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銀の魔王は棺に眠る  作者: 此島
二章
7/32

 生まれたての朝日が青み掛かった薄灰色の空を、棚引く雲を、明けの色に染め上げる。徐々に彩度を増してゆく空を背負い、美しくも要塞を思わせる城は揺るぎ無く其処に佇む。

 早朝の陽光は空気を暖めるには足らず、呼吸をすれば凛と冷たい透き通るような風の匂いが肺を満たす。ヴェインは厩番から体格の良い、足の強い馬を借り受けてその腰に荷を積んだ。

 近くではゼラが同じように栗毛の軍馬に荷を乗せ、歩いている間に落ちないよう丁寧に纏めている。公私共に高い身分を持ちながら彼は自分の愛馬を持たないので、ヴェインと同様に任務で馬が必要な際にはこうして軍馬を飼育する厩から借り出していた。

 一足先に支度を終えたヴェインが其方を見つめているのに気付くと、ゼラは「もう終わるから」と言って馬体をそっと撫でた。

 昨夜、ゼラは去り際の言葉通り自室に戻って来なかった。普段の彼の言動を鑑みると本当にフェルキースの部屋に泊まったかどうも怪しく、果たして何処で何をしていたのか。取り敢えず、出発に際しての体調は万全のようなので放っておくが。

 寧ろ案じるべきなのは彼よりも此方だろうか。ヴェインは視線を傍らへ滑らせて、頭巾を深く下ろしたリーファを見た。

 陰になって少々判別し辛いが、他国から来た旅装の少年という格好をしたリーファの目許には隈が浮かんでいた。昨夜も良く眠れなかったのだろう。深窓で育てられた姫君らしく繊細であるらしい。あの状況で快眠を貪れるような豪胆さはこの少女には持ち合わせが無かったようだ。

 一目で判る疲弊の表情と、大きな眼鏡の奥で赤く充血した瞳。強引にとはいえ寝台を譲って長椅子で寝た甲斐が無いが、それを言っても詮無い事だろう。リーファを寝台に放り投げ、ゼラに言い付けられたのだろう女官が持って来てくれた毛布に包まり、寝室の扉を塞ぐ為に居室の方から運び入れた長椅子で寝たヴェインだが、充分身体を休める事は出来たのでさりとて文句も無いのだ。

 おどおどと組み合わせた両手の指を弄っているリーファの肩は彼女の抱くその不安にか、体格以上にか細く見えた。賊に入り込んだのは己の方とはいえ仲間と離れて独り取り残され、敵対するアルトナージュの皇子と軍人の間に身を置くのだ。さぞや心細い事だろう。かといって心を砕いてやるつもりも義理も微塵も無いが。

「お待たせ。じゃあ、行こうか?」

 ゼラが軽やかに馬の背に飛び乗る。続いてヴェインも馬に跨がった。右腕で手綱を取り、鞍上からリーファに左腕を差し伸べる。

「乗れ」

 賊として捕らえた人間を単独で馬に乗せる事は出来ない。万が一にも馬を駆って逃げられたら面倒な事になる。ゼラにはリーファを乗せて馬を走らせる気は無いとの事で、その役目はヴェインに回された。

 リーファはヴェインの腕が差し出された瞬間、何を思ったのか怯えて身を竦ませた。少しの間この手を取って大丈夫なのかと自身に問うように立ち尽くしていたが、やがて意を決したのか、彼女は怖々とヴェインの手に掌を重ねる。

 其方にだけ嵌めている呪鍛された籠手に指先が触れ、リーファが冷えた金属の感触に小さく悲鳴を洩らす。ヴェインは構わず彼女の手を掴むと腕一本で少女を馬上に引き上げた。

「先に言っておく。もし逃げ出そうとすれば命の保証は無い」

「……っ!」

 色を失ったリーファを一瞥し、ゼラがくすりと笑った。

「態々警告しなくてもいいと思うけど。そんなの当然の事だしね」

 身を硬くしたリーファを鞍の前に座らせ、腕の間に挟み込むようにその動きを制限する。馬の首を軽く叩いてヴェインが宜しく頼むと挨拶をすると、鹿毛の馬は答えるように短く鳴いた。これまでにも任務上の都合で何度か行動を共にした事があるが、気立ても聞き分けも良い馬だ。相棒も同行者も、これくらい此方の言う事を聞いてくれればよいのだがと思う。

