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銀の魔王は棺に眠る  作者: 此島
一章
2/32

 暖炉の炎だけが、閉め切られた書斎の光源だった。部屋には分厚いカーテンが引いてあり、窓から射し込む月の光を望めない事に加え、この密談の場に煌々と灯りを点ける事が躊躇われたからだ。さながら部屋ごと息を潜めているかの如くにひっそりと、音を立てぬようにして炎に照らされた人影が動く。

「それではご協力頂けるのもこれで終わりという訳ですかな、ヘインリール卿?」

「ああ。その通りだ」

 なされた問い掛けにクラッドは答えた。状況が状況であるので口調はいつも以上に早口になる。

「私も命を擲ってまでお前を支援をしようとは思わぬのでな」

 絶縁を宣言して天板に乱暴に手を突き、部屋の隅にある机から立ち上がる。その衝撃で端に寄っていた小物の一つが床へと落ちた。普段は整頓されている机の上は彼の心中を表してか、洋墨の壷や羽根ペンのみならず、目を通さねばならない書類や読み掛けの本などで雑然としていた。

 クラッドはその散らかり様に苛立って目を鋭くし、落下した小物を踏み付ける。木製のそれは、ばきり、と思いの外大きな音を立てて壊れた。

「では致し方ありませんな。短い付き合いではありましたが、貴公のご協力に感謝致します」

 旅の商人といったその出で立ちには似合わない貴族的な礼を取ったこの中年の男は、西の隣国セレンの国王に仕える密偵である。レイという呼び名を教えられてはいるが、恐らく偽名だろう。彼の氏素性に関わる事をクラッドは何も聞かされていないが、別にそれで構わなかった。

 協力の話を持ち掛けられたのは今から一年程度前の事。行商に扮してこの屋敷を訪れたレイは主であるクラッドに商談を装って面会を申し出、このアルトナージュ帝国内への潜入に協力してくれないかと言ってきたのだった。

 初対面で己が密偵であると明かし、事もあろうに手を貸せと言うこの男にクラッドははっきり言って呆れた。クラッドは仮にも帝国西部に所領を構える辺境伯の一人である。正式な軍人ではないもののその肩書きから帝国軍内部でも相応の権威を預かる身分にあり、その彼に祖国を裏切れと堂々と抜かすとは突然何の冗談だと思ったものだ。

 とんだ大法螺吹きか、もしくは頭の足りない胡乱な輩。それがレイに対するクラッドの最初の印象だった。それでもすぐに追い返しはしなかったのは、偏にクラッドが皇帝への不満を内心に溜め込んでいた為だろう。

 正確には、皇帝にぺこぺこと頭を下げるしか能の無かった先代である父親への不満の転嫁なのかも知れないが。

 クラッドは情けない父親を心底を嫌っていた。皇帝の機嫌を損ねないようにと言いなりに動く事しか出来ない、そんな父を恥じて憎んでさえいた。故に成人しヘインリール家の家督を譲り受けてからは、腰抜けであった父親とは正反対に人の顔色を窺うような真似は一切せず、自身の思うようにやって来た。

 父はクラッドの方針に苦々しくも一々口を挟んできたが、レイが屋敷を訪れたその数ヶ月前に逝去していおり、クラッドのやり方に文句を付ける者など彼の周囲にはもういなかった。抱いていた皇帝への反感に加えて、その事がクラッドの背中を押したのだった。

 協力といっても、内部の事情をクラッドが直接に売り渡した事は無い。やった事といえば宿の提供や帝都までの移動手段の確保など、ほんの些細な支援に過ぎなかった。

 罪悪感は無かった。この程度では密偵と手を組んで祖国を裏切ったとまでは言えないだろう。レイが何を調べているのかは知らないが、仮に機密を盗まれたのならば皇帝がそれに気付かないくらい無能だからだ。無能な者は上に立つべきではないのは自明の理である。

