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銀の魔王は棺に眠る  作者: 此島
三章
14/32

 地上は瞬く間に遠ざかり、先程まで歩いていた街道は単なる細い線と化して次第に薄くなっていく。遠く蒼然と霞む山並みは空との境に溶けるようで、何処までも続く大地は遙か彼方まで見渡せた。広大な森の中央を貫く川の緩やかな曲線も側近くへ行けば雄大な流れとなるが、此処からでは地面に一本の細長い帯を敷いたかのようで、川の流れが行き着く先の湖さえもが小さな水溜まりのように目に映る。

 ディルカは自慢の翼で蒼空を滑らかに渡って行く。恰も大空が隅から隅まで熟知した己の庭であるかのように、悠々と。語り掛ける言葉のみでディルカの手綱を取るテンドも吹き付ける風に心地好さそうに瞳を閉じ、常人には訪れる事すら不可能な高みの、澄み切った空気を味わっているようだった。

「機嫌、直った?」

 羽撃く翼の一方の付け根の辺りに腰を落ち着けたゼラが、止めればいいのにテンドへと揶揄めいた一言を投げ掛ける。

「突き落とされたいのか、テメーは?」

 ディルカの背は決して狭くはないが、その外は足を滑らせれば確実に墜死を免れない高所である。もし此処から落下し地表へと叩き付けられれば、二目と見られない挽き肉同然の肉片と化す事だろう。そんな姿にしてやろうかと言わんばかりの睨みを利かせ、テンドがゼラを振り返る。

 テンドの反応に満足したのか、くすくすと笑うゼラは寛いだ雰囲気で近くなった空を眺めている。上空の強烈な寒気を浴びても寒そうな素振り一つ見せないゼラの黒髪が向かいからの強風に靡き、片方だけの耳飾りが澄んだ音を鳴らした。

 ヴェインはもう片方の翼の側に片膝を突き、テンドにこれまでの経緯を語った。高所に恐怖は覚えない質であるので、要所を掻い摘んで説明するその言葉は淀み無い。

 あらましを聞き終えたテンドは「んー」と小さく唸り、ゼラとヴェインの間辺りに蹲るリーファへ視線を遣った。これがその聖ナージュの姫君かと品定めをするような、胡散臭いものを見るような眼だった。

 無遠慮なテンドの視線に気付いたリーファは一瞬だけ彼を見つめ返したが、すぐに横を向いて赤い瞳から逃げ出した。だがその先には目も眩む遙かな上空の光景しか無く、リーファは慌てて顔を飛竜の背に伏せた。背面の中央で竜の堅い皮膚にぴったりと身体を寄せ、鱗と鱗の極僅かな溝に爪を食い込ませるようにして振り落とされないよう必死にしがみ付いている。どうやら余程の恐怖を感じているらしい。

 もし落ちるような事があれば、逃れようの無い死が待ち受けている。それを思えばリーファの態度は当然なのだろうが、多分この少女が恐れているのはこの高さばかりではないのだろう。ディルカが空へと舞い上がる前、怪物の動向を探るようにそっとテンドを窺って呟かれた言葉からそれが知れる。

 リーファは畏怖の念に掠れた小さな声で呟いていた。――ルーネス、と。

 ルーネスとはまたの名を〝操魔の民〟と呼ばれ、様々な魔物を操る能力を有する少数民族である。尖った耳と赤い瞳が特徴的であるが故に、テンドがルーネスの一人であるのは語られずとも一見しただけで判る事だろう。

 神話にその名を刻む魔の神に連なる血筋を持つと伝説に語られる彼等ルーネスは、古より人の形をした魔物の一種として恐れられ、人間にあらざるモノとして迫害を受けた歴史を持つ。それが一番顕著であった時代が、聖ナージュ王国が現在のアルトナージュ帝国領に当たる大陸中央以北までを統べていた頃である。

 アルトナージュ建国の際に初代皇帝によって保護され、帝国の民として迎え入れられるまでの彼等の労苦は伝え聞くだけでも計り知れないものがあった。魔物と共に生きる異能の種族として忌まれ、一度冬がやって来れば遅い春の訪れまで外界から切り離されるような、氷雪荒ぶ辺境の山地に追い遣られての幽閉にも似た生活。初めにそれを強いたのは、リーファの祖に当たる聖ナージュの王家による統治だ。

