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銀の魔王は棺に眠る  作者: 此島
二章
11/32

 少しずつ身体が重くなってゆくのは、出血が止まらない所為だろうか。鎧獅の爪が掠めた額の端から流れ出る血が頬を伝う。一撃を躱し損ねて鋭い爪の線を刻まれた籠手に守られていない上腕からは、漆黒の軍服を更なる深い色へと染めるように血液が溢れて袖をじっとりと濡らしていたが、利き腕でないだけましだと思えた。

 口腔を貫かれて絶命した鎧獅の死骸から、まだ刺さったままの剣を引き抜く。その隙を狙って樹上から飛び掛かって来た一匹を後ろへ跳んで避け、ヴェインは透かさず手の中の長剣の閃かせた。

 鎧のような鱗に覆われていない顔面への一閃は鎧獅の目を真一文字に潰し、鎧獅が激痛に凄まじい叫び声を上げる。可能ならば下手に手負いにはしたくなかったのだが、万全の状態で縦横無尽に辺りを飛び回られるよりは幾らかいい。

 本来山岳に棲まい、切り立った岩壁を自在に駆ける鎧獅にとっては辺りに生えた木々などは平地も同然であるようで、敵は幹を駆け上っては枝上から急降下して襲って来る。一匹程度なら対処の仕様もあるが、三匹纏めて周辺の木々を駆使して動き回られては思いも寄らぬ方向から攻撃を仕掛けられる事になり、その硬い鱗も相俟ってヴェインは予想通りの苦戦を強いられていた。

 背後に感じた殺気に振り向き様、大口を開けてヴェインの肩口に喰らい付こうとしていた鎧獅の鼻面に籠手の甲で裏拳を放つ。決して柔らかくはないものを殴った衝撃で腕の傷から血が吹き出し、危機を訴える警鐘染みた痛みが走った。頭の中が一瞬白く明滅するような灼熱する腕の傷に顔を顰めながらも、ヴェインは目を潰されて滅茶苦茶に暴れ回るもう一匹から逃れて大きく右へ飛び退った。

 即座に剣を構え直してヴェインは視界に納めた二匹の鎧獅を窺う。二匹はそれぞれに顔面を前肢で覆って憎らしげに吠え立てている。

 森にも多くの腐樹がいた事から奴等の親玉である〝姫〟はこの森の中にいるものと思っていたが、どうやらそうではなかったらしい。腐樹の〝姫〟の姿は何処にも無く、何故かこのような場所にいる筈の無い鎧獅が現れた。その事がヴェインにこれが罠や誘いの類であったのだとの確信を抱かせる。

 恐らく宿駅への腐樹の襲撃も、仕組まれたものなのではないか。誰が、どのような企みを持って引き起こした襲撃なのかは謎だが、何らかの理由で棲み処を追われた魔物等が新たな棲み処を探して此処へやって来たという話ではあるまい。だとしたら、腐樹はともかくとして鎧獅が此処にいる説明が付かない。

「…何にせよ、まんまと嵌められたらしい事だけは確かか」

 ヴェインは煩く鳴き交わして二手に分かれた鎧獅の動きを眼で追う。一匹が幹を駆け上がり、地上に残った一匹が視覚を失ったとは思えない正確さでヴェインへと突進して来る。

 頭上の枝を飛び交う気配に注意を払いつつ、真っ向からの突進に合わせてヴェインは剣先を正面に向けた。狙うのは鋭い牙の奥の奥。胴体を頑丈な鱗に保護された鎧獅とて柔らかい口の中ならば剣が通る。転がる死骸となった一匹はそれで何とか倒す事が出来た。

 此方の傷の具合に加え、無傷の鎧獅が残っている事を考えれば、この一撃で手負いの方は仕留めておきたい。ヴェインは必殺の機会を計る。

 ヴェインを頭から丸呑みにしようとでもいう風に鎧獅の顎が大きく開いた。この好機を待っていたヴェインは左足を思い切り踏み込んで長剣を握る右腕を突き出す。

 しかし手負いの鎧獅はヴェインの剣が届く僅かに手前で逆方向へと地を蹴った。間を置かずして別の鎧獅がその巨体で枝葉を揺らし、散った葉を纏って真上から降って来る。ヴェインは突きを空振りして前後に伸び切った姿勢から無理矢理に横に転がった。間一髪事無きを得るが、着地した鎧獅が反転して再びヴェインへ向かって飛び込んで来る。

