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銀の魔王は棺に眠る  作者: 此島
三章
15/32

 部屋の一辺にある大きな窓から射し込む光りが酷く眩しくて、彼は顔も上げられずにいた。俯く視界には鮮血の色を想起させる赤い絨毯が敷かれ、狭い執務室の石床一面を覆い隠している。

 跪いた姿勢に目に入る己の手足が細かく震えを来しているのには気付いているが、出来得る限り見ないよう、意識しないよう努めて彼は頭を垂れ続けた。傍らではこの城塞都市を治める城伯であるディアン郷が同じように身体の震えを堪えようとしながら、愛嬌のあるそのつるりとした禿頭を薄い絨毯に擦り付けていた。

「ディアンもカンテも、そう畏まらなくていいよ。別に貴方達二人を取って食べようなんてしないんだから」

 くすくすと笑われ、アークスに駐留する帝国軍を取り纏める指揮官であるジオルカ・カンテは一層竦み上がって深く頭を下げた。からかうようなその口調に、横目で窺わずとも隣のディアン卿が少々ふくよかな体格をふるふると小刻みに震わせているのが判った。

「どうか顔を上げて。そうやって跪かれるのって好きじゃないんだ」

 言われてカンテは恐る恐る顔を上げた。掛けられた言葉を額面通りに受け取っての行動ではない。ただ、万が一にも相手の機嫌を損ねてはどうなるかと恐れる余りの行動だった。

 偶然にも目が合って、しかしいきなり視線を逸らす訳にもいかず、カンテは喉の奥から迫り上がる感情の塊を懸命に呑み込んだ。

 良く晴れた午後の日射しは中庭に面した大窓を通り抜け、穏やかな光を室内に投げ掛けている。恵みである筈の冬の陽光を背に、皇子は微笑んで座っていた。ディアン卿の執務机の天板に足を組んで腰掛けているその様は自室の寝台にでも座っているかのようで、床で身を縮めるカンテ等とは対照的にゆったりと寛いでいる。

 皇子の腕がすっと動き、カンテは思わず首を竦めそうになった。何て事は無い。皇子はただ目許に掛かった前髪を軽く払っただけだ。さらりと零れた皇子の黒い髪が逆光に透ける。片方だけの銀の瞳が獲物を求めて暗闇に光る肉食獣の眼のように思えて、カンテは総毛立った。

 カンテは齢四十。その半生のほとんどを軍人として過ごし、様々な任務に就いては数多の魔物や敵を相手取り、幾度も死線を越えてきた。将校の証である徽章の付いた白い軍服の下には、当時に負った傷の痕が帝国に献身する者の名誉の勲章として刻まれている。

 如何に凶悪な魔物も、手練れた強者も、相対する事に恐れは無い。相手が何者であれ、それが敵であり倒すべき存在であるならば、自らの命など惜しまずに果敢に戦い抜く。カンテはそんな生粋の武人であった。

 自分は決して臆病な質ではない。それだけの自負と実績がカンテにはあった。実際に絶対に勝てないと踏んだ相手と敵対する事があっても、皇帝陛下の命とあらばこの一命を賭し、喜んで立ち向って行くだけの気概もある。だが――。

「そう。シェリスタってば、やっぱりまだ来ていないんだ」

 この皇子だけは別格だ。否、別の次元の存在だと言い換えても構わない。

「なら、ちょっと待たせてもらうね」

「は、はい!すぐにでもご滞在の為のお部屋を用意させます。お連れの方々にも不自由など無きよう取り図らせますので…!」

 まるで城塞を私物化していたところで急な査察が入ったかのような焦り振りだが、ディアン卿は温厚篤実な人柄で、この城塞に勤める軍人から下働きの者に至るまでに慕われている大人物だ。当然ながらそのような事実は無く、逆に普通なら見落としてしまいそうな細部にまで常日頃からしっかりと眼を光らせ、このアークスが城塞として最大限機能するように心を配っている。その働き振りから、自らの務めに於いて私情は挟まぬよう気を付けているカンテ自身でさえも本音を言えば密かにディアン卿を頼りに思っているくらいである。

「いいよ。そんなに気にしなくて。寝泊まりさえさせてもらえれば充分だから」

 屠られる寸前の子羊のように慄き震えるディアン卿の様子などどうでもよさそうに、机上に後ろ手に突いた腕に体重を掛けて寄り掛かり、床に後少し届かない足を皇子はぶらぶらと揺らしてみせる。長靴の踵が机の壁面に触れる微かな物音にディアン卿が「ひっ!」と息を呑んだ。