 一族の誇りを掲げ、自分はルーネスであると周囲へ高らかに主張するような出で立ちのテンド。その出自を考えれば彼女に対して推定良い心象を抱いてはいないだろう彼の操魔の民を前にして、果たしてリーファは何を思っているのだろう。

 迫害の先導をした血脈として報復を恐れているのだろうか。それとも、聖ナージュでは決して見掛けないであろう魔に連なるとされるルーネスに出会い、純粋に恐怖を覚えているのだろうか。周りを見ないように堅く目を閉じているリーファの伏せ気味の横顔からは、その心情は窺えない。

 ディルカが滑空する事で絶え間無く寄せる凍える風が冷気となって纏わり付く。顔や手などの剥き出しの部分は寒風に晒され続けて完全に冷え切っていた。ヴェインは剣を使う利き手を暖めておく為に試しに掌を握ったり開いたりしてみるが、余り効果は得られない。

「――で、結局その〝怪しい人影〟ってのは誰なんだよ?」

 纏う緋の民族衣装は薄手だというのに、寒さなど物ともしていないテンドが素朴な疑問を口の端に上らせる。

「さあな」

 ヴェインはその問いを短く切って捨てた。先日の襲撃に何者かが一枚噛んでいる事は確かだと思うが、実際この眼で目撃した訳でもなく、それが誰かなどは判然とする筈も無い。だがテンドはその答えが不満だったようで、むすくれた表情を浮かべた。

「相変わらず可愛げのねえ女だな。さあな、じゃねーよ。そいつが誰かは判らなくても誰狙いで辺りをうろちょろしてんのかとか、その辺少しくらい考えてみろよ」

 ご丁寧に「さあな」の部分をヴェインの口調を真似て言ったテンドにゼラが笑う。するとテンドの苛立ちの矛先はゼラへと向いた。

「お前がそいつを見た張本人だろうが。何かしらの心当たりくらい無いのかよ?」

「心当たり?」

 人差し指を顎に当て、斜め上へと視線を滑らせてゼラは態とらしく考え込む仕草をしてみせる。

「さあ、どうかな。仮に僕が目当てだとしたら、恨みなんて数え切れないくらい買ってると思うから、命の一つや二つ狙われてもおかしくはないだろうけどね」

「バカか、お前?命は二つも無いんですぅー」

「あ、揚げ足取り。ただの比喩でしょう?心が狭いなあ」

「はん!お前をディルカに乗せてやってるだけで俺の心はこの大空よりも広いっつうの!」

「本当に心が広い人は自分でそう言わないよね、ヴェイン?」

「莫迦な会話に巻き込むな」

 急に話を振られたがヴェインは冷淡に言葉を返して眼下の景色を眺望した。誰がバカだと莫迦の一人が騒いだが、当然無視を決め込む。

 誰を狙っての襲撃か。そんなものは二者択一でしかないだろう。自分でそう言った通りに敵の多いだろうゼラか、其処でぶるぶると震えている隣国の姫君か。少なくともヴェインには何者かに魔物を嗾けられる覚えは無い。其処ではたとその可能性に思い至ってヴェインは莫迦その二もといテンドに問う。

「ルーネスの中にそういった襲撃を企てそうな者はいないか?」

 そもそも、普通の人間に魔物を操るなど土台無理な話なのだ。他の獣なら時間を掛けて調教すれば命令通りに動かす事が出来るようになるかも知れないが、凶悪かつ狡猾な魔物相手ではそうはいかない。本来人間の言う事など聞きはしない魔物に命を下して他者を襲わせるなど、それが出来るとすればルーネスくらいしかいないではないか。

「…は?――どういう意味だ、おい?」

 筋道立てての質問であったのだが、しかしテンドは赤の双眸を静かに燃える怒りの色に変えて気色ばんだ。

「そのままの意味だ。魔物を使うとなればルーネスの血を引く者を疑うのが手っ取り早い」

「…お前、俺達を侮辱するのか?」

 底冷えのするような低い声にびくりとしてリーファが顔を上げる。短い髪の毛を逆立てるように怒気を発するテンドは抜き身の刃を突き付けるが如くヴェインを睨み据えた。

「テンド」

 そっとゼラが窘めるように彼の名を口にする。

「………」

 やけにしんとした沈黙が流れ、その中で唯一動きを止めないディルカの翼が風を切る。主人の怒りを感じ取ったのか、ディルカがどうしたのかと尋ねる風にくるると喉を鳴らした。