 恐縮する厩番の見送りを受けて通用門から城下へ出る。少しずつ目覚め始めた城下街では朝の早い者等の姿がちらほらと見掛けられた。深呼吸をして伸びをする者や早くも仕事の支度に取り掛かる者の声が、日中の賑わいが嘘のようにひっそりとした大通りを闊歩する二頭の馬の蹄音に混じって聞こえてくる。

 帝都のぐるりを囲む堅牢な城壁の唯一つの出入口である街門を門番の敬礼を受けて抜ける頃には、彼方の空は薄青色へと変わっていた。進路を南へ取り、二頭の馬は轡を並べて進んで行く。

 大人の膝丈まで背を伸ばした草が生い茂る平原を断ち割るように街道が延びる。無数の人の行き来によって踏み固められた道は歩くに易く、馬に任せて進んでいても障害になり得るものはほぼ無い。その中で唯一脅威となりそうなものが、尋常の獣よりも頑強で狡猾な魔物の存在だ。しかし軍が定期的に街道の安全確保の為に魔物討伐に赴いているので、街道沿いでは魔物が見掛けられる事は山野や森と比較して格段に少ない。道を外れさえしなければ其方への警戒も然程気にしなくていいだろう。

 地平の先では大地の緩やかな勾配に隠されて街道が途切れたようになっている。視界の遙かには天を突くような針葉樹の森と斑に白い山々が霞んで続く。

 黙々と街道を南下すること一日。早々追い付ける筈も無いが、辺りには賊の姿は疎か、先行して飛び出して行ったと聞く同僚の足跡にすら出会さなかった。偶に擦れ違う旅人に話を聞いてみても有力な目撃情報は得られない。

 明けて半日近くを進み、街道が三方向に分岐する場所までやって来た。しかし依然として賊の手掛かりは無く、その足取りを知らせる連絡も入らない。果たしてこのまま街道に沿って南下を続けるべきか、それとも別の道程を考えるか。相談がてらに馬を下りての休息を取る。

「判るか?」

 尋ねて視線を向けるが、問われたゼラは平たく伸ばした棺桶を立たせたような形をした高い石碑が根を下ろす石の台座に腰掛け、じっと瞳を閉じている。知覚を広げて聖骸の放つ魔力の気配を感じ取ろうとしているのだ。答えが無かったのでヴェインはその阻害にならぬよう静かにしていた。

 馬に揺られ続けて疲れたのか、地面に座り込むリーファが人心地付いて息を吐き出す。思いの外大人しいこの虜囚の少女はヴェインとゼラの顔を交互に窺い見て、また小さく息をついた。

「…ほんと、鬱陶しいな」

 暫くして目を開けたゼラが低く呟く。冷たい声音にリーファが一瞬怯み、それでも負けじと表情を厳しくするが、ヴェインにはそれがリーファに対しての言葉ではないのが判った。その証左に視界には映らない何かに苛立ってゼラの双眸が細められる。

「これが邪魔で聖骸の在処がよく判らない」

 ゼラは言って背後を見上げた。街道の分かれ道に目印の如く屹立する不透明の青い晶石の石碑が、雲の切れ間から射す真昼の陽の光に宝石めいた煌めきを纏っている。

 ゼラに倣ってヴェインが石碑を見上げると、釣られるようにリーファも顔を上に向けた。訳が判らず困惑した様子のリーファが思わずといった感じで口を開く。

「これが何なの?」

 少しばかり大き過ぎる気がするが、街道上にあるただの目印ではないのか。きょとんとして疑問を零したリーファだったが、彼女の問いに答える声は上がらない。この石碑の存在意義を他国の王女に話す必要をヴェインは感じなかったし、ゼラに至っては端から説明する気が無いのだろう。