「殿下。もしもお許し下さりますならば、及ばずながら我等にもどうぞ殿下にご助力をさせては頂けませぬか?」

 カンテはディアン卿に助け船を出すような気持ちで皇子に向かって進言した。皇子等の目的は驚くべき事に霊廟から盗まれたという初代皇帝の聖骸を取り戻す事だという。この時に口を挟んだのは見るも哀れなくらいに怯えるディアン卿を庇う為ではあったが、それを聞いては黙って見過ごす訳にはいかないのも祖国に仕える忠臣たる彼の偽り無い本心であった。

「至急兵を集め、賊の追討の為の人員を選抜し――」

「いらないよ」

 一大事に身を乗り出したカンテに皇子は短く言葉を被せ、カンテの言を遮った。

 皇子は笑う。却って無邪気に。鳥肌が立つ程毒々しく。

「貴方達は何もしなくていいから。ただ邪魔さえしないでくれたらそれでいいよ。…ね?」

 幼子に向けられるような優しげな口調。柔らかく綻んだ口許が、ぞくりと背筋が粟立つような美麗な笑みを形作る。

「――…はっ!」

 どうにか返答を絞り出し、深く深く頭を垂れる。カンテの額には脂汗が滲んでいた。皇子の姿を視界に入れないよう下げた頭からは一瞬にして必要以上に血の気が失せてゆき、頭の中が恐怖で真っ白になる。

 ただただ、恐ろしかった。

 この皇子は、化け物だ。畏怖に喰われたカンテは心の底からそう思った。

 己の居場所からたったの数歩先に存在する恐ろしい化け物の気配に、今尚鮮明なカンテの記憶が、対面に当たって押し込めていた脳裏の奥底から蘇る。ぽたりと汗の雫が落ちた絨毯の赤よりも赤い、記憶の中の凄絶な光景に恐怖して、歴戦の軍人は為す術も無く歯を打ち鳴らし、ひたすらに震える拳を握り固めていた。


 四角い枠を三重に重ねたような造りをしているこの城塞は、既に遠い昔の出来事となったアルトナージュの建国戦争の際に築かれた古い建築物である。戦が一通りの集結を見せた今もこの地が帝国南部国境を防衛する要の土地である事は変わらない。そして現在、元単なる城塞のみであったアークスは砦の周囲に兵やその身内、付近を行き来する旅人等の為の施設を備えて街を形成し、廃れる事無く更なる発展を遂げて、今や帝国内でも一廉の大都市として機能していた。

 胸壁に刻まれた傷が歴史を語る、砦の外周の一部である城壁の上からは、砦の外側に重ねるように拡大して造られた街並みが一望出来る。城と同様に灰白色の石を建材に用いた山々の峰に降り積もった処女雪を思わせる帝都の白っぽい街並みとは異なり、戦の折の要衝である無骨な造りの城塞に倣ったような色気の無い暗い石色の景色。だが、其処に存在する賑わいは帝都のそれに負けず劣らずの明るさに満ちた空気を醸し出している。

 此処がこの地方で一番大きな街であるからか。住民や行商風の旅人などがひっきりなしに往来する大通りを見下ろし、ヴェインは胸壁の端に手を触れて微かな溜め息を吐いた。

 城塞の巨大な門扉から北の街門までを一直線に貫く通りには様々な人間が行き交っている。けれどもヴェイン達がその到着を待っている肝心の人物の姿は何処を探しても見当たらない。どうやら此方の方が早く着いたらしい。一体彼女はいつ頃アークスに到着するのだろうか。

「シェリスタさん、来ませんね」

 クロアが広く開け放たれている街門の向こうを眺め遣り、賊の情報を持って来る筈のシェリスタを待ち侘びる風に言う。

「一応連絡を入れた方がよいのでは?」

「向こうに応じる気が無ければ無意味だろう」

 本来ならば尤もなクロアの提案だが、この場合相手が悪い。

 魔法石を使って此方から連絡を入れたところでシェリスタが応答する確率は極めて低い。何故なら彼女が大人しく命令を聞き入れる存在はこの世にフェルキースただ一人だけであり、他の人間の言は同部隊の者であっても一様に無視されるのが常だ。特にゼラなどはフェルキースの兄弟というだけで意味の解らない嫉妬を買い、殊更に嫌われているところがある。仮に連絡してみたとしても出ないか、突然の罵倒と共に一瞬で切られるかのどちらかだろう。そうでなければシェリスタの掴んだ賊の居所を尋ねる事も出来、先に対応策を講じる事も可能なのだが。

「なら、フェルキース陛下の方から連絡を取って頂くのは?」

 ヴェインの返答を受けて考え込んだクロアが次の提案を口にする。フェルキースに間に入ってもらえば確かに連絡を取り合う事は出来る。だが、それをするには絶対的な問題が立ちはだかっている事をクロアはまだ少々理解していないらしい。

