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銀の魔王は棺に眠る  作者: 此島
三章
17/32

 其処はとてもとても恐ろしい国だと聞いていた。歴史を教えてくれた教師も、広大な書架に並べられた分厚い本も、皆が皆そう語っていた。

 アルトナージュは世にも悍ましい〝魔王〟の治める帝国。人心は邪悪に染まり、野には数多の魔物が蔓延る。人面獣心の者共を統べる皇帝なる者は、剰え尊き聖なる神より許されし神秘の御業である魔術を我が物顔で乱用する。

 幼かったあの頃。真っ白な髭を前掛けみたいに伸ばした老齢の教師による歴史の講義で、初めてアルトナージュの話を聞いた。その日は、余りの恐ろしさに夜も眠れなかった。そんな怖い国が私達の国のすぐ北に在って大丈夫なのか。邪神の化身のようなその皇帝という人が、もしも、沢山の魔物の軍勢を率いてこの国に攻め入って来たらどうしよう。そんな想像ばかりしてしまい、怖くて怖くて堪らなくなって、病床とは知りながら夜更けに母の寝室に駆け込んだ事を今でも憶えている。

 だから、この帝国に潜入する事になった時は心底震え上がった。幾ら大切な弟の為だといっても、脳裏に刻み込まれた恐怖の象徴のような国へ行くなんて、考えただけで怖くて叫び出しそうになった。

 それでもリーファがこの国にやって来たのは、そうしなければ弟を救う事が出来ないと知ったからだ。リーファの弟は、彼女がこうしている今現在も、力の足らぬ人間の身ではとても逃れられぬ死の淵に瀕しているのだ――。

 愛する弟の命を蝕む魔を滅ぼす為には、どうしても〝銀の魔王〟の聖骸が必要だった。その生家である聖ナージュ王家からも化け物と忌まれた、凄まじい力を持って生まれた彼の者の亡骸に宿る遺された力こそが、あの子の命を喰らわんとする魔を退治する唯一の剣と成り得る。

 それを知って、命を捨てる覚悟で此処へ来た。あの子の為なら何だって出来る。だって私には、あの子しかいないんだもの。

 しかし途轍も無く邪悪な筈のこの隣国は、実際に訪れてみるとリーファの思い描いていた所とは全然違っていたのだ。

 城塞都市という場所柄か、無骨なばかりで華やかさには欠けるな石造りの街並みの直中に立って、リーファは人々が行き交う大通りを見回した。

 通りに面した店々は雰囲気も明るく、道行く人へ大声で投げ掛けられる売り口上はまるで楽しい俗謡のよう。呼び掛けに振り返り店先を覗く人々も皆小綺麗な装いをしており、穏やかでにこやかで、とても邪悪に心を売り渡しているようには見えない。小さな子供達が奇声染みた声を上げて燥ぎ回りながら脇を駆け抜けて行く様だって、リーファには縁遠いものであるとはいえ極普通の、言ってしまえばよくある巷の光景だろう。

 此処は本当にあの恐ろしい魔王の帝国なのだろうか。心の中で自問する。あの時は逃げ出すのに必死で周りに目を向ける余裕など到底無かったが、今になって記憶を掘り起こしてみれば帝都の様子もこのような彼女の祖国にあるだろうものと何ら変わらぬ、人々の明るい喧噪に満ちてはいなかっただろうか。

 異国仕立ての衣服の胸元を握り締め、リーファは思う。この男物の一揃いは旅立つ際に出身を、素性を隠す為に用意してもらったものだ。これを渡された時にはあのアルトナージュと国交を持っている国があるのかと非常に驚いたものだ。隣り合っていながら無いものとして振る舞うかのような彼方の聖ナージュ王国への態度から、ずっと鎖された国だとばかり思い込んでいたから。

 世の中には実際に触れてみなければ判らない事があるというのは知識としては理解していた。リーファにあるのは、他者の話や書物などから得た単純な知識としての理解ばかりだ。

 リーファはアルトナージュという国を聞き知った事柄だけで判断し、勝手に恐ろしい場所だと思い込んでいただけだったのかも知れない。思い返せば道中の宿駅で触れ合った人達だって、見ず知らずのリーファに優しく接してくれたではないか。