「く…っ」

 片膝を突いた体勢で長剣を両手で捧げ持つようにし、眼前に迫った鎧獅の顎を防ぐ。刃ごと噛み砕こうとする鎧獅の牙がぎりぎりと刀身を震わせた。切っ先の方を支える左腕が激しい痛みを発したが、ヴェインは躊躇わずに力を込めて鎧獅を押し返す。

 前後に感じる獣の荒い息遣い。眼前の鎧獅の熱い呼気が顔に掛かる。嗅覚で辺りの様子を探ろうとするような後方の呼吸はまだ近くはないが、ヴェインの血の匂いを辿るように着実に此方へ近寄って来ている。

 拮抗してせめぎ合う牙と剣に遠からぬ死を意識して、ヴェインは仄かな笑みを洩らした。全力は尽くしたつもりだ。であれば、此処で鎧獅共に喰い殺されるのも悪くはない。

 ヴェインは元々、己の死に場所を探して軍への入隊を志願したのだから。

 ヴェインの生家はその昔、武門の名家であった。あらぬ疑いを掛けられ、身の証を立てる為に先代当主である彼女の父が自害するまでは、旧臣としてそれなりに名の知られた一族であったのだ。だがその父の死後、ブランクーゲル家は取り潰しこそは免れたものの、皇家に疎まれ遠い土地へと追い遣られ、次第に忘れ去られていった。

 元より皇家に影のように付き従う家柄だったが故に、その存在を疎んじられた以上は亡父を含め先祖の誰も家の再興など望みはしないだろう。だからこそヴェインは仕えるべき皇家に必要とされないブランクーゲル家の最後の一人として、せめてもの武功を挙げ、古くから帝国の歴史の中に刻まれているこの家名を残して死ぬ道を志した。それは己の命以外に何も持たないヴェインに残るただ一つの執着であり、武門の誇りであり、意地でもあった。

 手負いの鎧獅が荒々しく駆け出す気配と足音にヴェインは小さくほくそ笑む。思ったよりも時間が掛かったが、漸く終わる時が来たらしい。

 それでも最期まで鎧獅の牙を押し止めて抗う力は緩めない。死力を尽くして戦った上で訪れる死でなければ無意味だと思うからだ。最期の一瞬まで全力で戦い抜き、破れたのでなければ、それは単なる遠回しな自殺でしかない。ヴェインにとって戦う事を放棄して得た死など、犬死に以下の恥辱の極みとすら感じるものだ。

 牙を止められている鎧獅が忌々しげに喉の奥を唸らす。伸し掛かるこの重みを弾き飛ばすには腕の負傷が響いていた。ヴェインは駆け寄って来る獣の咆哮に耳を澄ませ、魔物が彼女の襟首にその牙を突き立てようと、両眼を失った怒りと苦痛に唾液を撒き散らしながら裂ける寸前まで口を開けるのを背中で聞いた。

 己の命を奪いに来た魔物を、肩越しに振り返る。

「――ギャァッ!」

 だがその鼻先がヴェインに届く直前で鎧獅の身体が視えない壁にぶつかって弾かれた。鎧獅が接触した一点から生じた銀青色の光が、射し込む陽光が鏡や硝子で反射した際の煌めきさながらに輝き、その一時だけ森の薄明かりを仄か白銀に塗り変える。

 ―――ゼラの物理障壁だ。悟ると同時にヴェインは仲間の悲鳴で彼女から気の逸れた鎧獅の喉元へ蹴りを入れて怯ませ、そのまま後転して距離を取った。

 障壁に顔面から全速力で突っ込み、鎧獅は鞠のように跳ね返って吹っ飛んで、痛みに暴れてのたうち回っている。次に足下の小枝を踏み割る音がした方を見れば、やはりゼラが立っていた。笑みを形作るその口許が開かれ、早くも次の詠唱が始まった。