 少しして、不安定な飛竜の背に仁王立ちになっていたテンドが、ふん、と鼻から息を吐き出し、どっかりと胡座を掻いた。片方の膝に頬杖を突いて怒り冷めやらぬ様子で背中を丸め、彼は真っ直ぐにヴェインを見据えた。

「――俺達ルーネスは受けた恩は絶対に忘れない。恩義には篤く報いよってのが俺達の掟の一つにある。けどな、掟を守るのはそれが規律だからじゃねえ。俺達が俺達の誇りを背負って掟に則り、それを実践するんだ」

 一言一言を噛み締めるように区切りながらテンドは言葉を続ける。

「だから、俺達はエルダバート様の血筋に仇なすような真似は死んでもやらねえ。確かにこいつもフェル坊もはっきり言ってやたらむかつくし、俺の事を顎で使いやがって時々殴り倒してやりたくなるが、それでも絶対にその命を脅かすような真似だけはしねえ。これは俺だけじゃなく一族全体の言葉と思ってくれていい」

 ゼラ達兄弟の父エルダバートは、かつて皇帝の直轄地として治められていたルーネスの住まう土地に自治を認め、初代より時代が下がるにつれ暗に帝国への従属を強いられてきたルーネス達に真の意味での庇護と自由を齎した人物としてルーネス達から多大なる信頼と敬慕を抱かれた存在だった。

 テンドの声の内に込められた真剣さが、彼等一族の誇りに懸け、今の言葉に一欠片の嘘偽りも無いという事を断言していた。納得しヴェインが非礼を詫びると、テンドは解ればいいんだと外方を向いた。

「……つっても、昔掟を破ってルーネスの名に泥を塗ったような大バカ野郎共がいたけどな」

 嫌悪を滲ませた呟きを風に放り、テンドはディルカの首の横から身を乗り出して地上を覗き込んだ。流れてゆく風景は話をしている間にも移り変わり、遠くに霞んでいた山脈がその険しい岩肌の陰影を露わにしている。

 南隣の聖ナージュ王国との国境線でもある東西にそれぞれ延びる山脈の間を繋ぐようにして、日射しに煌めく透き通る青をした晶石の長城が見えていた。その手前にある灰色の塊が目指す城塞都市アークスだ。

「ん?」

 つとテンドが地上を睨みながら片手を目の上に翳した。近眼の人間が遠くのものを見ようとする時のようにテンドは両の眼を細めて凝らす。

「どうした?」

 テンドは答えずディルカの頭に乗り上げ、淡い緑の平原を見下ろしている。訝りヴェインはテンドの目線を追った。

 アークスの東側に屹立するノルディス山脈の麓に沿って、深緑の色が一面の森を形成している。貴婦人がふわりと翻す裳裾のように広がる山裾の深い森。其処から少しばかり離れた手前の平地で大きな点が一つ、小さな点が三つ、何やら動いているようだった。

 ディルカが城塞都市へと近付くにつれ、点は少しずつ大きくなり、その詳細が判別出来るようになってくる。

 点の正体は馬に乗って疾走する人間と、その後を追う三匹の魔狼であるらしい。追われる人間は今にも飛び掛かって来ようとする魔狼を威嚇するように手にした槍を振り回し、魔狼を彼等の間合いの外に追い払っている。

「あれ、クロアじゃない?」

 騎乗の人が自分達と同じ黒の軍服を着ているのをヴェインは視認する。飛竜の肩口から眼下を眺めてゼラが言った。ディルカの一羽撃きで彼我の距離がぐんと近くなり、疾駆する馬の揺れに合わせて騎手の薄茶の髪が跳ねる様までが見て取れるようになる。