 多分私は酷い誤解をしていたのだ。それに思い至るとこの国の全てのものを傲慢な程に『悪』と決め付けていた自分が恥ずかしくなって、リーファは俯いた。

「どうかしたの?」

 賑やかな街頭。周囲の喧噪の中にあってもくっきりと鮮明な輪郭を持つような少年の声が尋ねる。リーファは其方を向く事はしないでぽつりと答えた。

「…私って、やっぱり世間知らずなのね」

 リーファの自嘲の呟きにゼラは不思議そうに首を傾げた。「何が?」とも「そうだね」とも言わない彼の無言が居た堪れなくて、リーファは独り言みたいに続ける。

「誤解…してた。アルトナージュの事、非道な怖い国だって。……でも、違ったみたい」

 聞いた言葉。読んだ文字。たったそれだけを鵜呑みにして判断していた愚かな自分。

 今回直接訪れてそんな誤解を解く事が出来て良かった、とまでは思わない。弟の命が危険に晒されてさえいなければリーファがアルトナージュに関わる事も、訪れる必要も無かったのだから。けれどもそうなってしまった以上、こうして認識を改める事が出来たのは不幸中の幸いのような気がしてきた。

 上手く言葉にならない想いをやっとの事で口にする。謝罪の意を込めて。しかしゼラはリーファの顔を横から覗き込んで嗤った。

「そういう素直なところって貴女の良いところなのかも知れないけど、それじゃあ教えられた事を鵜呑みにするのと何も変わらないんじゃない?自分の目で見るのは確かに大事な事だけど、すぐに考えを改めるのは尚早だと思うな。ちゃんと見て、頭の中でしっかりと噛み砕いて、自分なりに呑み込んで。答えを出すのはそれからの方がいいと思うけど?」

「…どうしてそういう言い方するのよ」

 折角人が神妙に陳謝しているというのに、そんな風に言われたらまるで無理にアルトナージュに対する印象を改めなくていいと注意されているみたいではないか。

「あなたって、相当な捻くれ者でしょ」

 自国が他国の――しかも国交など幾百年も断絶状態の国の人間から「あなた達の国を悪い所だと思い込んでいた。その事について謝りたい」と言われて、その返答は無いだろうに。尤もゼラの言い分にも一理ある気はするが、それこそこの場は大人しく謝辞を受け取って、そういう指摘は後で言えば摩擦が起こらずに済む話だと思う。

 施された幻術で瞳の金色を隠す大き過ぎる眼鏡をリーファは両手で押さえながら、じとっとした目でゼラを睨む。

「そういう評価は初めてかも。貴重な意見、有難う」

 ゼラはにっこりと微笑んでみせ、長衣の裾を捌いて再び通りを歩き出した。必要以上に目立つからと例の黒い軍服を置いて来ているので、その極めて整った容貌を除けば、今日のゼラはリーファ同様その辺りにいる普通の少年のようだ。

 数歩行った所でゼラは立ち止まり、此方を振り向いた。姿勢良く、艶然とした微笑を浮かべてリーファが来るのを待っている。むっとしているリーファは知らない内に少しだけ頬を膨らませていた空気の塊を噴き出し、教育係に知られれば叱られそうな大股でずかずかと彼の後を追った。

 ――何でこんな人と二人で出掛けなければならないのかしら!

 柔らかながら有無を言わせぬ口調に負け、誘われるままに付いて来てしまったのが失敗だった。こんな事なら与えられた一室に軟禁でもされている方が気分的に余程ましだっただろう。

 不機嫌も露わに、やや高めの靴底で整備された石畳を踏み付けてリーファは歩いた。付かず離れず傍らを行くゼラが視界に入る度に苛立ちは募ったが、それは短い時間の事で終わった。色々な物が溢れ返る雑多な店先の風景が、王城の奥では見る事も出来ない庶民的な品の数々が、あっという間に世間知らずなリーファの目を奪っていったのだった。