 そうして月日は過ぎて、現在。クラッドは此処に来て漸く己のしでかした事を悔い始めていた。

 どかりと椅子に座り直し、親指の爪を噛む。焦燥に駆られて表情の厳しくなるクラッドに、レイが落ち着き払った様子で言う。

「そう怯える必要はありますまい。既に、手は打っておありなのでしょう?」

「誰が怯えているというのだ。無礼な物言いをするとこの場で斬って捨ててやるぞ。私はただ、あの若造が気に入らないだけだ!」

 握り拳で机上を強く叩くと、積んであった本が雪崩を起こして次々と床に落ちていった。レイが肩を竦める。クラッドは苦い顔で腹立ち紛れに鼻を鳴らした。

 レイの言う通り、この窮地を逃れる為の策はもう打ってあった。まさか皇帝に自国に潜り込んだ密偵の存在と、その密偵を援助する者がいる事に気付く程の知恵があるとは思わなかったが、クラッドは自分の方が一枚上手であると自負していた。万が一に備え、初めから準備はしてある。

「ノルムには可哀想な事をしたが仕方が無い。恨むなら、無能な己を恨むべきだからな」

「左様ですな」

 レイが手の甲で口許を隠して嗤う。

 この件が皇帝の知るところとなった以上、座して何もせずにいるのは危険だ。クラッドには予てからいざという時の身代わりにと、共にレイへの助力を手伝わせていた人物がいる。取り巻きの一人であるノルム伯だ。彼には密偵を手助けした罪を懺悔する旨の遺書を持たせ、事が露見しての自殺に見せ掛けて殺害してあった。

 これでもう、クラッドの身に危険が迫る事もあるまい。ノルム伯の〝遺書〟には己の行いを恥じての自害である事を認めさせてある。ついては命を以て贖罪するので伯の妻子にまでは咎の及ばぬようにとも書かせてあった。過去、皇帝に罪を問われて潔癖を証明せんとその場で自決し、縁者までは許された貴族がいたらしいので、その者に肖ってノルム伯が家族の為に自害を選んだと思わせる細工には充分だろう。

 足を組み、片腕で顔を覆って背凭れに身体を預けたクラッドは深い溜め息を吐き出した。

 闇に包まれた室内で暖炉が赤々と燃えている。積まれた薪が崩れた音が静寂に大きく響いて、クラッドは上体を起こした。

「……何の真似だ、レイ」

 双眸に冷たい嗤いを含んだレイが、音も立てずにクラッドの側近くへと移動していた。左手には鋭い刃先を炎の照り返しに輝かせる短剣がある。

 暖炉の上の壁に掛けてある護身用の剣へ僅かに視線を遣りながら、クラッドはレイとの間合いを測る。レイは口周りに笑い皺を刻んで短剣を手の中でくるりと回した。

「何の真似と言われましても、私の方も身の安全を図らせて頂くだけですが?」

「貴様…初めからそのつもりだったのか」

「こういった事は当然の判断だと思いますが。因みに、卿が剣を取るよりも私が動く方が早いでしょうな。どうぞ、恨むのであればご自分をお恨み下さい」

 先程の彼自身の発言に基づくような嘲りの口調にクラッドは怒りを覚えたが、努めて抑え、この場を切り抜ける為の手段を探した。剣には届かない。机上に武器になりそうな物は無いかと横目を走らせるが、相手も単独で他国に潜入するような玄人だ。本や羽根ペンを振り回したところで対抗出来るだろうか。

 クラッドの背筋を嫌な汗が流れ落ちた。レイが書斎の中央を占める毛織りの敷物の上に足を踏み出す。

「――いつまでこんな茶番を見ていなければならない?」

 低く徹る女の声が、不意に両者の間の緊張を切り裂いた。

「っ!?」

「誰だ!?」

 クラッドとレイが同時に声の方向を振り向く。閉じられたままの書斎の扉の隣に、背の高い、髪の長い女が立っていた。闇に溶け込むような黒の軍服を纏って。

 クラッド達が書斎に入って以来、扉は一度も開けられていない。家人には皆、此処へは近付かないよう言い付けてあった。無論、先に室内にいた人間などいなかった筈だ。

「な…っ、何故この部屋に!?此処には人払いの結界も――」

「あの程度で安心してるなんて、そんなだから飼い犬に手を噛まれるんじゃない?ああ、それとも犬と飼い主が逆なのかな」

 今度は暖炉の反対側にある書棚の付近から声がした。柔らかな少年の声だった。

 揶揄の混じった楽しげな声の主は、女とは対照的に酷く小柄な少年。此方も同じく黒い軍服を着て、場違いにもくすくすと笑いながらクラッドとレイを見ている。

 その少年のクラッドに向けられた瞳の片方が暗がりにあっても自ずと輝くような、月光のような銀の色をしている事に気付き、クラッドは驚愕した。レイの凶刃を前にしても変わる事の無かったクラッドの顔色が、炎の色に映し出されてもなお蒼く変貌する。

