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胸が苦しいのは、走り続けて息が上がっている所為だけではないだろう。目まぐるしく脈打つ心臓の鼓動が、煩いくらいに頭の中に響く。
見上げれば、泣きたくなるくらい綺麗な月が浮かんでいた。少しも欠けたところの無い月は素知らぬ顔で穏やかに光り輝いている。
不意に込み上げてきたこの涙が悲しみから零れそうになるものなのか、あるいは憤りの余りに溢れるものなのか。もう、よく判らなかった。
追っ手から逃れて身を隠した、牆壁とその際に並立する樹木の隙間の陰。泣きべそをかく幼い弟を小声で宥める。
「大丈夫。大丈夫だから」
「…っく、…う…えぇ……」
懸命に泣くのを堪えようとする弟の頬を一粒の雫が伝って落ちた。袖口で涙を拭いてやると弟はその小さな身体を震わせて、ぎゅっと強くしがみ付いて来る。
弟はつい先日、六歳になったばかり。本当は怖くて怖くて堪らない筈だ。それでも決して大声で泣き喚く事をしないのは、幼心に今の状況を弁えているからだろう。聡い子だと感心する反面、そんな無理をこの子に強いている事が申し訳無く、辛い。
「…大丈夫だから。ね?」
弟の頭を撫でて、そっと囁く。まるで自分自身に対して言い聞かせているような気分になった。大丈夫な訳が無いのは、痛い程理解しているのだ。
夜気を纏った冷たい風が吹き抜ける。冬を迎える前の、少しずつきりりと澄んでいく静かな空気の流れ。その中に追っ手達の猛るような足音と荒々しい気配を感じ取って、氷の手で襟首を捕まえられたような心持ちがした。
弟を抱き締め、身を縮こめる。目を開けたまま聴覚に意識を集中させると、叫び交わす兵達の声が耳に届いた。
「いたか!?」
「いや、だが所詮は子供の足だ。恐らくまだ近くにいる筈だ」
声のした辺りとこの場所との間には幾分の距離がある。しかしこのまま此処にいては見付かるのは時間の問題だ。
追っ手の気配に怯えて息を呑んだ弟の背を優しく擦る。その時に自分の手が微かに震えているのに気付き、一度きつく拳を握ってどうにか恐怖を押し殺した。
それは、突然の出来事だった。
身に覚えの無い罪を突き付けられ、逆賊と呼ばれて生まれ育った城を追われた。そんな自分達を保護してくれた外戚の祖父母の屋敷は、逆賊を擁護したという罪状でつい先刻焼き討ちに遭った。祖父母の決死の尽力で兵に取り囲まれた燃え落ちる屋敷から弟と二人辛くも逃げ出す事が出来たものの、何処をどう走って来たのかも覚えていない。追っ手の眼を攪乱する為に囮となって残ってくれた祖父母は無事であるのだろうか。相手の苛烈な出方を思えば楽観視など出来よう筈も無いが、せめてその無事を祈った。
行く当てなどもうこの世の何処にも無かったが、それでも逃げなければならない。身を挺してまで自分達を庇ってくれた祖父母の想いに報いる為にも。そして何より、己の命に代えても守りたい大切な存在がまだ生きて、此処にいる事。それだけが今の自分を支えていた。
追っ手の荒々しい怒鳴り声に怯える弟を守るように抱き抱える。この温もりが無慈悲に、そして永遠に奪われるなど、考えただけでも到底許せる事ではなかった。だって、この子には真実何の罪も無いのだから。
けれども、一体何処へ行けば助かる事が出来るのだろうか。問い掛けるように夜天を仰ぎ、視線がつと、聳える塀の内側へと伸びる太い枝の先を辿った。
枝は如何にも頑丈そうで、茂る葉は秋も終わりだというのに常緑の色を保っている。天啓のように牆壁の向こうを指し示す枝先に、意を決して立ち上がる。
辺りにまだ追っ手の姿が無いのを確認し、弟を手近の丈夫そうな枝の上に押し上げる。少し前までは軽々と抱き上げられたのに、随分と重くなったものだ。これからどんどん大きくなってゆくのだろう。父も母も早くに亡くなり、この子の成長を見守る事はほとんど出来なかったが、知ればきっと喜んでくれると思う。
弟にしっかりと枝に掴まっているよう言って、自らも木を登る。張り出した枝から牆壁の上へと飛び移り、弟へと手を差し伸べた。彼は跨がった枝に抱き付いたまま涙目で首を振った。高所で手を離すのが怖いらしく、嫌々をするみたいに頭を左右に振り動かし続ける。