 切迫した雰囲気で馬を駆るのは利発そうな面立ちの少年。この場を切り抜ける為の術を模索しつつ、彼は馬の肢に喰らい付こうとする魔狼の牙を槍を振るって紙一重で逃れる。

「ったく、仕様がねえな。テメー等、しっかり捕まってろよ」

 言うが早いかテンドはディルカの首筋を軽く叩いた。するとディルカが水面に躍り上がる魚のように上空へと身を伸び上がらせ、転じて突然の急降下を始める。地面と平行に進んでいたさっきまでとは比べ物にならない勢いで空気を切り裂き、ディルカは天から降る夜這い星の一瞬の光よりも速く地上に向かって猛進した。

「きゃああああっ!?」

 落下めいたその速度にリーファが魂までもが吹き飛びそうな絶叫を迸らせる。ヴェインはその背に片手を回して、飛竜の背中から浮かび上がり掛けたリーファが振り落とされないように捕まえた。涼しい顔をしていたゼラでさえ片目を顰めて身体を伏せるような凄まじい急降下にも拘わらず、テンドはディルカの首根に跨がるだけで全身の均衡を保ち、羽織った軍服を縦に靡かせて腰の矢筒から矢をきっかり三本取り出した。

 矢の内二本を右手に、一本を口に銜えたテンドは魔物の骨と丈夫な木材を組み合わせて作られたルーネス特有の意匠の施された強弓を構える。急速に近付くディルカの翼が巻き起こす風の咆哮を耳にして、此方に気付いたクロアが顔を宙に向けた。

 ディルカの巨影と追われるクロアが交差する。その刹那、弓の弦が素早く二度弾かれ、続け様に二匹の魔狼が寸分の狂い無く眉間を射抜かれた。ディルカが角度の深い弧を描くようにして再び上昇する最中、腰から上を捻って振り返ったテンドが口許の矢を手にして魔狼へ射掛ける。まるで初めからそう定め付けられていたかのように矢は三匹目の魔狼の脳天へ吸い込まれた。

「今日の昼飯はあれで決まりだな」

 神業ともいえる弓術を披露したテンドは事も無げにそう言って、弓をしまいながらディルカを地上へ降ろした。魔物であろうと徒に命を奪うのではなく、きちんとその血肉の恩恵に与り糧とするその姿勢には、彼等ルーネスの生き様と逞しさが表れている。

 ヴェインがディルカの背から飛び降りると、一足早く止めた馬の傍らに立っていたクロアが折り目正しく敬礼した。

「有難うございます。お陰で助かりました」

「おう。感謝しろよ」

 ひょい、と地面に飛んだゼラが腰の抜けているリーファに降りるよう言っているのを横目にしつつ、堂々とディルカの背に立ったテンドが尊大に胸を張った。クロアはもう一度きっちりと礼の姿勢を取ってはみせたが、その視線は既にテンドを外れておっかなびっくり竜鱗を滑り降りて来るリーファを捉えている。

「その子が例の少女ですか?」

 生真面目な表情を崩さないながらも、クロアの瞳には多分な好奇の色が浮かんでいた。左の眼窩に嵌められた片眼鏡がきらりと光り、これが聖骸を盗んだ賊の一味である〝聖なる金〟の王女か、と若草色の目が純然たる興味にリーファの頭の天辺から爪先までを見回す。

「そう。例のリーファ王女。別に無理に仲良くしてあげなくていいからね」

「…其処は『仲良くしてあげてね』と言うのがお約束だと思いますよ、ゼラ様」

 ゼラの至極適当な紹介にクロアは呆れ顔をした。テンドに続いてクロアにも珍獣でも見るみたいにじろじろと眺められ、心底居心地悪そうにリーファが視線を自分の靴の先に落とす。

「陛下の仰った応援とはお前の事か」

「はい。陛下より聖骸奪還の補佐をしろと命じられました。ゼラ様及びヴェイン副長のお役に立てるよう、誠心誠意頑張ります」

 常日頃より気怠げな皇帝に『丁度うろうろしている奴』呼ばわりされていた事など露知らず、十七歳というその年齢よりも大人びた表情を真面目一色に染め、一々びしっと敬礼を決めるクロア。その様が面白かったのか、思わず吹き出したゼラの鈴を転がすような笑い声がクロアの真面目一辺倒な面差しに困惑の色を上乗せしたので、ヴェインは取り合わなくていいと小さく首を振ってみせた。