 クラッドの視線を受けた少年は艶然と微笑んでから、顔を女の方へ向けた。

「声を出さないで最後まで待っていれば手間が少し省けたのに。ヴェインったら、飽きるのが早いんじゃない?」

 ヴェインと呼ばれた女はクラッド達を見据えたまま、腰の長剣に左手を添えた。

「下らん見せ物はもういい。さっさと済ませるぞ」

 言うが早いか女が抜く手も見せずに長剣を鞘走らせる。即座に反応を見せたレイだったが女の動作に比べてしまえば、彼の動きは余りにも遅過ぎた。

 美しく弧を描いた剣閃がレイの命を鮮やかに断ち切る。

 重たい荷物が落ちるようにレイが床へと倒れ伏し、動かなくなる。溢れ出る血は流れる側から床の敷物に吸い込まれ、彼の周囲だけをどす黒く染めてゆく。

「ルーク・ドレスデン・ウェイルズ、だっけ?お勤めご苦労様。ゆっくり休んでいいからね」

 クラッドですら知らなかったレイの本名らしきものを口にした少年が、茫然と見開かれて宙を見つめるレイの目を覗き込んで言う。

「なんて、もう聞こえてないかな」

 少しの笑いを零して暖炉の方へ歩いて行く少年。もうレイには興味を失った風に無造作に死体の脇を通り抜け、彼は肩越しにクラッドへ微笑み掛けた。

「お前…いや、貴方は――」

「堅苦しい挨拶とかはいらないからね。そういうの、好きじゃないし」

 剣を提げたままの女がクラッドの挙動を注視しつつ、距離を詰めてくる。歩みそのものは静かだが圧倒的な威圧感を放つ女の気配に、少年の右眼が持つ銀の色に釘付けになっていたクラッドははっとして身動ぎをした。

 彼を殺そうとしたレイは死んだ。しかし状況は少しも好転などしていなかった。

 濃密な死の気配を冷たく研ぎ澄まされた殺気に変えて歩み寄る女は、恰も死神のようだった。レイを斬り殺したこの女が続いてクラッドを殺そうとしているのはその態度からも明白だ。

 通常の帝国軍人が纏う白地に紺の留め紐の軍服とは異なる、黒地に白い留め紐の制装。その意味するところを知らないクラッドではなかった。噂には聞いていたが実際にこの目で見るのは初めてだ。よもや、このような場面でその存在を目の当たりにする事になるとは思いも寄らなかったが。

「…『ディオール』か。という事は、私の行いは最早全て皇帝陛下の知るところという訳だな」

 神話にある冥府の川の渡し守の名を授けられた、敵対する者を悉く冥府へ送るという皇帝直属の精鋭部隊。

「ツィルト辺境伯クラッド・ジェム・ヘインリール。陛下の命により、貴殿の命貰い受ける」

 女が剣を持った右腕を掲げ、クラッドを指すように切っ先を持ち上げた。

「…仕方が無い。私も武人の端くれ、こうなった以上悪足掻きはすまい」

 両手を頭の横に掲げ、抵抗の意志の無い事を示す。クラッドは皇帝を甘く見ていた己の愚かさを遅蒔きながら悔やんだ。こんな事ならば、いっそあの父のように皇帝の機嫌を窺って生きるべきだったのかも知れない。とはいえ、呆気ない幕引きを迎える今だからこそそう思えるのだろうが。事が露見さえしなければクラッドは皇帝の器を侮ったままにレイへの支援を続けていたに違いない。

 無能であったのは、己の方か。自ら気付けなかった事実に落胆しながら、苦笑染みた笑みを浮かべる。

 これ以上の足掻きは死に恥だ。クラッドは大人しく裁きを受け入れるつもりでいた。室内に突如として朱の帯を引く赤い色が翻るまでは。

「――なっ!?一体何をして…どういうつもりだ!?」

 クラッドの叫びに暖炉の前に立つ少年が笑む。楽団の指揮者のように振り上げられた細い腕に併せて、魔術で操っているのだろう暖炉から棚引くように伸びた炎が生き物然として部屋の中を駆け回った。