「おいで。手を繋ごう?大丈夫、絶対に離さないから。ね、信じて」
微笑んで瞳を覗き込むと、か細い吐息が返ってきた。暫しの間の後、恐る恐る小さな手が差し出された。包み込むようにその手を取ると、弟は力強く手を握り返してくれる。
「しっかり掴まっていて」
引き寄せた弟を落とさないよう抱え込むように抱き、牆壁の内側へ踊り込む。足された重量の事を考えず、うっかり我が身一つの場合と同じ感覚で跳んだ為に着地に失敗し、下にあった灌木の茂みに倒れ込んでしまった。軽い打ち身や擦り傷を負った事を思わせる痛みを其処彼処に感じたが、弟に怪我が無いかどうかと、多少の物音を立ててしまった事の方が気に掛かった。
辺りには噎せ返るような香気が漂っている。少しだけ頭を動かすと、一斉に咲き乱れる花々が視界を覆った。
紫丁香花が薄紫の花筒を揺らし、風に香りを含ませる。その傍らで立葵が林立して風に枝葉を遊ばせる隣の木に負けじと背を伸ばしている。広がる水仙の白と黄色の絨毯を抜けた先には様々な色の薔薇が花垣となって艶を競っていた。
多種多様な植物が本来咲くべき季節など無関係に、今を盛りと見渡す限りに花を咲かせている。
落ちた所は小手毬の茂みだった。可愛らしい小さな白花達に埋もれた我が身を起こす事も忘れて、思わず幻想的な花々の競演に見入る。
――そうか。此処は、立ち入り禁止のあの場所だ。
無数の花で覆い尽くされた庭園はさながら夢の中の風景のようで、眼前に立ちはだかる厳しい現実さえも束の間忘れさせるようだった。
知らずの内にぼんやりしていると、ぐい、と袖を引かれて我に返る。
弟が、放心したように庭園を眺める自分を心配げに見つめていた。自分と同じ色をした真ん丸な瞳が不安の色を映して潤み、揺れている。
泣き出す寸前のようなその顔に触れ、緩慢に笑みを返す。上手く笑えているだろうか。答えは、弟のきつく引き結ばれた口許が語っているような気がするけれども。
何故、こんな事になってしまったのだろうか。幾百と自身に問えども答えは出ない。
何故、こんな仕打ちを受けるのか。幾千と訊ねても、きっと同じ答えしか返らない。
不遜にもお前が玉座を欲するから悪いのだ、と。従兄姉達は口を揃えてそう言った。
しかしそれは誤解である。この世のありとあらゆる神に誓って、自分は玉座などという大それたものを望んだ覚えは一度だって無いのだ。だがどれだけそう訴えても、決して信じてはもらえなかった。
二ヶ月前に伯父が崩御して、玉座を望めと勧める声が周囲から上がるようになった事は認める。だがそれは、その方が己の益になると踏んだ者達の口から飛び出た浅ましい妄言だ。此方には彼等に対して耳を貸す気など毛頭無かった。両親亡き後、伯父は自分達を実子同然に可愛がってくれた。その恩に報いる為にも伯父の嫡子である従兄に精一杯仕えていこうと、伯父の存命時から既に固く心に誓っていたのだ。
けれど従兄姉等は、伯父が亡くなると直ぐ様此方に簒奪の意思があるのではないかとの疑いを持った。真摯に尽くしたつもりの弁解は従兄姉達の心には微塵も響かず、「恩知らず」、「思い上がりも甚だしい」と口々に罵られ、ついにはこうして武力を以て命を狙われる事態にまで行き着いてしまった。
絶望が胸に穿った穴に吹き込むように風が酷薄と強くなる。風に流され散る花弁に交じって、夜の闇にあってもなお煌めくこの髪色が躍った。
純然たる血筋の証。同じ血脈に連なる者にさえ、滅多に現れる事の無いという生まれ持った祝福とされるこの色は、最早単なる呪いでしかなかった。
知っていた。己がこの色を有するが故に迫害の現在に至るのだと。王者の証と称されるこの色を、従兄姉達は皆、それぞれ極僅かにしか持っていない。それ故の焦りと苛立ち、妬みが彼等のあの敵意の根本になっている事を。
自分だって、こんな色、好きで生まれ持った訳ではないのに――。
悔しさに似た想いが沸き上がり、目に熱いものが滲んだ。絶対に泣くまいと決めたのは、自分が泣けば幼い弟が不安に思うからだ。だから、視界を歪ませた涙は気付かれる前に振り払った。
呼吸深く息をついて、渦巻く感情を奥底に沈める。代わりに浮かび上がるのは、これまでに幾度となく心の中で重ねた問い。
――どうすれば、弟を守る事が出来る?