 中でもリーファが一番気になって足を止めたのは、粗末な低い木机に敷かれた織物の上でうっとりと煌めく鮮やかな色石の陳列された露店。木机の向こう側では店主らしき髭もじゃの男性が背凭れの無い小さな丸椅子に座っていた。年の頃はリーファの父親と同じくらいだろうか。彼の足下には一抱え程の大きさの角鞄が開いた状態で置かれていて、使い込まれた細工道具や、後は色石を嵌めるだけに加工されている首飾りや腕環、ブローチなどが整然と収まっている。

 細工職の行商人だとゼラが教えてくれた。アルトナージュは鉱山資源が豊富な国で、数多くの鉱石宝石が採れるのだそうだ。中でも小振り過ぎる物や余り価値の高くない石は其処の彼のような行商の細工職人が仕入れ、職人としての修行も兼ねて庶民向けに売り歩いているらしい。

「綺麗…」

 今は雲間にその姿の大半を隠してしまった太陽の淡い光を余さず捉え、色石達はきらきらと輝く。赤、青、緑、黄。薄く白を混ぜたような優しい半透明。どんなに大きいものでも精々が小指の爪程度のこの色石達は上流社会で流通している高級品とは異なり、纏めて幾らで売り買いされる屑石と呼ばれるような安物らしかった。よくよく見れば色も鮮やかというよりはくすんでいて、舞踏会などの盛装で身に付ける物と比べればどうしても見劣りする。けれど、陽の下でさんざめく色石達にリーファは無上の魅力を感じた。

 贅を凝らした宝石箱の中にしまわれて普段は眠っている豪華絢爛な宝石よりも身近な分、いつも身に付けていられる安価な色石の方が、きっと心から愛してもらえるのではないか。そして、大切そうに箱に納められているだけの日々を送るよりも、石にとって幸せな一生を送れるのではなかろうか。

 色石達に目を奪われているリーファに、少々気難しそうな面立ちの職人が思いの外穏やかな笑みをその顔に刻み、木机の隅に載せられた札を指差す。札には細工代を含めて一つ幾ら、という値段が書かれている。心は惹かれたが、笑み返してリーファは首を横に振った。

「買ってあげようか?」

 欲しいとは思えども手持ちが無くて諦めたリーファへ、くすりと笑いながらゼラが言う。

「え?…あ、でも…」

 嬉しくなかったと言えば嘘になるが、買ってもらう謂れが無い。リーファが戸惑いの表情で其方を見ると、ゼラは相も変わらず人を食ったような微笑でこう付け加えた。

「ただし、貴女が何処に逃げても居場所が判る術式を、買った装飾品に施させてもらうけどね」

「っ、絶対にいらないっ!」

 この少年の言動に純粋な優しさを見出そうとした自分が愚かだった。リーファは足早に歩き出し、色石細工の露店に背を向けた。

「そう怒らなくてもいいんじゃない?当然の予防策でしょう?」

 職人に行儀良く別れを告げて来たゼラがリーファの隣に並ぶ。

「それを当然だと言い張るあなたの神経が知れないわ」

「何せ捻くれ者だから」

 ふつふつと怒りの沸く心にゼラの笑う声は酷く耳障りだった。先程忘れた筈の苛立ちまでぶり返してきて、もうこうなったら一言言ってやろうとリーファは表情といわず全身に怒気を湛え、瞳をきっと睨む形に吊り上げて勢い良くゼラを振り向いた。

「――あなたね!」

 けれども振り向いた先にゼラはいない。ゼラは幾分の向こうの店先で立ち止まっている。面食らい、何だか手酷い肩透かしを喰らった気分になった。自分の出した大声に集まった周囲からの視線が恥ずかしくて、逃げるように小走りでゼラの許へ駆け寄る。

「…何してるのよ?」

 不発に終わった怒りに不満の色を濃く重ねて尋ねる。ゼラが覗いているのは雑貨屋の店先だった。客が入り易いようにか、扉を取り払って間口の広さをそのまま店内への入口にしてある。店頭の両脇には細長い机がそれぞれ置かれ、その上には何かの動物を模しているのだろうと思われる縫いぐるみが整列させてあった。

