私と彼と空腹と。
なあ、飯。
最近彼はそうやって私を呼びつける。朝は隣で寝ている私を起こして朝食を作らせ夜は私の家に来るなり夕飯の催促をするのだ。
わたし、あなたの家政婦になったつもりはないのだけど。
心の中で悪態をつきわざとらしい溜息を吐きながら彼の食事を作るのが日課となっている。今日は仕事があるらしく、日が昇る前に叩き起された。昨日は誰かさんのせいで寝不足なのよねと嫌味を言い、首元の赤い鬱血痕をなぞりながらトーストを焼きコーヒーを淹れる。そんな事はつゆ知らず、彼は私の手料理を何も言わず完食して仕事に行ってしまう。私は残された食器を片付けながら昨夜の彼との情事を思い出して1人でほくそ笑む。無口で無愛想な彼に頻繁な愛情表現を求める事はとうの昔に諦めたけれど、身体を重ねる時だけは彼からの愛を強く感じることができる。だから私はこの生活が不思議と嫌いではなかった。友人にまるで母親みたいねとからかわれても私にとってこの生活こそが唯一の幸せなのだ。
いつも腹を空かせている彼を満たすことができるのはきっと私だけだから。
口には出さないけれど、そんな事を思いながら日の傾いた頃に彼の好物の卵焼きを作る。少し多めに砂糖を入れた甘い卵焼き。私はあまり好きではないけれど何度も練習を重ねてようやく焦がさないで作れるようになった。まともに料理もしなかった私が初めて上手に作れたのは卵焼きだったっけ。そんな感傷に浸りながら次々に品数を増やしていく。
もうすぐ彼が来る時間だ。
食卓は彼の好物が所狭しと並んでいる。いつもは最近太り気味な彼を案じて健康的な食事を作っているけれど今日くらいは許してあげよう。そういえば冷蔵庫に貰い物のワインもあったからそれも開けてしまおう...なんたって今日は記念日なのだから。
彼から貰った紅いワンピースに身を包み色とりどりな食卓を眺めながら彼はなんて言うだろうと想像して一人微笑む。
そう考えながら彼を待ち続けどれくらい経っただろうか。既に時計は9時をまわっていた。約束の時間から3時間は少なくとも経っている。
今日は僕達が出会った記念日だから早く帰るよと珍しく微笑んだ彼の姿が脳裏に浮かんで視界がぼやけてくる。
彼は今頃、家族と団欒の時を過ごしているのだろうか。彼によく似た二人の子供とあのショートヘアの感じの良い妻と食卓を囲み私のことなど忘れて笑い合う様子が容易に想像できる。
彼が私の家に来るときはいつも日を跨いだ時間であったし左手の薬指には何かの跡がついていて、ポケットからファミリー向けのテーマパークの半券が見えていたりしたけれど薄々感じていたそれらの違和感に蓋をして、食事を用意して笑顔でお帰りなさいと言う日々が幸せだった。彼を満足させられるのは私だけで、彼にとっても私が唯一の存在だと信じていた。だからこれは私の勘違いだと信じて心のどこかにいつもあった拭い去れない「疑惑」から目を背け続けていた。
でも、私の信じ続けていた平穏で幸せな日常は「疑惑」が「確信」に変わったあの日を境に崩れ去ってしまった。
その日は雲ひとつない晴天で私はいつものように行きつけのスーパーへ買い出しに出かけていた。彼が来る日の前日であったから、多めに食料を買って何を作ろうか考えを巡らせながら帰路につく。そこまではいつもと変わらない日常の一部だった。ただ、あの一瞬、未だに鮮明に覚えているあの光景。公園でいかにも清楚そうな雰囲気でショートヘアの女性と彼によく似た二人の子供と過ごす彼の姿を目にしたとき、心のどこかで信じていたものが崩れ去る音がした。蓋をした違和感と一緒に隠していた醜い感情が一気に溢れ出し買い物袋からはみ出して割れた卵とともにアスファルトに吸い込まれていく。それと共に満たされていた心が空っぽになっていくのを感じた。涙なんてものは出なかった。ひたすら乾き切った瞳で私の知らない幸せに満ち溢れた顔で笑う彼を見ることしかできなかった。結局、私は彼の空腹感と一時の性欲しか満たすことができなかったのだ。でも、それでも彼を諦めることができなかったのは私が愛というものに飢えていたからなのかもしれない。彼の空腹と性欲を満たす代わりに私は彼に心を満たしてもらおうとしていたのだとその時初めて気がついた。だから私は彼を待ち続けることしかできない。そう、思っていた。
でも、その後はいくら彼と体を重ねても、愛の言葉を囁いても私の心が満たされる事はなかった。残ったのは心に穴が開いたような虚無感と強烈な飢えだった。彼が私を愛していない事に気づいてからも私はひたすらに彼に執着し続けた。家族を捨て、私を愛してくれるかもしれないという一縷の希望にかけていた。私のからっぽの心を埋めてくれる唯一の相手を失いたくなかった。だから私は彼のために躍起になって料理を作り彼をつなぎとめようとしていたのかもしれない。私は今、幸せなのだと自分に言い聞かせて偽りの生活を送っていた。
心が具現化できるのならきっと私の心は餓鬼の様に痩せ細っている事だろうと嘲笑する。心は不思議と穏やかだった。いつかこの日が来ることを無意識に覚悟していたのだろうか。
時計の針は0時を指している。カーテンの隙間から月明かりが漏れて部屋を仄かに明るく照らした。思考する事に耐えかねた身体が悲鳴をあげる。
そういえば朝から何も食べていなかったんだった。
私は何かに取り憑かれたようにフラフラと台所の前に立ち、とっくに冷めきった卵焼きにフォークを突き刺し口に運ぶ。
やっぱり卵焼きは甘くない方が美味しい。
そして私は残りを全て捨てた。