ある意味戦場の心得
その後、読書などして過ごせばいつの間にか夕刻。
夕食の時間にはまた一家が勢揃いしての晩餐となったのだが、その頃には既にお茶会のお誘いがあったことは公爵夫妻の耳にも入っていた。
「アイリス、わかっていますね? タンデラム公爵家の人間に、敵前逃亡は許されません」
「はっきりと敵っておっしゃるのは流石に障りがありませんか、お母様!」
などと母娘の温かい会話などもあったりしつつ、完全に出席する方向で固められ、最早参加する他ない。
もちろんアイリスとて逃げるつもりはなかったのだが、さらに緊張感が増してしまったようにも思う。
湯浴みの時間になっても、妙に気負ってしまい顔の険が取れないでいた。
「アイリスお嬢様、そんな顔してたら疲れも取れませんよ?」
「う……わかってはいるのですけど……負けられないと思うとどうにも」
昨夜と同じく丁寧に身体を洗ってくれているリタへと、申し訳なさそうに返す。
お湯加減、その香り、洗ってくれる手つき、いずれも申し分ないもの。
それらをきちんと堪能できていないのも勿体ないが、かといって簡単に気持ちを切り替えられる程器用でもない。
いっそ、こんな悩みも石鹸の泡とともに流せてしまえばいいのに、などと柄にもないことを思っていると、小さくリタが笑うのが聞こえた。
「なんだ、お嬢様もわかってらっしゃるじゃないですか。負けなきゃいいんですよ」
「はい? いえ、リタ、あなた簡単に言うけれど、それが難しいから困っているのですよ?」
あっさりと言うリタの言葉に、アイリスは背後に立つリタを見上げながら不思議そうに小首を傾げた。
……そんなアイリスの仕草を見たのか、ちょっと離れたところで動揺する気配があったが、リタは気付かない振りをしてあげつつ、アイリスに笑いかける。
「いやぁ、実際ね、すっごく簡単な方法があるんですよ」
ニンマリとした笑みを見せながら、得意げにリタは語り始める。
その内容を聞いていたアイリスは、最初は驚き、段々呆れた顔になっていったのだが。
しかし、対案として出せるようなアイディアも出せず、不承不承、リタの提案に頷いたのだった。
数日後。
それまでにリタの特訓……と彼女が主張する何かを乗り越えたアイリスは、お茶会の会場であるビシュラム伯爵邸へと馬車で訪れていた。
無論、アイリスのおつきであるリタも同行させて。……むしろ彼女が嬉々として着いてきたのだが。
「タンデラム公爵家のアイリス様でございますね、ようこそお越しくださいました!」
馬車に着いている紋章を見た門衛は、敬礼をした後に馬車を中へと導いていく。
主、というかご息女の気持ちはどうあれ、門衛は己の為すべき事を恙なく実行しているのを見て、リタは内心で感心していた。
主の気持ちを汲みすぎて、あるいは笠に着て、相手に居丈高な態度を取る勘違いした使用人は、決して少なくはない。
だが、ここビシュラム伯爵邸の、少なくとも門衛は、そんな勘違いをしていないようだ。
そもそも、宰相として辣腕を振るうタンデラム公爵家に敵対しようと思うものなど、そうそういるわけもない。
何やら企んでいたらしいとある伯爵が謎の死を遂げたこともあったが、精々そんな程度だ。
となると、マルガレーテ嬢の『おいた』が看過されているのは……恐らくフローラの教育方針によるものなのだろう、とリタは当たりを付けている。
「この分なら、あたしが言った通りの対処でなんとかなりそうですねぇ」
正門を通り馬車の待機所へと向かう間、リタがアイリスへと話しかける。
それを聞いたアイリスは、少し怪訝そうに小首を傾げた。
「そうなんですの? 私にはよくわかりませんが……」
若干不安そうに、そう返すアイリス。
借りてきた猫のように不安げで大人しい様子は、ある意味でとても令嬢らしい様子だ。
もっとも、そうでないアイリスを見慣れているリタからすれば、それは。
「まあ、その辺りは、多分あたしの方が慣れてると思うんで、信じてくださいな」
「それは、もうここまで来たらあなたを信じるしかないのですが」
殊勝なアイリスの言葉に、リタは思わずパチクリと瞬きをしてしまった。
「あらま。お嬢様がそんなことおっしゃるだなんて、よっぽど不安なんですねぇ」
「だから、何度も言ってるじゃありませんの!
……でも、あなたの言うことには一理ありましたから」
そう言いながらリタを睨み付けるアイリスの視線に、いつもの力は無い。
打ち合わせや練習もそれなりにやったが、それでもやはり不安は不安なのだろう。
それでも。こうしてお茶会に臨む支えとして、自分がいる。
そのことは、リタ自身でも意外な程に、嬉しいものがあった。
「一理でも認めていただけたなら幸いです。
まあ大体ね、ご令嬢のイビリだなんだなんて所詮感情的で刹那的なものなんです。
きちんと戦術を持って当たれば、戦略目的は達成できますって」
「なんだか物騒な表現しますわね!? もうちょっと穏当な表現はなかったんですの!?」
「でもほら、奥様だって敵前逃亡とか戦に例えてらっしゃいましたし、社交の場は令嬢の戦場みたいなものかと」
「……あまり否定できないのが悔しいところですわね……」
例えば、アイリスの母であるフローラは、社交の場を活用して商会の販路を広げているが、その際、商売敵の貴族やその婦人などをバッタバッタと斬り倒していった、などという話も聞いている。
流石にそこまではできないにしても、せめて突っかかってきた相手から自衛する程度のことはできるようになりたいところだ。
「このお茶会も社交の場ではありますけど、パーティなんかに比べたら人数も少ないですし、何より同年代のお嬢様方しかいらっしゃいません。
何考えてるかわからない大人達を相手にするより、よっぽど楽な、練習みたいなもんですって」
「リタ、あなた一体どこまで相手取って喧嘩を売るつもりですの……?」
歯に衣着せぬ物言いに、柄にも無く心配などしてしまう。
いや、彼女が他でそんな物言いをするとも思わないが、それでも。
などとアイリスが気を揉んでいると、当のリタはニンマリと笑って見せた。
「あはは、大丈夫ですって。あたしが正面から喧嘩を売るのはお嬢様に対してだけですし」
「そう、それなら……いえ、良くないですわよね!?」
一瞬納得しかけたところで、慌てて言い直し、食ってかかる。
ギャイギャイとかみつくアイリスと、笑って流すリタ。
そんなやり取りをしているうちに、馬車止まりへと着いたらしい。
到着を告げる御者の声に、アイリスは悔しげにリタを睨み、それから一呼吸。
表情を作り直して、もう一つ深呼吸。
アイリスの心の準備ができたと見ればリタが馬車の扉を開き、先に降りる。
さりげなく周囲に視線を巡らせた後、降りる介助のために手を差し伸べてアイリスの手を取った。
手を取られたアイリスは、しずしずと馬車から降りていく。その仕草は、令嬢として恥ずかしくないものではある。
表情も、道中のそれと比べれば、幾分ましだ。
「さ、参りましょう、お嬢様」
「ええ、わかりました」
頷いたアイリスは、リタを従える形で、ビシュラム伯爵邸のエントランスへと向かった。




