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振り返れば、薄墨色の空を背景に白亜の城の威容が聳えている。磨き上げられた槍の穂先の如くに天を突き刺す尖塔。その頂点に掲げられたアルトナージュの紋章旗を翩翻と翻す風に目深に降ろした頭巾を取られそうになって、頭巾の縁をぐいと引っ張り押さえる。
帝都の名に恥じぬ賑わいと喧噪が目抜き通りを埋め尽くしていた。此処に暮らす住人の、あるいは旅人の、話し声や足音がざわざわと心を浸食してゆくようだった。
周囲が賑やかであればある程、孤独感が言い表しようの無い不安となって神経を苛む。見知らぬ街の慣れない一人歩きはそれだけで恐ろしく、その場に蹲ってしまいたくなるような心持ちがする。だが泣いている場合ではないのだと自身を叱咤して、一生懸命に足を動かす。
前へ。ひたすら前へ。この街の外を目指すのだ。
歩く事だけを考えていれば手足の震えも何処かへ行ってしまう筈だ。そう思って早鐘を打つ鼓動を鎮めようとするも、動悸は収まらないどころか更に加速してゆく気がした。
焦る余りに視界がぐるぐると回り出しそうになるのをどうにか堪え、人々の間を擦り抜ける。歩くのが困難な程の人込みではない筈なのに、行き交う人の多さがやけに歩みの邪魔に感じた。しかし、この人達がいるお陰で自分の存在が見顕される事が無いのかも知れない。
こうして急ぎ足で歩いている事が傍目に不審に映るやもと始めは恐れていたが、辺りの人間は特段此方に目を留める事も無く各々の目的に従って視界を通り過ぎて行く。単に急いでいるだけの少年に見えるからだろうか。気にされないのは心底有難かったが、けれども安堵には程遠かった。
とにかく、帝都の外にまで出れば先に行った仲間が自分を見付けて拾ってくれる。必ず迎えに来ると約束してくれた仲間に勇気付けられたからこそ、意を決して馬車から飛び降りて、追っ手に体当たりを喰らわす事が出来たのだ。真剣な眼で断言してくれたあの人が自分を見捨てる事など有り得ない。今だって、そう素直に信じられた。
捕らえられ、怖い顔をした白い軍服の連中から厳しい尋問を受けた。それでも何一つ喋らずにいられたのも仲間への信頼があってこそだ。ただ助けを待つ事をせずに隙を見て逃げ出すという大胆な行動に出られたのだってそうだ。あの人達に迷惑を掛けてばかりはいられない。自分で出来る事は自分でしなければと、冷たい牢に放り込まれても泣かずにそう考えた。
けれど、あの番兵の人には悪い事をしてしまった。彼方にとって見れば不埒な賊でしかない自分に、寒いだろうと毛布を差し入れてくれようとした優しい番兵に、自分は酷い事をしてしまったのだ。気を失って動かなくなった彼の姿を思い出すと、ちくりと胸の奥が痛んだ。
心の表層に浮かび上がりそうになった罪悪感を無理矢理追い遣って足を速める。良心が咎めたが、元より盗みに入る時点でそれが悪事であるのは理解していたのだ。今更だ。悪事に悪事を重ねたからといって呵責を感じる必要も無い。罪を悔やむよりも優先すべき事があるからこそ、自分は今、こんな所にいるのだから。
何やら急いだ風な人とぶつかり、蹌踉く。ごめんよ、と声を掛けられたが返事をする余裕は無かった。帝都の城壁に大きく口を開けた街門が見えたのだ。希望が見えた気がして、張り詰めていた表情が緩む。
心は早くも街門の外へと飛び出していた。置いて行かれた身体がもどかしくその後を追って走り出そうとする。靴裏が街路の石畳を蹴って堅い音を立てた、瞬間。
「――見ぃ付けた」