「こういうの、好きなの?」

 一体何の動物なのか。将又魔物でも象っているのかと思うような珍奇な縫いぐるみをじぃっと見てリーファは憮然と言った。

「僕じゃなくてルキがね。昔からそう。こういう変な物が大好きなんだ」

 縫いぐるみを手に取りゼラは徐にその腹を押す。ぶう、とか、むう、とか、曰く判別し難い鳴き声のような音が縫いぐるみの中で鳴った。押すと音が出る仕掛けになっているのだろう。この国ではよくある玩具なのだろうか。「やっぱり鳴いた」とゼラは妙に楽しげだ。

 リーファも並んだ縫いぐるみの内で一番可愛く見える物を手に取って、腹を押してみた。綿とは違う弾力が指に触れると、此方はもう少し可愛らしい感じの音がした。このくらいならまだ猫か何かに見えなくもないし、弟が喜ぶかも知れない。買えもしないのにそんな事を考えてリーファは花の蕾が綻ぶように相好を崩した。

「買って返ってあげようかな。きっと遊び過ぎてすぐに壊しちゃうんだろうけど」

 ゼラの声音にいつもとは何処か違う優しい響きを感じ取り、気付けばリーファは思わず呟いてしまっていた。

「皇帝とあなたは仲が良いのね」

 ゼラの語り口から感じる温もりは、リーファが残してきた弟の笑顔を想う時に胸に広がるもののに酷似していた。血の通った温かい表情をしているという事は、ゼラは兄である皇帝に対し家族としてきちんと愛情があるのだろう。

 だがゼラは縫いぐるみを見つめたまま、ふっと笑った。

「さあ、どうかな?」

 その微笑が何故か自嘲のように思えて、リーファは口籠もる。本当に一瞬だけだが、寂しげにも見えた彼の微笑み方がリーファに言葉を切らせた。

「あ、そうだ。ルキだけじゃなくてちゃんとヴェイン達にもお土産、買っていってあげなくちゃね」

 縫いぐるみの代金を支払いながらゼラが思い付く。その口調も態度も、既に元通りのいけ好かない感じを覚えるものに戻っていた。今の表情は多分見間違いだったのだろう。どきりとした自分が莫迦莫迦しく、リーファは縫いぐるみを片手にのんびりと通りを行くゼラの横で黙々と足を動かした。

 結局ゼラは付近の店で適当な焼き菓子を二袋買い求め、砦に置いて来た部下達への土産にした。昨日合流したばかりのあの片眼鏡の少年の方は甘い物が好きらしいが、ヴェインの方は然程そうでもないらしい。とはいえ食べられなくはないという話だが、ならば違う物を選べばよいのではないか。そう意見すると、ゼラは瞳を瞬かせた。

「貴女の口からヴェインに対する気遣いが出るなんて吃驚した。ヴェインの事、あんなに怖がっている癖に」

「……それは、そうだけど」

 道中で何度も命を助けてもらいながらも未だに彼女の側に寄る事に恐怖心を抱いてしまう後ろめたさで、自然と口が重くなる。耐え切れず顔を逸らすリーファだったが、意外にもゼラは皮肉を言う事も無く、却ってリーファを擁護するような言葉を述べる。

「まあ、仕方が無いと思うけど。ヴェインはあんなだからね。立ってるだけで死神みたいだって怖がる人も少なくないし」

 リーファは心当たりに胸に手を当てる。そう。あの人はただ其処に立っているだけで異様な迫力があるのだ。気付かぬ内に側に立たれた時など、まるで神の定めた命数に従って人の命を刈り取りに来た死の使いが現れたのかと悪寒が走るくらいに。

「…大丈夫だよ」

 リーファの心中にこの場にいないヴェインの纏う異様な雰囲気への恐れが再来したのを察してか、ゼラがやけに静かに口を開く。

「ヴェインは良くも悪くも周りに興味なんて無いから、意味も無く貴女を傷付けたりはしない。あれはね、単にヴェインの心の問題。ある一つを除いてはこの世に何の未練も無い彼女の中に巣くう、真っ黒な虚無感が息をするみたいに外へ滲み出しているだけ」

 言いながら見せた微笑みは淡く、少しだけ儚い。胸を突かれ、リーファは往来の間に立ち尽くす。

「――どうかした?ぼーっとしてるとはぐれちゃうよ?」

 垣間見せた何かを瞬き一つの時で幻に変えて、いつも通りに笑うゼラがリーファの腕を取る。走り出したゼラに腕を引っ張られ、我に返ったリーファは躓きそうになって抗議の声を上げた。

