂と談話室を兼ねた広い一間になっていて、暖炉に惜しみ無く焼べられた薪が大きな炎を生み出して広い室内を快適に暖めている。入口の左手側に受付用の作り付けのカウンターがあり、その奥が駅員の詰め所兼居室。正面奥には客用の部屋が並ぶ二階へと続く階段がある。

 室内に整然と配された幾つもの角卓の上には一輪挿しの花瓶が置かれ、それぞれに異なる花が生けられていた。その色彩と淡い香りを愛でながら、二人組の泊まり客が茶を片手に会話を楽しんでいる。花瓶の下の小さな敷物も一つ一つ違っていて、美しい花弁の色との取り合わせが考えてられているらしい。同じく国の管理であっても宿駅の内部の細かな装飾などは常駐する駅員の趣味や感性が反映される。殺風景なくらいに無味乾燥な宿駅がある一方、この宿駅は訪れる客人への駅員の心尽くしが其処彼処に見受けられた。

「…これ、何かしら?」

 聞き逃してしまいそうな小さな声でリーファが呟いた。リーファは壁際に沿うように後から取り付けられた木棚の上を興味深げな眼差しで順繰りに辿っている。

 棚の上はさながら露店の店先のように様々な物が陳列されていた。木彫り細工に数種の木製小物や織物。埃除けの布を被せられた籠には木の実を混ぜて焼いたらしいクッキーが入っているのが布の隙間から窺える。

「兄ちゃん、買ってくれんの?」

「きゃっ!?」

 横合いから突然掛けられた幼さの残る子供の声にリーファが飛び上がる。驚く彼女の隣で、棚の真下にある長机に両腕を乗せた少年がリーファへと、にこにこと無邪気な瞳を向けていた。

「これ、みーんなうちの村の人が作ったんだよ。このクッキーはおれの母ちゃんが作ったんだ。おいしいから沢山買ってってよ」

 得意げに語る少年の話によれば、この宿駅では向かいの森の中にある村の農作物や畜産品を仕入れている他、村人達の作った色々な品物を販売しているらしい。言われて見れば並んだ物品の手前には良心的な価格の示された値札が置かれている。持ち込まれた品物が売れた場合の売り上げは駅員がしっかりと個別に分けて管理し、次の仕入れの際に渡してくれるとの事で、なかなか良い商売になっているとの事だ。

 期待を込めた目で無遠慮に見上げてくる年下の少年に若干後込みしつつ、リーファは小さく首を左右に振った。

「ご、ごめんなさい。私…お金、持ってなくて」

「えー!折角父ちゃんの代わりに運んできたのにぃ。村から馬車走らせてくるの、けっこう大変なんだぞ」

「何言ってるの。父ちゃんがうっかり足捻っちゃったお陰でやっと馬車を預けてもらったって喜んでた癖に」

 階段の隣に位置する厨房の床に野菜の箱を置き、駅長の女が優しく冷やかす。少年は此処に頻繁に出入りしているようで、親しい間柄なのだろう。横槍に少年が照れたような誤魔化し笑いを浮かべた。

 今は手持ちが無いと答えたリーファだが、少年はそれでも諦め切れないのか、子供らしい真ん丸な瞳でじいっとリーファに購入を訴え掛けている。商売如何というよりは純粋に自分が運んで来た品物が売れるところが見たいのだろう。

 少年の熱烈な視線を浴びてたじろぐリーファが申し訳無さそうに目を逸らそうとする。其処へ、黒い袖から覗く雪のように白い手が少年へと差し出された。

「路銀すら持っていないのによく一人で逃げようなんて考えたね。頭の中身が子供なのにも程があるんじゃない?」

 微笑んで言うゼラは少年に数枚の銅貨を渡して、籠からクッキーを三枚手に取った。少年は手渡された代金を大事そうに握り締めて喜び、その場で飛び跳ねている。

「案外、この子の方が貴女よりも大人かもね?」

 意地の悪い満面の笑顔でゼラはリーファにクッキーを一枚差し出す。その言動にむっとしながらもリーファは味の感想を求めて顔を輝かせる少年の手前、渋々ゼラからクッキーを受け取った。