 ゼラの指先から生じた銀の魔力光が宙に複雑な図形を描き出す。窮地を脱してしまったヴェインは死を得る絶好の機会を失った事を本気で残念に思いながらも、自身の流儀に従って手負いの鎧獅に止めを刺すべく走った。

 両手で握った剣を、渾身の力を込めて鎧獅の口の中に突き立てる。ヴェインが手負いの方を屠るのとほぼ同時に歌うように紡ぎ上げられる韻律が終わり、十数本もの光矢が標的へと正に光の速さで放たれた。鋼鉄の刃でさえ容易く防ぐ厄介な鱗もゼラの魔術の前には無力であり、幹を跳び渡っていた鎧獅はあっさりと光矢に撃たれて地に墜ち、事切れた。

 辺りに他に動くモノがいなくなり、ヴェインは溜め息混じりに呟いた。

「…また、お前の所為で死に損なったな」

「そうだね。ごめんなさい?」

 剣を納めるヴェインの許へ来たゼラは口にした謝罪の言葉とは裏腹に、謝る気持ちなど全く無さそうに微笑んだ。そうして、手際良く魔術でヴェインの負った傷を癒してゆく。

 幻であったかのように消え去った痛みが、待ち望んだ死の瞬間がまたもや遠ざかってしまった事をヴェインに実感させる。これでまた、生き長らえてしまった。ヴェインの胸裡には安堵の感情などは少しも無く、あるのは望まずして死線を越えた事による虚無感だけだ。

 ヴェインの想いを知ってか知らずか――否、間違い無く察しているだろうゼラは土に塗れて所々に鉤裂きを作った彼女の外套を拾い上げ、つと顔を他方に向けた。

「…ふうん。狙いは向こうか」

 どうせ遠見の魔術で宿駅の方の様子を見ているのだろう。ヴェインの危機もそれで知ったに違いない。大人しく結界の維持だけに集中していればいいものを。お陰で此方は死にそびれたのだ。ゼラのこうした如才の無さには毎度毎度辟易させられる。

 余所見をしながら差し出された外套を受け取り、ヴェインは言った。

「宿の方はどうなっている?」

「芳しくはないみたいかな。早く戻った方がいいかもね」

 ふん、と鼻を鳴らして破れて汚れた外套を羽織るとヴェインは宿へと小道を駆け出した。ゼラは放っておいても付いて来るだろう。

 続く木立を抜け、森の外へ。木々に囲まれていた視界がぱっと開け、石の箱めいた宿駅の建物が街道の反対側に建っているのが目に入る。微かに漂う甘い香りは腐樹が焼けた匂いだ。

「…!」

 周囲に視線を遣るまでもなく、其処には腐樹の〝姫〟がいた。悍ましい動きで伸ばされる〝姫〟の腕の先でリーファが少年を守るように抱き抱えて座り込んでいるのを認め、ヴェインは長靴に隠してあった短刀を抜き様に投げ付ける。

 投擲した短刀は狙い過たず〝姫〟の腕を切り落とした。直後、〝姫〟の立つ真下に出現した魔法陣が火柱を発生させて〝姫〟をその火勢の内に呑み込んだ。すぐ側に炎の熱気を感じたリーファが顔を上げ、驚いたように火柱を見つめる。

 一段と濃く甘ったるい匂いが立ち上るが、それは棚引く煙と化して吹く風に流されてゆく。まるで菓子でも焼いたかのような香りが過ぎ去った後、火柱は空中の一点に収束し、揺らめくように掻き消えた。

「…あ……」

 リーファの瞳が緩慢に動いて、小道の入口に佇むヴェイン等に向いた。ヴェインが其方へ近寄ると、リーファは助かったのが現実かどうかを確かめるように何度も瞬きをした。少年を抱えていた彼女の腕からふっと力が抜ける。その腕も肩もがたがたと震えていたが、気丈にもリーファは駆け寄って来た駅員へと泣き出した少年を預け、少年にもう大丈夫と微笑んでみせた。