「何?もう帰るんじゃないの!?」

「その前に少し寄り道」

 通りを駆け回る子供達みたいにゼラはリーファを連れて走って行く。他の通行人からは恰も仲の良い友達同士に見えるだろう。実際には決してそんなものではないのだが。

 訳が判らないリーファは手を取られたままに走るしかなかった。接する時間が長くなればなる程、このゼラという少年が解らなくなった。ただ斜に構えただけの小生意気な少年かと思えば、時折妙に大人びた表情を見せたり、背筋がぞっと凍り付くような凄みを感じさせたりもする。

 敵対する隣国の王族。リーファの、そして自身の祖国に弓を引いた〝銀の魔王〟の血を引く者。物語で読んだ一番の友達同士みたいに腕を引かれて走るような事をしていたとしても、リーファとゼラは相容れない遙かに隔たった場所にいた。そんな相手の言動の意味を理解する事などが、そもそも出来るのだろうか。ならば接していて困惑してしまうのも当たり前のようにも思える。

 何人もの通行人達と擦れ違いながら、大通りを街全体を囲む城壁の方角へと向かう。城壁に沿って街門から少し行った所に上へと上がる階段があり、ゼラは迷わず其処を駆け上る。

 内側にある砦の外壁よりは多少低いとはいえ城壁の上へ続く階段の勾配と長さは、それまでに駆けて来た距離も相俟ってリーファの乏しい体力には正直きつかった。漸くといった感じで階段が終わり、間も無くして唐突に解放された手を今にも崩れてしまいそうな両膝に突くと、身体には激しい疲労感が伸し掛かる。ぜいぜいと上がった呼吸を落ち着けようとするも、肺は熱くて足は重たい。暫くの間はもう一歩も動けそうになかった。

「だらしないなあ。それで良く向こう側から此方側までの長旅が出来たね」

 リーファの体力の無さをからかう嘲笑が風の音渡る城壁の上で嫌みなくらい涼やかに響く。喘ぐ息を繰り返しつつリーファはどうにか顔だけは上げて、混じり気の無い黒髪を風に遊ばせるゼラを睨む。――だが、次の瞬間。開けた視界の大部分を占める透き通る青の色に唖然として、限界を叫ぶ心臓が耳の奥で煩く騒ぐ音さえも聞こえなくなった。

 城壁の彼方に広がる眺めは、空に溶けるように聳え立つ晶壁に埋め尽くされていた。此処からではまだ幾分距離がある筈なのに、晶壁の背丈は見上げる程に高く、横幅は顔を左右に動かしてみても何処までも続いていて終わりなど無いように見える。

 過去の戦に於ける最大の遺物、魔晶壁の長城。書物や講義などでは何度か触れた事があるが、こんな風に実物を自分の目で見た事のは生まれて初めてだ。

「凄い……」

 この長城を初めて見たら、誰もがとても驚くに違いない。それこそリーファも一瞬で疲労が全部吹き飛んでしまうくらいの驚嘆を抱いた。

 両国の国王と皇帝が最後に邂逅した、聖ナージュ王国とアルトナージュ帝国との決戦と目されていた場で。彼の〝銀の魔王〟は刃を納め国土を返還せよという聖ナージュ側の再三の勧告に背き、祖国との訣別の宣言をこの魔晶壁の長城という形で叩き付けたという。

 聖ナージュの姫として生まれて相応の教育を受けてきたリーファの認識の中で、正しく見渡す程に巨大過ぎて現実感の無いこの長城は、故国の本来の国土を略奪した悪しきアルトナージュがこれ見よがしに掲げる旗印のようなものだった。仮令目にした事は無くとも、その存在には激しい憤りを感じていた。

 けれどもこの目にした実物の、この美しさはどうだろう。街道を進んでいた時に幾つか見掛けたやたらと巨大な晶石の石碑と雰囲気はとても似ているが、此方の方がずっと透明度が高く、より長大で、神の威光めいた圧倒的な力を感じる。これ程のものをその死後も維持し続けるような尋常ならざる魔力を初代皇帝はその身に宿していたのだ。これならば他者から魔王と称されるのも頷ける。