「偉そうに…。あなたこそ、そうやって大人ぶってるけど私と大して変わらない年頃でしょ」

 悄然としていた先刻までとは一変し、拗ねたように言うリーファ。クッキーを片手に傍へやって来たゼラはヴェインを見上げてからリーファへ視線を戻し、小さく一つ、悪戯っぽい笑みを零した。

「僕?――二十六歳だけど?」

 因みにヴェインは今年で二十三である。くすくすと笑いながら腕にしがみ付いてくるゼラを適当にあしらってヴェインは渡されたクッキーを囓った。甘過ぎない生地に混ぜ込まれた木の実のザクザクとした食感が実に美味だ。

 ゼラの返答にからかいの色を感じ取ってリーファが顔を真っ赤にする。怒りに任せて姫君らしからぬ大口でクッキーに囓り付いた彼女は、噛み砕いた欠片がおかしなところに入ったらしく、激しく噎せて傍らの少年に心配されていた。

「お待たせして申し訳ございません。最後にご署名をお願いします」

 カウンター越しに例の駅長が出してきた専用の宿帳にヴェインは素っ気ない筆跡で署名をする。一行の責任者はゼラであり、本来なら署名するのも身分を提示するのも彼の役目なのだが、仮にも皇族というから要らぬ騒ぎが起こらぬよう、こうした場合にはヴェインが表に立つ。

「序でに一つ訊かせてもらいたい。此処数日の間に私達と同じ黒の軍服を着た女がこの近辺を通らなかったか?」

「黒の…女性、ですか?」

「うん。紅い髪をこう、くるくると巻いていて、自意識過剰で露出過多な感じの二十歳くらいの高慢そうな一応美人」

 シェリスタ本人が聞けば確実に怒髪天を衝くだろう容姿の説明の仕方だが、ゼラのその表現自体は間違っていない。ヴェインは黙って駅長が記憶を掘り起こすのを待った。

「…申し訳ございません。生憎とそのような女性はお見掛けしておりません」

「そうか。済まない」

 頷いてヴェインは記入の済んだ宿帳と羽ペンを駅長に返却する。

 彼方からの連絡は無くとも、南に向かって進んでいれば賊を追うシェリスタの目撃情報くらい手に入るかと思ったのだが、当てが外れたようだ。盲進的な彼女の事だから其処がどのような場所だろうが関係無く、賊の後を追ってひたすらに駆け続けている可能性も無いとは言い切れない。

 よもや、賊を追うのに熱心な余り報告を入れるのを忘れているのではなかろうか。ヴェイン等が帝都を経って早幾日。未だに何の連絡も無い事を思えばそれも充分に有り得る。

 本当は此方から連絡を入れてみればいいのだろうが、シェリスタにはゼラを嫌っている節があり、彼からのものは言わずもがな、そのお守り役として認識されているヴェインからの連絡にも気付いても応答しない恐れが高かった。曲がりなりにも軍属としてその態度はどうなのだとは思うが、叱責したところで反発こそあれ素直に聞き入れる事などありはしないだろう。全く以て問題児だらけの部隊である。

 のんびりクッキーを咀嚼するゼラを横目にヴェインはこの追跡行の行方を思って、ふう、と溜め息を洩らした。

 と、その溜め息の尾に被さるように、尋常のものとは思えないけたたましい悲鳴が耳に届いた。音の方角からすると裏手からだ。ヴェインは無意識に腰の長剣に触れつつ、即座に建物を飛び出した。

 慌ただしい足音が此方に走り込んで来る。今にも転びそうな危うい勢いで駅員の青年が駆けて来る。顔面蒼白の彼は宿の前に立つヴェインを見るなり大声で叫んだ。

「ま、魔物が――っ!」

 助けを求めたのか、もしくは注意を促したのか。しかし乱れ切った呼吸で叫ぶのには無理があったようで青年は堪らず足を止めて咳込んでしまう。その背後に迫る魔物の影にヴェインは剣を抜きながら地を蹴った。