「まさか、自分が死ねば全部の片が付くなんて思ってる?それで終わる程、物事って甘くないよ。内緒で片付けないといけないから僕達が来たんだから。だって密偵が忍び込んでいただけならともかく、その密偵を国境防衛に従事する辺境伯の一人が密かに支援していただなんて、国としての沽券に関わるでしょう?だから、貴方には火事で死んだって事になってもらうね」

 言い含めるように少年はそう告げて、両手を舞うように大きく動かした。炎が踊り子が纏う紗布の飾り帯めいて揺らめき、室内に鮮烈な赤い光を撒き散らす。

 一度火が付き始めると炎は瞬く間に床の敷物を舐め取り、壁際に並べられた書棚を呑み込んだ。炎によって生じた熱風に嬲られながら、体表に感じる熱気とは真逆に身体の芯から冷えるような悪寒がクラッドを襲った。

 魔術によって生み出された炎ならば、術式の終了と共に炎は幻のように掻き消える。けれども、これは暖炉の炎が魔術によって撒き散らされたものだ。炎自体は至って自然のもの。人力で鎮火させるか、この屋敷を燃やし尽くすまでは消え去る事は無い。

 戦慄した。屋敷の中にはクラッドの妻や幼い娘達がいるのだ。どうにかして火を消し止めなければ、彼女達にまで危害が及ぶ。

 慌てて着ていた上着で近くの炎を叩き消そうと試みるが、炎は新しい餌をもらって無邪気に喜ぶ獣のようにクラッドの上着を喰らい、燃やした。

 駄目だ。水がいる。いや、それよりも妻子に火事を伝えて外に逃がした方が良いのではないか。文字通り足下に火が付き、思わず飛び退いたクラッドは背後の壁面に強かに背中を打ち付けた。

 痛みと同時に触れた布地の感触に救いを求め、引き千切るみたくカーテンを開け、窓に取り付く。

「くそっ!開け、開け!!」

 鍵は外れたというのに、何故窓が開かないのか。くすりと後ろで洩らされた笑みが答える。

「無駄だと思うよ?この部屋の結界が余りにも脆かったから、僕が少しだけ補強しておいてあげたから」

「っ、貴様ぁああっ!」

 クラッドは怒りに任せて炎の中に立つ少年に飛び掛かった。しかしするりと間に滑り込んだ女が彼の行く手を阻む。

「とんだ悪足掻きだな」

 切り捨てるような女の呟き。瞬間、炎の赤を弾いて白刃が閃いた。

 クラッドは自身が傾いで倒れたのを視界の反転によって気付かされた。自分の身体が思う通りに動かない事が不思議でならなかった。彼は、やっとの事で片腕を伸ばす。

 扉へ。家族に、逃げるように伝えなくては。

 声にならない声で妻子の名を呼ぶ。頼む。逃げてくれ、と。床を這い回る炎が髪を焦がし肌を焼いたが、感じる熱や痛みよりも妻子の無事を願う想いの方が遥かに強かった。

 女が剣を納めるのが視界の端に映った。路傍の石を退けるよりも素っ気なく、何の感慨も持たない事がありありと察せられる無表情がクラッドを一瞥する。

 次いで映り込んだのは、蠱惑的に細められた紫苑と銀の二色の瞳。

「ノルム家の方にはお咎めは無しだって。貴方の用意した〝遺書〟に免じて、ね。折角だから貴方も書いておけばよかったのに。表には出せなくても届けてあげるくらいはしたけど?」

 扉へと伸ばした手を遮るように少年がクラッドの傍らにしゃがみ込んだ。聞かされた言葉にクラッドは一縷の希望を託して、重い身体で頭を上げようとする。

 だが、強まる火勢に少年は素知らぬ顔でこう言った。

「夫人もご息女達も、無事に逃げ出せるといいね」

 その激しさに面立ちまで変わる程の怒りを込めて、クラッドは少年を睨み付けた。切なる望みを絶たれて闇へと突き落とされたクラッドの凄まじい憎悪の形相に、愛する者を想う涙が滲む。

 微笑んで立ち上がる少年と、無言で踵を返す女。喪服のような黒の色が霞む視界に翻る。

「……お……のれ…ぇ………」

 不明瞭な発音にしかならない今際の呪詛は炎風に浚われる。怨嗟の余りにクラッドは爪が剥がれる程の力で床を掻く。

 意識が途切れてゆくその一瞬。クラッドは見た。炎に消された彼の最期の言葉を聞き取った様子で、銀の瞳が小さく笑っていたのを。



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