 互いに一通りの挨拶を終えると、話はクロアが魔狼に追われていた経緯について及んだ。テンドが小刀で器用に魔狼の肉や毛皮を剥ぐ湿った音が聞こえる中で、青褪めた顔を両手で覆いその光景を見ないようにしているリーファとは対照的なけろりとした顔でクロアは事情を語った。

「実はですね、自分は元々この辺りに賊の討伐に来ていたんです」

 クロアは特別な任務の無い平時に於いては自らの愛馬を駆って地方を巡り、その土地土地で問題になっている魔物や賊を退治して回っているディオール一の働き者だ。成る程其処をフェルキースに目を付けられ、聖骸奪還の応援に回るよう言い付けられたのかと、この人選にヴェインは密かに納得した。

「その賊達は何でもノルディス山脈一帯を根城にしているとかで、近隣の街道を通り掛かった旅人を主な獲物にしているそうです。勿論それだけでも放ってはおけないんですが、自分が先達て立ち寄った村の人の話によると最近――と言っても此処何年かだそうですが、その賊の数が増えているらしいんです。このままじゃいつ村にまで押し入って来るかと付近の村の人々は恐ろしくて夜も眠れないそうで…。其処で自分が賊の退治を引き受けた訳です」

「それで、あれに追われていた事とどう繋がるの?」

 テンドが放り投げた魔狼の肉をディルカがぱくりと口で受け取るのを見ながらゼラが問う。

「アークスまでの道すがらに賊討伐の下見がてら、麓の森に立ち寄ってみたんです。そうしたら森の入口付近で早速魔狼に襲われまして…」

 それであの体たらくです。面目次第も無さそうにそう言ってクロアは肩を落とした。ヴェインは顎に手を遣り、すぐ其処で手際良く解体されてゆく魔狼へ視線を移す。

「妙だな。魔狼というのは基本的に縄張り意識の強い魔物だろう。其処が縄張りだとして、森で出会したのならああまで執拗に追い掛けて来るものか?」

 口にした疑問は魔物の専門家であるテンドに向けて発したものだ。だがテンドはヴェインを見はしたが答えず、愛竜に餌を与えている。しかし無言のテンドに代わるようにクロアが片眼鏡の位置を直しながら口を開いた。

「自分は魔狼の生態を熟知している訳じゃありませんが、賊についてある噂を耳にしています。こうなるとそれ、結構信憑性高そうですよ」

「噂?」

「はい。ノルディス山脈に出没する賊を目撃した人の話を総合すると、賊の首領は赤い瞳をした男…つまり、ルーネスのようです」

 その言葉にテンドがぴくりと眉根を寄せ、肉を投げる手を止めた。怯みまではしないもののテンドの鋭い視線が気になるのか、クロアはテンドの方をちらりと窺う。

「その話、本当かよ?」

「又聞きの類ですが、恐らく」

「………ちっ。何処のクズだ、その野郎」

 唾棄するように吐き捨て、テンドは腹立ち紛れに小刀を肉の塊に突き立てる。

 誇り高きルーネスの一族に裏切り者はいないとテンドは先刻断言した。だからこそヴェインはこれまでの襲撃に彼等が携わっている事は無いとした。だが、一族の外――例えば何らかの理由から里を出奔した者や、掟を破って追放された者などならばどうだろうか。それが自らの意思か、あるいは何者かに雇われての事なのかは不明だが、その仮定であれば魔物にヴェイン等一行への襲撃を指図する事はあり得るのではなかろうか。

 思い付いたその考えを述べると、テンドは苦虫を噛み潰したような表情でヴェインの意見を肯定した。

「無くはねえよ。つうか、大いにあり得るって奴だろ。忌々しい限りだけどな」

 平原を吹き抜ける風が漂う魔狼の血の臭いを掻き乱し、何処かへと運び去る。風の行方を追ってヴェインは彼方の空の青に溶けるようなノルディス山脈の険しい稜線を眺め遣った。

 魔物を手引きをしたらしき者の影にくらいは手が届きそうではあるが、しかし襲撃の意図がどうにも読めなかった。その狙いがゼラならば構わないのだ。彼が標的であるなら彼自身や皇族に対する何らかの遺恨を晴らそうという輩の行動として話は簡単に終わる。けれど、もしも敵の狙いがリーファであったとしたら?