「ルキは絶対に面倒臭がるよ、それ。待っていればその内来るんだからいいだろう、って言うと思うなあ」

 軽い靴音を鳴らして此方へやって来たゼラが笑って否を告げる。ヴェインに話し掛けていたクロアも、彼方此方を物珍しそうに見回しては所在無さげに俯いていたリーファも、ゼラが歩み寄って来た事に気付いていなかったようだ。ヴェインは靴音が届く前からゼラの気配を察知していたが。

 リーファはともかく、城塞内部にいるからといって周囲への目配りを怠っているクロアに対してその事を注意すると、クロアは恐縮して「すみません。以後気を付けます」と背筋を正した。

「ヴェインったら厳し過ぎない?あんまり口喧しく言うと部下に嫌われちゃうよ?」

 ゼラは上体を屈めてヴェインの顔を見上げ、そう揶揄した。ヴェインとしては元々好かれているとも思わないので何も問題は無い。そもそもが他のディオールの面々自体、彼女の事を上官だとは思っていないだろう。副長と呼んでくるのも真面目なクロアくらいのものだ。他の者は、纏め役と『隊長』のお守りを押し付けられた貧乏籤を引いた人間、という程度の認識しかしていない。

「挨拶は終わったのか?」

 ゼラの冗談口は付き合うだけ時間の浪費に繋がるので、さっさと切り上げさせる為にそう問う。何がおかしいのかゼラは一頻り笑いを零してから小さく頷いた。

「ちゃんと『暫くご厄介になります』って言って来たよ。部屋を用意してくれるって言ってたから、シェリスタが来るまでの間、のんびり待っていればいいんじゃない?」

 どう考えてもそんな殊勝な物言いはして来なかった筈だ。アークスを取り仕切るディアン城伯とカンテ指揮官は相当嫌な汗を掻かされた事だろう。今の職務に就く前の彼等は帝都で別の役職を任されていた。あの二人は過去のゼラの所行をその眼で見ているのだ。彼等に非は無くとも、さぞや生きた心地がしなかったに違いない。

 何食わぬ顔で胸壁の隙間に腰掛けたゼラはヴェインの向けた視線ににこりとした。彼女が今何を考えていたかを見透かした上で、ゼラはそうやって微笑んでみせている。実に徹底した〝化け物〟振りだとヴェインは感心とも呆れとも付かぬ想いで腕組みをした。

 黒い軍服の一団と、其処に交じるどう見ても軍とは関係の無さそう男装の少女の存在が気になるのだろう。表面上は無関心を装いつつも先程から歩哨がちらちらとヴェイン等の様子を窺っている。

 やけにその辺を行ったり来たりしている歩哨をヴェインは一睨みして追い払った。冬の早い日暮れが笑うゼラの白い顔に濃い陰影を生み出す。良く晴れた一日だったので斜陽の光は際立って空を染め、辺りを黄昏時の夕闇へと塗り替えてゆく。

「という事で、シェリスタが来るまでは自由行動。それでいいでしょう、ヴェイン?」

 勿論王女様に自由は無いけど、と後から当て付けのように付け足したゼラに、そんな事は解っているとリーファがむすっと唇を突き出す。だが警備の厳重な場所柄ヴェインによる監視は無しの別室だと言われて、少女はあからさまに表情を明るくさせた。それ程ヴェインと同室の宿が苦痛だったのだろうか。道中の宿泊の際、同性というだけで監視役を任され割を食っていたのはヴェインの方であるので、その態度には些か思うところが無くも無い。

「久し振りにゆっくり寝台で眠れる訳ですね。物凄く有難いです」

 年中各地を放浪しているクロアがしみじみと呟き、リーファが同感だと言うかのように安息の予感に瞳を潤ませる。そんなリーファに何とも言えない気持ちにさせてもらったヴェインの腕にゼラがさり気なく自分の腕を絡ませて、艶やかに微笑した。

「でも、急に一人になったらヴェインも寂しいでしょう。良かったら一緒に寝る?」

「必要無い」

 ヴェインは笑み含みの吐息を交えて甘やかに囁かれた言葉をつれなく一蹴する。悪巫山戯も程々にしろとは思ったが毎度の例に洩れず態との事なので、言うだけ無駄なのは解り切っていた。

 耳聡くヴェイン等の遣り取りを拾い、片や興味に目を輝かせ、片や驚いた顔で頬を赤らめつつ、クロアとリーファが此方を盗み見ていた。先刻の歩哨以上に鬱陶しい視線を感じ、ヴェインはそんな彼等をを冷厳と睨み付けるのだった。

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