 蹲り喘ぐ青年へと伸ばされた魔手を瞬時に切断する。肉を切り裂くのとは異なる硬い手応えがした。それもその筈、ヴェインが斬ったのは尖った先端を持つ一本の枯れ枝だったのだ。

「…腐樹か」

 口の中だけで呟く。続け様に繰り出された逆側の枝を打ち払い、半ばで折れて切断面のささくれた立ち枯れの木と見紛う魔物の身体を縦に真っ二つにする。一息に薪を割るような小気味の良い音が響き、腐樹は見事に真ん中から左右に分かれて倒れた。

 ヴェインは片目を眇めて後続の腐樹との距離を測る。その大きさは総じて小柄な人間程度。凶暴ではあるが自らの腕である枝を突き刺す以外に彼方に攻撃手段は無く、幾本もの根を足の如く動かしての移動は然程速くはない。単体では決して恐ろしい魔物ではないが、だが腐樹には酷く厄介なある特質があった。

 それは、親玉を倒さなければ際限無く増え続けるという事。通常の腐樹は〝姫〟と呼ばれる母体の手足に過ぎないのだ。〝姫〟は腐樹を使って人間やその他動物の生き血を吸い、その養分で眷属を増やす。この近くの何処かにいるだろう腐樹の〝姫〟が現在どれだけの養分を身内に蓄えているのかは判らないが、このままではあっという間に此処は腐樹で溢れ返るだろう。そうなる前にどうにかしなければ。

「他に外にいる人間は?」

 駅員の青年に鋭く問う。魔物に襲われ動揺する青年の答えははっきりしない。尋ねるだけ今は時間の無駄か。ただならぬ様相に建物から表に出て来た先程の駅長と、奥にいたらしい前掛け姿の駅員の女にヴェインは素早く指示を飛ばした。

「彼を中へ。中にいる者は外へ出すな」

 前掛けの女の方が戸惑った顔をする中、駅長が責任者らしく心得たと力強く頷く。女達は青年に肩を貸して建物内へと避難させる。

 ヴェインは追い縋った腐樹を断ち割り、屋内のゼラに向かって目配せをする。騒ぎを聞き付けて客室から下りて来たらしい者達がざわめく屋内で、ゼラは既に宿の中央付近に立って詠唱を始めている。魔物の出現を聞いて先日の一件を思い出したようでリーファは自分で自分を抱き締めるように両腕を回し、大丈夫なのかと問うような眼差しでヴェインを見つめてきた。

 厩の方から悲鳴染みた嘶きが聞こえ、ヴェインは其方へ急ぐ。四体の腐樹に囲まれた馬達がじわじわと狭まる包囲の輪に慄き、どうにか魔物を追い払おうとして騒いでいた。

 集まった腐樹を次々に斬り倒し、馬達を救出する。しかし倒す側から新たな腐樹が地中から生えるように現れ、襲い掛かって来る。

 近くに現れた一体を打ち割り、すぐさま新手に向き直る。腐樹が〝姫〟の為に新鮮な血を欲して凶悪な枝をしならせる。次の瞬間、高速で突き出される槍の如く枝が風を切り、剣を握るヴェインの腕を狙って枝先が迫った。

 けれどもその一撃はヴェインには届かず、肉を貫く湿った音に代わって一瞬、硬質の響きが谺した。次いで虚の空洞を風が吹き抜けるような腐樹の口惜しげな〝鳴き声〟が上がる。突き出した枝先はヴェインの手前で視えない何かに阻まれていた。

「やっとか」

 ヴェインは長剣を鞘へと戻しながら言う。不可視の壁に阻まれた腐樹の枝先に見る間に小さな青い炎が点り、炎は先端から浸食するように腐樹の枝を覆い尽くしてその全身を包み込んでゆく。ゼラの結界が完成したらしい。これで腐樹共は宿の中へは疎かその周囲に近寄る事も出来ない。かといって〝姫〟を見付けて倒さない限りはその養分が尽きるまで無数に湧いて出るだろうが。