 リーファは暫く長城の素晴らしさに見惚れていた。胸壁に身を乗り出し、小さく歓声を上げて、感動にその光景を食い入るように見つめていた。だからゼラが止まり木に降り立つ鳥のように胸壁に飛び乗り、彼女の傍に腰掛けたのにも全く気が付かなかった。

「あれの事、どんな風に聞いているの?」

 それが自分へ投げ掛けられた質問だとリーファが理解するのには少し時間が掛かった。ゼラはリーファの聴覚に問い掛けが染み渡り、意味が届くのを、微笑み黙って待っていた。

「…え?どんなって…」

 リーファの側の意見をそのまま述べるのには些か躊躇いがあったが、今更嘘を言っても仕方が無い。何よりいつだって人の心情を見透かしているみたいなゼラを相手にその場凌ぎにでも上手く取り繕う自信が無かったので、リーファは忌憚無く彼女が教えられてきた事柄を話した。

 ゼラはリーファの返答を最初から予想していたかの如く微塵も表情を揺らがさず、リーファの言葉を聞いていた。リーファが話し終えるとゼラは肩越しに背後の長城を見上げ、抑揚の無い調子で語り出した。

「あれはね、エウリカの悲しみと怒りの結晶なんだよ。余り知られていない事だけどね」

 ゼラは少し言葉を切り、息継ぎをするみたいな間を置いた。

「…金の王家に銀の色を持って生まれて来てしまったばかりに血族の誰からも顧みられず、異物として忌まれ、幼い頃から北部の魔境に幽閉されて生きて来た彼女の想いの塊。最後まで彼女の存在を同じ王家の――家族の一員と認めようとしなかった人達への、痛々しいまでの想いと叫びが形になったものなんだ。……貴方達が私を認めないのなら、私も貴方達なんて要らない。だから、もう私に構わないで――…って、ね」

 身内の誰からも必要とされず、疎まれ続けた異端の王女エウリカ・レーヴァ・ナージュ。能力で劣る兄が王位が継いだ事に不満を抱き、その凄まじい魔力の前に跪き彼女に付き従った手勢と共に王国に反旗を翻した叛逆者として彼女の人物像を学んでいたリーファの心に、ゼラの語ったその内容はかなりの衝撃をもたらした。

 そんなの其方の勝手な言い分だと食い下がる事も以前のリーファならば出来ただろう。だがアルトナージュに対する長年の思い込みが壊れてしまった今、嘘か真か判らないとはいえ、敵愾心から子供っぽい反論に出る事は憚られた。

「でも、結局エウリカは最期まで皆に自分の存在を受け入れてもらいたかったんだよ。そうでなければ、態々アルト(銀の)ナージュなんて名乗らないでしょう?…銀の色になんて好きで生まれて来た訳でも無いのにね。……本当に、可哀想な(ひと)

 心からの憐憫を始祖と同じ、けれども片方だけの銀の瞳に宿してゼラは顔から笑みを消し去った。その声色はさながらエウリカ本人がすぐ側にいるかのように、純粋な同情を含んで優しく、それでいて奇妙に寂しげだった。

 リーファは長城を眺め、思いを馳せる。

 エウリカは一体どんな気持ちであの長大な晶壁を創り出したのだろうか。彼女がアルトナージュを建国した際にはまだその父母も存命であったと記されていた。この世の誰よりも近しい、本来ならば無条件で愛し愛される筈の血族から疎まれ嫌われる。それも、彼女自身が望んだ訳でも無い、彼女にはどうにも出来ない事が原因で。

 謂れの無い迫害を受け、祖国を追われる。その境遇は他人事として聞き流すには身近過ぎた。

 どれ程辛かった事だろう。苦しくて、悲しくて、どれだけ傷付き、嘆いた事か。リーファにはエウリカの想いが我が事のように思えてきた。〝聖なる金〟に生まれ付いた事でリーファ自身もずっと、一種の腫れ物のように扱われてきたのだ。だからだろう。不幸にも銀の色に生まれた王女の話は、リーファの心に深く突き刺さった。