 この石碑は、かつてアルトナージュ帝国と聖ナージュ王国が戦争状態にあった時代の名残だった。

 聖ナージュ王国の国王が〝金の聖王〟と称されるのに対し、銀髪銀眼の容貌とその身に宿した絶大なる魔力から〝銀の魔王〟と内外から畏怖された初代皇帝が身罷って間も無くの事。未だ聖ナージュとの対立の根深い時分に跡を継いだ第二代皇帝は先帝の遺髪の一部を石碑の根本に納め、有事に備えて領土を守る為の結界の構成を築いた。張り巡らされた街道の要所に設置された幾つもの石碑を効果範囲の楔と成して、帝都に在る大本となる石碑を以て発動される大結界である。遺髪は媒介であり、動力源だ。それによって彼の〝銀の魔王〟の魔術さながらの強大な結界が構築されるという目算であるらしい。

 そうして結界を発動する機会の訪れないままに幾百の年月を経たが、結界の構成は今も健在であり、石碑の台座に埋められた遺髪に宿る魔力も衰える事無く其処に在り続けていた。

 それが、この場合問題なのだろう。ゼラはすっと台座から立ち上がり、気儘に草を食んでいる馬の方へと歩み寄る。

「ねえ、移動していい?」

「何処へだ?」

「そうだね…出来るだけ石碑(これ)から離れたいかな。じゃないと聖骸の気配が辿れなくて。譬えるなら、ほんの小さな囁きを聞き取ろうとしている最中に、耳許で大声で騒がれるような感じがしているんだ。これじゃあ流石に僕でも感知出来ないから」

 ゼラの嘆息にリーファが訝しげに目を瞬かせる。

「聖骸の…気配?」

 盗みに入った割には当の聖骸について大した知識を持たないらしい彼女に、ゼラが上辺だけの優しい微笑みを浮かべる。

「そう。気配。魔力の波動って言った方がいいかな?あんな空っぽの亡骸にだって魔力の欠片くらいは残っているから。僕はそれを探しているんだよ」

 道理の解らない幼子に言い聞かせるようなその言葉に込められた、隠そうともしない侮蔑。何にも知らないんだね。そんな嘲笑が言外に聞こえるかのようだ。

 リーファはゼラの言葉を噛み砕くような間を置いてから、顔を恥辱の朱に染めた。これまでのような怯えではなく、怒りに握り締めた拳を震わせ、噛み付くような眼でゼラを射た。

 だが脆弱な子犬が幾ら吠え立てたところで気にするようなゼラではない。リーファの怒りなど、草原を吹き抜ける冬風程にも応えていない様子で彼は笑みの色を濃くする。

「その辺にしておけ」

 敵意を露わにするリーファと、それを微笑で受け止めるゼラ。緊迫とまではいかないが、確実に風向きの良くない両者の間に入りヴェインはゼラの方を窘め、リーファに馬に乗るよう促す。

「先導はお前に任せる。取り敢えず、所在の感知出来る場所まで行け」

「はぁい」

 笑いながらゼラはひらりと馬の背に飛び乗った。翻る黒の外套に銀糸で縫い取られたアルトナージュの紋章が、石碑が反射した陽の光に冷たく輝く。

 ヴェインは移動を始めたゼラに従って馬首を返しつつ、顔には出さないものの呆れていた。出来る事なら聖ナージュの王女となど口も利きたくないのだろうに、何故そう一々相手をしてやるのか。リーファが疑問を口にしたからといって、答えなど返さなければいいだけだろうに。全く律儀な奴だ。

 ヴェインの前に座るリーファは憤懣遣る方無いといった風に唇を尖らせている。落ちないよう馬の鬣を掴む手には必要以上に力が入っていた。背中の人間の怒気を感じて馬が戸惑いがちに歩みを緩めたので、ヴェインは問題無いと踵をくれて、ゼラに遅れぬよう歩調を速めさせた。

 ゼラが馬を止めたのは、街道を外れて暫く行った小高い丘の下だ。振り返っても元の街道は見えず、遠い地面の起伏の向こうに先程の石碑の頭の天辺が窺える。

「少し待っててね」

 馬にか、それともヴェイン等にか、今一判断の付かない口調で言い残してゼラが丘の上に上って行く。丘の頂上まで行くと、ゼラは両手を体側に下ろし、風の音に耳を澄ますように空へ顔を向けて瞼を閉ざした。