この命を差し出して許しを乞う事が可能ならば、すぐにだってそうしよう。しかし誠心誠意頼み込んだところで従兄姉達はこの子一人の助命すら聞き入れてはくれまい。城を追われる前、最後に顔を合わせて話をした際にそう察せざるを得なかった。彼方にとって自分達はどちらも等しく目障りな邪魔者でしかなかったらしい。
理不尽だと憤る気持ちはあった。ただひたすらにこの不運を嘆き悲しむ想いだって無くはない。だがそれ以上に心を染め上げたのは「どうして?」というこの不条理に対する、何もかもを塗り潰す暗黒のような絶望感だった。
風に乗って、花の香が荒ぶ。息が出来なくなる。
どうしたいいのかが判らなくて、叫び、泣き出したくなる。
月が雲間に隠れ、夜闇が明度を下げる。夜の淵に放り出されてすっかり冷え切ってしまった弟の手が縋るようにこの掌を握り締めてきた。正気を留めてくれる最後の綱の愛おしさは、そのままこの腕に抱え込んだものの大きさ、重さにも差し変わる。
背後の牆壁の裏手で足音が聞こえ、どきりと心臓が跳ね上がった。幸い足音の主は足を止める事無く立ち去ってくれたが、果たしていつまで遣り過ごせるだろうか。たった二人きりでいつまでも逃げおおせる訳が無い。
捕まれば、まず間違い無く殺されるだろう。自分も、弟も。
どうして。どうして。何故、こんな目に遭わなければならないのか。彼等は自分達が何をしたと言うのだろうか。此方にどのような落ち度があって、命を以て贖えというのだ。こんな頑是無い幼子にまで死を要求するとは、如何程の罪があっての事か。
行き場の無い問い掛けが頭を回り続ける。足下から這い上がるような怒りが、悲しみが、絶望が、全てを塗り潰してゆくかのようだった。
「――……っ!?」
近くで何か声が聞こえた気がして、弾かれたように顔を上げる。付近に他に誰かいるのかと注意深く辺りを見渡すが、人の姿は影すらも見当たらない。
庭園の奥の方に見えている此処を管理する者の住む邸は、少し前から無人になっていた。周囲をぐるりと牆壁に囲まれたこの場所の門は普段から堅く閉ざされていて、特別の行事でも無い限りは身分を問わず人の立ち入りは禁じられている。
自分達のように中へ忍び込んだ者がいるのだろうか。まさか、追っ手が勘付いて中を改めに来たのでは。そう考えると気が気でなかった。
だがその懸念は即座に打ち消された。先程と同じ声が、また聞こえたのだ。風の音よりも幽かな囁きは不思議にも鼓膜に触れる事無く、心の中に直接語り掛けてきているもののようだった。
「…あ……」
思い出した。何故この場所が、立ち入り禁止なのかを。まだ幼かった自分に、いつになく神妙な顔をした父が内緒話のように密やかに教えてくれた事柄を。
此処には、それはそれは恐ろしい魔物が封じられているのだ。だから仮令門が開いていたとしても、勝手に入り込んではいけないよ。とても真面目な顔と声で、父はそう言っていた。
囁きは単調で、短い言葉だけを繰り返していた。ぞっとして身動ぎすると、弟が首を傾げて此方を見た。訝る様子にこの子には聞こえていないのだと悟り、安堵と怖気を同時に覚えた。
呼ばれている。確信した。手招くような囁きが、此方へ来いと呼んでいる。迷ったが、一歩、声の呼ぶ方へと足を踏み出した。
少なくとも〝声〟の発する気配にはあの追っ手達のような敵意は感じられなかった。自分を呼ぶ意図は不明だが、何らかの罠かも知れないという疑念よりも其方へと引き寄せられる感覚の方が大きかった。
花園を横切り、赤い煉瓦が敷き詰められた庭園の歩道へと出る。ふらりと歩き出した後ろを弟が転ぶように付いて来るが、歩幅を合わせてやる事も忘れて呼ばれるままに足を運んだ。
自分はこの花園に眠る魔物に魅入られてしまったのだろうか。だとしたら、どうしよう。そう考えて、口の端から小さく笑いが洩れた。
どうしようか、なんて今更だろう。もう、どうしようもないのだから。
―――ああ、でも。
もしも魔物が自分を喰らうつもりで呼んでいるのだとしたら、その代わりに弟の事だけは助けてくれないだろうか。出来る事なら、その魔の手からだけではなくあらゆる災いから。その為ならば自分は何だってするし、どうなってもいい。
〝声〟が呼ぶ。無音の囁きに誘われ、自ら足を運ぶ。呼び掛けに応じるのは自棄や諦念からではなかった。
どうか、と願う。切に。細い細い糸に縋り付くように。
この決断が正しいのかどうかも、今は考えられなかった。ただ暗く凝った祈り染みたものだけが、凍え切ったこの身を突き動かしていた。