 こんな色、要らなかったのに。特別の存在として皆から尊ばれるという扱いは、裏を返せば皆から遠巻きにされるのと変わらない。あの方は特別だから。貴女様は王女というだけではなく、私共とは異なる大変尊い存在なのです。そんな事を言われても、褒められていると感じた事は一度だって無い。ただ、誰も彼もから仲間外れにされているような気だけがした。

 光の神の寵愛を受けた聖なる姫君だなんて、呼ばれたくなどなかったのに。幾ら〝聖なる金〟を持っていたところでリーファはただの非力な、一人の少女でしかない。王家の血を引く者の常として他者よりは幾らか強い魔力を有してはいても、その力の有益な使い道すら考えられない物知らずの愚かな娘。その自覚はある。なのに髪と両目の金の色だけが独り歩きして、誰もがリーファを敬い尊ぶ。そうやって遠ざけられて孤独に暮れる彼女の心の内など、一人として思い遣ってはくれないのだ。

 遮る物の乏しい城壁の上に蕭々と吹き付ける風はとても冷たかった。北から南へ抜けて行く冷気を孕んだ冬の強風に晒され続ける晶石のあの壁は、触れると氷のように冷たいのだろうか。それとも、厚い雲の向こうから照る太陽から、僅かにでも温もりを得ているのだろうか。

 太陽は、あの子の瞳の色だ。リーファは陽の射す方向を見上げ、自分と一緒の金の瞳をしている弟の無邪気な笑顔を思い描いた。聖骸が届くまで、自分が帰るまで、どうか無事でいて欲しい。いや、きっと無事でいてくれる。自分がそう信じなくてどうするのだ。

「残念。駄目みたい」

 不意に落とされたゼラの呟きが物思いに沈んだリーファを引き戻した。一瞬弟の事を言われたのかとかっとなって、今にも飛び掛からんばかりの勢いでリーファは彼を睨み付けた。しかしゼラは街へと下りる階段の方を見ており、今し方の言葉が単なる独り言であったのを悟る。

 何が駄目なのか。気に掛かり問おうとしたリーファが口を開く前に、ゼラがリーファを見た。表情は変わらぬ笑みの形を取っているのに、胸騒ぎを覚え、じりじりと後退りしたくなるような圧迫感をゼラは漂わせている。

「――ねえ、どうして聖骸なんて盗み出したの?」

 問い。初めに兵に捕らえられた時も、牢から逃げ出してゼラ達に見付かった時も、絶対に理由は答えなかった。仮に白状してみたとして、それが聖骸を運んでくれている仲間の逃走の足枷にでもなったら堪らない。そもそもが正直に理由を話したところで、祀られている初代皇帝の聖骸などという彼等にとって大切なものを盗み出すという行為が許される訳も無いし、許されようとも思わない。重要なのは罪の許しを得る事ではなく、掛け替えの無いあの子を助ける事なのだ。

 絶対に、絶対に、あの子を助けてみせる。お母様とも、そう約束したんだもの。あの子は私が必ず護るって。

 理由を尋ねられた時は凄まれても怒鳴られても沈黙して決して口を割らずに、相手が諦めるまで時間が過ぎ去るのを懸命に堪え忍んでいた。けれど今度ばかりは口を噤んで相手の根負けを待っていても無駄なようだ。その様子から、この問いに対する明確な答えを聞き出すまでゼラがリーファを解放してはくれないのは瞭然だった。

 此処で逃げ出す事は恥だとリーファの誇りが声高に叫ぶ。金を纏う王女としてではなく、リーファをリーファとして見て、たった一人の姉として愛し慕ってくれる最愛の弟。あの子を救う為の行いと思えば、盗賊紛いの悪事に手を染める事すら英雄の功績めいたものへと変わる。

 真っ向から突き付けられた質問にこの場で無言を貫くのは、光に背を向ける事と同義だ。故にリーファは答えた。背筋をぴんと伸ばし、堂々と胸を張って。己に恥じる事など何も無いのだと、言葉よりも雄弁に態度に表して。

「――弟を助ける為よ」

 そう、凛と答えた。

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