 腐樹の方がこれ以上は無駄と襲撃を断念してくれればよいのだが、そうもいかないだろう。

 しかし、何故こんな場所に腐樹が現れるのか。

 街道沿いとはいえ絶対に魔物が出ない訳ではないが、腐樹とは人の余り立ち入らぬ深い森に棲息している魔物である。幾ら宿駅の目の前が森だからといっても、緑の木々の内へと延びた小道の先には人間の暮らす村があるのだし、流石に腐樹が出るような場所とまではいかないだろう。

 香木を燃やすような匂いに数歩先でまた別の腐樹が炎に呑まれたのを視認し、ヴェインは〝姫〟の居場所をゼラに相談しようと屋内に戻った。建物の中は不安げな囁きや腕に覚えがある者が息巻く声で騒然としていた。ヴェインが室内へ足を踏み入れると外から帰って来た彼女に人々の視線が一斉に注がれる。様々な感情を纏った一同の視線の全てを黙殺してヴェインはゼラの方へと歩み寄ろうとし、

「そんな――!まだ戻ってなかったの!?」

 驚愕の悲鳴にそれを遮られてカウンターの傍らで立ち止まる。凍り付いた表情の駅長は「何て事なの…」と震える声で呟き、途方に暮れたように外を、広がる森の方向を見つめた。

「どうした?」

「…駅員が一人、戻って来ていないんです。暫く前に向かいの森の村に薪を買いに行ったのですが――」

 駅長の言葉に弾かれたように其方へ向けたヴェインの目線の先で、街道に面した木立の隙間に姿を現した腐樹等が不気味に枝を揺らしていた。森の木々に擬態するように佇んでいるものの、高く背を伸ばす周囲の木に対して明らかに背丈が低く、水に浸り続けて腐り始めたような幹の色でその判別が付く。森に蠢く腐樹の数は根をうねらせて宿に躙り寄るモノよりも多い。

 駅長が二の句を継ぐ前にヴェインは走り出していた。怯える荷馬車の引き馬を対面にして軍馬としての威厳を誇示するかのように凛と佇む栗毛の馬に飛び乗り、森に分け入る小道へと馬を飛ばす。

 森の木々が織り上げる枝葉の天蓋は小道の上にも張り巡らされ、まだ空の明るい時刻にも拘わらず、森の中は落陽を迎えたかのような弱々しい光しか射さない。渦巻く魔物の気配に木陰の闇は一層深く感じられる。寄って来る腐樹だけを斬り払いながらヴェインは馬を飛ばして木々の間に駅員の姿を探した。

 小道の脇に、投げ捨てられたかのような薪の束があった。薪は均等な形に揃えられて紐で括られていたが、放り出された衝撃に幾本かが束から抜け落ちて転がっている。村に出掛けたという駅員が買って来た物なのだろうが、肝心のその駅員が見当たらない。

 まさかもう喰われてしまったのだろうか。そう思ってヴェインは険しく眉根を寄せた。

 今一度辺りを見渡して、視界の奥に人らしき影を発見する。急いで馬を向かわせると駅員の制服を着た男が三体の腐樹に詰め寄られ、木を背に座り込み絶望に表情を引き攣らせていた。

 ヴェインは馬に制動を掛けるのと同時に鞍上から大きく跳んで、男と腐樹との隙間に身を踊らせた。振り返り様に振るった長剣が立ち並ぶ腐樹達の胴部分を纏めて断つ。

「怪我は?」

 油断無く周囲を窺いながら男に尋ねる。大丈夫だと言いたいのだろう、男は首を振り続ける絡繰りの人形のようにこくこくと何度も頷きを返し、差し出されたヴェインの手を取った。男を引っ張り起こして、彼を宿に連れ帰るべくヴェインは少し離れた所にいる馬の許へ走る。