甘いといってもいいような、柔らかな囁きが耳許に触れた。同時にそっと腕を掴まれ、服の布地越しにも冷たい掌の感触が喜び駆けて行った心を強引に引き戻す。
ぞっとした。いきなり氷混じりの水を浴びせ掛けられたかのようだった。
「そんなに急いで何処に行くの?」
透明感のある、抜けるように白い肌。人形染みて整った美貌が艶やかな笑みを形作った。
全くの見知らぬ人間だった。帯を結んだ腰の辺りから裾まで左右に大きく切れ込みの入った紺青の長衣に、細身の脚衣と長靴。仕立ては良さそうだが飾り気に乏しく動き易そうなその服装から一瞬少女が男装しているのかと思ったが、仕草から相手が少年であるのが察せられた。
「……っ!?」
愕然として息を呑んだのは、長い睫毛に縁取られた両の瞳の片方が、月の光を宿したような銀色だったからだ。そんな色を持つ人間など、この世にアルトナージュ皇族の血統の者しか存在しない。
咄嗟に腕を振り回して、少年を引き剥がす。足を縺れさせ、石畳の溝に爪先を引っ掛け転びそうになりながらも何とかその場を逃げ出した。だが少年は微笑んで立ったままだった。それが却って不気味である。
走り出してから気が付いた。駆け出した方向は街門とは逆の方だった。しかし今から引き返せはしない。戻ればきっとあの少年が待ち受けている。銀の瞳をしたあの少年が自分を捕らえに来た事はまず疑いようが無い。
外を目指してやっとの想いで歩いた通りを全力で駆け戻る。後ろ髪を引かれたが背に腹は代えられない。逃げながら目線を後ろに回すと、少年が追い掛けて来ていた。
震えるくらいの冷気を帯びた風が頬を切る。酷使に慣れていない惰弱な肺はすぐに悲鳴を上げて、喉が灼けるように熱くなった。
自分で腰帯に括り付け直した小振りの短剣がいやに重く感じる。いざとなればこれを使うしかないだろう。だけど、上手く扱えるだろうか。粗末な鞘に納められた護身用の短剣は位置が悪いのか、足を前へと出す度に腿にぶつかって走る邪魔をする。
心臓が壊れそうな苦しさを堪えて、直走った。土地勘の無いままに目に入った最初の角を曲がり、追って来る少年を撒けないかと試みる。それが最悪の判断であった事に、角に飛び込んだ途端に思い知らされた。
馬車同士が優に擦れ違える広さのある大通りとは異なり、大人が一人両手を広げる事が出来るくらいの道幅の小路の真ん中に、立ち塞がるようにして女が立っていた。
女は無表情に其処に佇んで、じっと此方を見据えている。両手は体側に卸した極自然な姿勢であるのに、素人目にも一分の隙も見受けられない。
長い縹色の髪を外套のように靡かせる女。髪と同色の冷たい刃の如き眼に射竦められる。
足首まである黒い軍服の裾が風を孕んではためいた。白っぽい街並みに忽然と浮かび上がった影のような長身痩躯の黒衣。近寄り難い冷厳さを湛えるその細面に感情は窺えず、無辺の闇のような虚無の気配だけが満ちていた。
死神だ。そう思わずにはいられなかった。崩れるように足が萎え、その場にへたり込む。
不意に背中から影が差し、少年の含み笑いが聞こえた。真後ろに立たれたのが判ったが振り返る事は出来なかった。
がちがちと奥歯が鳴る。歯の根が合わない程の恐怖を生まれて初めて味わった。一晩中続いた尋問よりも、背後で笑う少年よりも、何よりも。眼前の黒衣の女の纏う雰囲気が恐ろしくて仕方が無かった。
近付いて来た女に腕を取られた瞬間、殺される、と思った。女は腰に帯びた長剣と短剣の、そのどちらも抜いてさえいなかったのに。
「一先ずは確保か」
冷淡で涼やかな声音が響いた。それがこの死神のような女の声だと認識出来たのは、腕を引っ張り上げられて立たされ、後ろ手に拘束されて歩き出してからの事だった。