 付近にある森から運ばれて来たのだろう針形の木の葉が、薄曇りの空を風に乗って駆け抜ける。一際強く吹いた一陣に頭巾を取られそうになってリーファが頭巾ごと頭を押さえた。

「……」

 ヴェインは風に乱され纏わり付いた長い髪を払う事もせず、腰の長剣に手を伸ばした。もう大丈夫だろうかと身体をやや丸めたままで辺りの様子に目を遣るリーファが、突然剣を抜いた彼女に何事かと驚いた顔をする。

「…え…?」

 ヴェインが一足でリーファの立つ場所まで跳び込むと、リーファは斬られると思ったのか身を硬くしてぎゅうっと目を瞑った。騒がれなかったのを幸いとヴェインはそのままリーファの背を押し遣って自分と位置を入れ替え、長剣の刃を一閃させた。

「ギャンッ!」

 甲高く潰れた悲鳴にぽかんとしてリーファが声のした方向を振り返る。飛び掛かったところを斬り伏せられた魔狼の姿を目にして漸く状況が呑み込めたらしく、彼女は酷く青い顔で息を呑んだ。

 リーファの感謝とも当惑とも付かない視線を受けながらヴェインは油断無く周囲を見渡した。忍び寄るように現れた魔狼はいつの間にかヴェインとリーファを囲んでいる。一瞬にして殺気立った周辺の空気に馬達が俄に興奮し始めるが、軍馬としての調教を受けているので怯えて暴れ出しまではしない。

 ヴェインは相対する魔狼の総勢をざっと数え、剣を構えた。ゼラの方を確認すると丘の上にはまだ一匹の魔狼もおらず、大事無さそうである。殺気含みの魔物の気配は感じているのだろうに、それでも聖骸の在処を探し続けているのは、ゼラからのヴェインへの絶対の信頼によるものだ。高々六、七匹程度ヴェイン一人で対処出来る。だからこそ彼は自身のやるべきを優先している。要するに役割分担だ。

「其処を動くな」

 言い捨てるようにリーファへ指示してヴェインは向かって来る魔狼達を迎え撃つ。吠え猛り躍り掛かる魔狼に、馬達の側で恐怖に立ち竦んでいたリーファが絹を裂くような悲鳴を上げた。

 その喉の奥が見えるくらい、まるで口が裂けているのかと思う程に大きく口を開けた魔狼の鋭い牙が迫る。耳を劈く真後ろからの悲鳴は無視し、ヴェインは向かって来る魔狼達を一匹ずつ確実に仕留めていく。

 獲物を求める牙を、爪を躱し、反対に厚い毛皮の内側に刃を滑り込ませて、その命を絶つ。長剣を身体の延長――さながら対峙する魔狼達にとっての爪牙の如く自在に振るうヴェインの動きには、傍から見ればどちらが獲物の温かな血肉を欲する魔物であるのかと思わせるような静かな凄絶さがあった。斬り、払い、突く。駆使される剣術は的確に命を刈り取るその為だけに鍛え、磨き抜かれた技であった。

 冷酷にその心臓を貫いた長剣を、地に伏して動かなくなった魔狼の身体を踏み付けて引き抜く。

「ひ…っ!」

 魔狼の数が減り、辺りが静かになった事でリーファの怖気混じりの吐息がやけに大きく耳朶を打った。怯え切った少女の震える瞳が自身の背に注がれているのを感じたが、ヴェインは相手にせず残った二匹の魔狼へと足を踏み出す。

 途端、魔狼達は弩で打ち出された矢の如くに駆け出した。だが逃げたのではない。獲物と定めた目前の人間に太刀打ち出来ないのを知って、別の人間へと標的を変えたのだ。

 魔狼は示し合わせたかのように丘の上へと駆け上る。無防備に佇立するゼラの許へ。その喉笛を喰い千切り、肉を引き裂き喰らう為に。

 魔狼達が動くと同時に、ヴェインもまた丘の上に向かって走り出した。全速力で駆け、ゼラへと飛び掛かろうとする魔狼達の前へと割り込む。

 忌々しげに突き出された爪をヴェインは剣の腹で受け流し、そのまま切っ先を魔狼の脇腹に潜り込ませ、魔狼の肉の内で刃を返して身体を反転させながら、切り払うように刀身を抜く。一連の動作に身体が流れるままに一歩踏み込み、横を抜けようとしたもう一匹の背中へと上段から容赦無く剣を振り下ろした。