「―――っ!」

 唐突に飛び込んで来た殺気にヴェインは身体が反応するままに剣を右側へと払った。鳴り響いたのは金属同士がぶつかるような耳障りな硬音。剣を振るった腕には咄嗟に払い除けた何かの重さの余韻が残っている。

 下草を踏む軽やかな着地音に警戒して身構える。漂う腐樹の気配を隠れ蓑に息を潜めていたのだろうか。先程まで他の魔物の気配などは全く感じられなかった。其処に何がいるのかを見極めようとヴェインは眼光鋭く其方を注視する。

 木陰で星明かりの如く光る、二つの巴旦杏(アーモンド)型の眼。蟠る闇を思わせる四つ肢の獣が低く唸りを上げて、のっそりとその姿を現す。獅子に似た体躯と、胴回りから肢に掛けて表皮を鎧のようにびっしりと覆う青銅色の鱗。

鎧獅(がいし)――!?」

 ――何故、こんな魔物が此処にいる?

 襲い掛かって来た魔物が何であるかを見定めたヴェインの頭を疑問符ばかりが駆け巡る。鎧獅は山岳地帯に生息する魔物なのだ。間違ってもこんな平地の森の中にいる魔物ではない。

「う…うわあぁぁっ!?」

 男の狼狽し切った悲鳴で疑問の中から立ち返る。現れた鎧獅は一匹だけではなかったのだ。戦慄する男の数歩先では、二匹の鎧獅が並んだ鏃のような牙列を剥き出しにして、哀れな獲物の喉笛を咬み千切る機会を狙っている。

 考えるのは後回しだ。疑念を一先ず思考の彼方へ追い遣り、ヴェインは外套の合わせ目を留める紐を解いた。好機となるその一瞬を逃さないよう鎧獅達の動向を窺った。

「ガアァアアッ!!」

 二頭の鎧獅が罅割れた咆哮を上げて身を屈めた。刹那、ヴェインは纏っていた外套を大きく広げて鎧獅の眼前に放り投げる。

「来い!」

 頭を抱えて上体を丸める男を強引に引き寄せ、馬上に押し上げる。獲物目掛けて飛び出そうとした瞬間を外套に絡め取られて藻掻く二匹を後目に、先の一匹が向かって来た。ヴェインは岩をも切り裂くという鎧獅の爪を剣で弾いていなし、刃先を返して剣の腹で馬の尻を打った。

 思い切り駆け出す馬に駅員が懸命にしがみ付く。進路にいた腐樹を強靱な脚力で蹴り倒しながら馬は背に乗せた駅員を振り落としそうな勢いで小道を駆け戻って行く。瞬く間に遠ざかる馬と駅員を最後まで見ず、ヴェインは剣を構えて鎧獅達と対峙する。

 敵は三匹。絡まっていた二匹も目眩ましの外套から抜け出し、腹立たしげにヴェインを睨んで唸っている。

 鋼鉄のような鎧獅の爪牙が殺意を湛えて地面を掻き、削る。三匹の動きそれぞれを見逃さぬようにしながら、攻撃の隙を窺う。複数の鎧獅を相手に勝算などまるで無いのだが、それでもヴェインに恐怖は無かった。

 頑丈な鱗に覆われた身体に剣撃など碌に通用しないだろう。盾代わりの籠手のみならずこの長剣も呪鍛されており、通常の剣の比ではない切れ味や強度を誇るが、鎧獅の鱗相手にどれだけ渡り合えるか。ゼラの援護でもあれば話は別だが、物理的な攻撃手段しか持たないヴェイン一人ではこの魔物共を残らず屠るのは至難の業だ。

 これは死ぬかも知れないな。悲観ではなく純然たる事実の予測としてそんな考えが過った。

 剣を握る手に我知らず力が籠もる。目前に訪れた死の予兆に、胸の奥底から沸き上がる暗い歓喜に、ヴェインの口許はうっすらと笑みの形に歪んでいた。

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