 リーファが現在アルトナージュにいるのは〝銀の魔王〟こと初代皇帝の聖骸を盗み出そうとしての事だ。その理由の一切をリーファは未だに語らないが、彼女が此処にいるのを知るのは彼女の仲間である聖骸を持って逃げた賊達など極一部の人間だけだろう。無論、リーファが聖ナージュの王女である事は道中ひた隠しにしてきた為、それを聞き知った者などあろう筈が無い。仮令知った者がいたとしても、アルトナージュと彼の国が戦を繰り返し激しく敵対していたのは疾うに歴史書の中に埋もれた、遙か昔の出来事だ。この現代に態々彼女の命を狙う理由など、余りあるようには思えない。

 ヴェインがついと其方を見遣るとリーファは気分が優れないらしく口許を掌で覆っていた。場合によっては仲間と信じている連中から命を狙われているのかも知れない。憶測とはいえそれを考えさせられるのは、この無垢な少女とってはさぞや辛い事だろう。

 大なり小なり国を治める血筋に生まれ付けば、血腥い争いに巻き込まれる恐れは付き纏うものだ。心ならずもそういった争いの渦中に投じられる事を不憫とは思えども、生きている限りそうした不条理は必ず、それこそ王族皇族の血統に拘わらず訪れるものだ。だからヴェインは多少の同情を抱く程度でその思案を終わらせる。

 魔物の襲撃に絡む事象には各々が何かしら思うところがあるようで、暫しの静寂が時と共に流れた。

「まあ、何でもいいんじゃない?僕達の邪魔になるようなら片付ければ済むだけの話だし。――ね?」

 静寂を最初に破ったのはゼラの柔らかな声だった。皆の視線が集まるその一点でゼラは微笑んでいた。しかし、その笑みは普段のものとは明確に異なっている。ゼラの微笑はいつものように艶麗なものではなく、怖気を振るうような凄絶さを帯びた、酷く冷たいものだった。微笑む立ち姿は冥府の渡し守(ディオール)というより、罪を犯した者の死後、その魂に裁きを下すをという冥府の大王(おおきみ)のようだ。

 その笑みにぞっとしたのだろう。リーファがゼラの微笑に気圧されて身を固くする。ゼラは愉しげに笑いながらくるりと踵を返した。

「それじゃ、先ずはアークスに行こう。難しい顔して相談するのはシェリスタと合流してからでいいでしょう?」

「そ、そうですね。了解です」

 吃りつつクロアが同意を示して馬の手綱を引く。強い力でぎゅっと手綱を引っ張られた馬が不満げに鳴いた。

「此処からならもうアークスは目と鼻の先だろ。俺はもう行くからな。あばよ」

 テンドは自分用に纏めた魔狼の肉を剥いだ毛皮に包んで小脇に抱え、ディルカに身軽に飛び乗った。鼻先を魔狼の死骸に埋めてせっせと食事をしていたディルカが口の周りを舌で一舐めし、両の翼を広げる。

「送ってくれて有難う。今度からはちゃんと連絡に出てくれると、ルキを通さなくていいから楽なんだけど?」

「煩ぇな、放っとけ。バーカ」

 最後まで悪態をついて去って行くテンドにゼラが苦笑した。そういう風に素直に感情を露わにするのは珍しいと思ったが、ヴェインは何も言わずテンドが地面に放り出していったディルカの背に括り付けておいた荷を拾い上げ、向こうに見えるアークスの堅牢な城塞へと歩き出した。その後に続こうとしたクロアが、血色悪く立ち尽くすリーファに気付き、具合でも悪いのかと声を掛けて紳士的に愛馬の鞍上に押し上げてやる。

 臙脂の飛竜が飛び立って行った空は綺麗に青く、歩きながらゼラは遠くその彼方を見上げていた。ヴェインも同じように蒼穹を仰ぎ見たが、天を翔る飛竜の姿は最早見当たらず、ただ薄く棚引く千切れ雲だけがその軌跡めいて空に残るばかりだった。

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