 断末魔は上がらなかった。ひくひくと力失い末期の痙攣を繰り返す魔狼が完全に動かなくなるのを見届けてヴェインは血振りをして剣を納めた。

「いつ見ても鮮やかだね。僕、斬られるならヴェインがいいな」

 気付けばゼラが此方を見て艶麗に微笑していた。

「見付かったのか?」

 彼の戯れ言を聞き流し、集中を止めたその平生の調子に成果を問うヴェイン。頷き、ゼラは南の方角を眺めた。

「やっぱり南だね。直線的に聖ナージュ王国を目指してるのかな?詳細な場所までは無理だけど、まだかなり遠い事だけは確か」

「賊が国外へ出るまでに追い付けそうか?」

「行ってみなければ判らないかな。でもまあ、どうせ国境は封鎖されているしね。先に行っている筈のシェリスタがちゃんとやってくれていれば尚安心なんだけど」

 とは言うが、ゼラの口調の中には当の彼女への信頼など皆無である。しかし全く以て同感の為、ヴェインは眉根を寄せて遠く南の空を見遣る。

 良く言えば一本気、悪く言えば猪突猛進。想いを寄せるフェルキースの為ならば業火の中でも濁流の中へでも嬉々として飛び込んで行くだろうシェリスタだが、その所為で任務中に彼女が失態を犯す事は珍しくない。賊の足止めにせよ、聖骸を何処へ持ち去るつもりなのかを探るにせよ、その役割を彼女に任せて得られる安心感は夜露の雫よりも儚いものに過ぎないのだ。

「…とにかく、南に急ぐぞ」

 目的地としては大雑把だが、少しでも聖骸に近付けばゼラがその所在を感知してくれるだろう。それを頼りに今は先を急ぐしかない。

 北から吹き付ける風の厳しさに煽られ過ぎ行く雲を仰いで、ヴェインは再度の出発を告げた。応じてゼラが間延びした返事をする。

 ――突如、魔物の襲撃から一転して水を打ったような静寂に馬の嘶きが響き渡った。

「…っ!」

 咄嗟に丘の下を見下ろす。大柄な鹿毛の馬の背に必死でしがみ付く少女の姿に何が起こったのかを察して、ヴェインは舌打ちを禁じ得なかった。

 異変に気付いて丘を駆け下りて来るヴェインを認めてリーファが叫ぶ。

「お願い、行って!!」

 もたつく手付きで手綱を取り、叱咤するように馬の横腹を鐙に掛けた両足で打つ。どうにか馬を走らせながらも不安げなリーファの瞳が追跡を恐れて丘の方を振り仰ぎ、駆け寄るヴェインの眼を捉えた。

 視線が搗ち合う。だがリーファはヴェインの視線から身を引き離すように正面を向くと、更に踵をくれて馬の速度を上げた。

「待て!」

 無駄とは知りながら投げた制止の言葉は、走り去る馬の荒々しい蹄の音に掻き消される。前方に広がる森の中へと逃げ込んだリーファの姿は茂る木々の帳に隠されるように、あっという間に緑の奥へと消えて行った。

 失態に歯噛みしてヴェインは枝葉に遮られて見通しの利かない森の奥を睨み据える。緩やかな傾斜の最後を、ぽん、と飛び越えるように跳ねたゼラが隣に立って、リーファの逃走などどうでもいい事のように笑って言った。

「逃げちゃったね。追い掛ける?」

「当然だ」

 魔物の撃退の為とはいえ不覚にも馬と虜囚のみを残してその場を離れた。それは深く恥じるべき愚行だが、反省は後回しだ。ヴェインは沸き上がる己への苛立ちを意識して押し殺し、もう一頭の栗毛の馬へと歩み寄る。

 細波立つヴェインの胸裡を見透かしたかのようにゼラが忍び笑いを洩らす。それはヴェインの失敗を笑っているようでもあり、初めの警告に逆らって逃げ出したリーファの妄挙を思っての笑いのようでもあった。

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