 少年が駅員に抱き上げられて建物に戻って行くのを見送ってから、リーファは忍ぶようにヴェインを見上げてきた。しかし目が合うと彼女は急いで別の方向を向いてしまう。けれどもその実ヴェインとその傍らに立ったゼラの顔色を気にしているようで、顔の角度をそっと、ヴェイン等の姿が視界に入るぎりぎりくらいに傾けている。

「もしかして、言い付け破った事、気にしてる?」

 軽く上体を屈めてゼラがリーファに話し掛ける。リーファは俯いて何も言わず、自分の片腕を握り締めていた。

 どうやらリーファはゼラに建物の外へ出るなと忠告されていたのにも拘わらずそれに従わなかった事を気にしているらしい。先日の逃亡未遂から宿駅に到着するまでの間の彼女の様子を鑑みれば、また言い付けを破った結果窮地に陥り、挙げ句助けられた事が徹えているのかも知れない。

 叱責を恐れる幼子のようにヴェインとゼラを窺うリーファに呆れて、ヴェインは冷たく口を開いた。

「後悔するなら何故言い付けを破る?」

 冷然としたヴェインの言葉にリーファはびくりと肩を竦ませた。その仕草に自身の真意が伝わっていない事が察せられたが、ヴェインは敢えて言い直す事はしなかった。

「……あ…ぅ…」

 まるで叱られた子犬みたくリーファが項垂れる。一拍置いて心底愉しげなゼラの笑声が響く。

 笑われて、リーファが眼だけでゼラに噛み付いた。落ち込んだ表情から打って変わって屈辱にわなわなと口許を歪めている。一方ゼラは堪え切れない笑いを零しつつ、リーファへ違う違うと手をひらひらさせた。

「ヴェインは怒っている訳じゃないよ。ちょっと口下手なだけ。ね?」

「悪かったな」

 リーファが眉間に皺が寄ったままの顔で訝しげに頭を傾げた。ゼラが笑いを収めて続ける。

「それが自分で考えた末に決断した行動なら、どうして後悔する必要があるの?…って言ってるんだよ、ヴェインは。付け加えるなら、馬が死んだ一件についてもヴェインは貴女を責めていないし。他人を責める前にまず自分から、が信条だもんね?」

「信条云々はともかく、あれは単純に私の失態だ」

 この内気そうな姫君に単身逃げ出すだけの胆力があると想定出来ず、リーファと馬だけを置いて近くを離れてしまった。あの逃亡は紛れも無くヴェインの油断が招いた事態である。自身の不始末を恥じこそすれ、己の目的の為に上手く逃げ出したリーファを責める筋合いは無いだろう。

「まあ、貴女は今回も此方の言い付けを破った訳だけど…お陰で子供が一人助かった訳でしょう?それとも、あの子を助けた事も後悔してるの?」

 リーファはぶんぶんと眩暈でも起こしそうな勢いで首を横に振った。

「だったら、貴女がしょげる必要は無いでしょう?」

 言ってゼラはにこりと笑い、この上無く優雅に宮廷式の礼をした。彼が礼を向けた相手は無論リーファである。

「此の度は我が国の民をお救い頂きましたようで大変有難く存じます。皇帝フェルキースに代わり、このイルゼリット、心より御礼申し上げます。リーファ王女殿下」

 格式張った挨拶が板に付いているところは流石というべきか。ヴェインは素晴らしい会釈の角度から優美に頭を上げるゼラを見て、寧ろその仰々しさに感動した。

 リーファはゼラの動きの優雅さに見惚れたようにぼうっとしていたが、やがてはっとした風にあたふたと立ち上がり、ぴょこりとお辞儀を返した。返答を返そうとしたようだが何を言ったらいいのか言葉が出て来ないらしく、彼女は口をぱくぱくとさせてはヴェインとゼラを見比べた。

「あ…えっと」

 口籠もり、落ち着かなげに視線を泳がせてから、リーファは大きく頷き、そして――笑った。

 はにかむように、少しだけ戸惑いがちに浮かべられたその笑みは、リーファが初めて見せた恐怖や敵意以外の本心からの感情だった。

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