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公爵家の影

 その後、休憩して少し落ち着いたアイリスにハーブティーを飲ませ水分補給をさせ。

 そのせいか出てきた少量の汗を拭きとり、もう一度髪を乾かすと、寝間着へと着替えさせていく。

 暑くなってきた初夏のこの時期、寝間着は絹ではなく麻のもの。

 麻と言っても、丁寧にった細い繊維によって織られているそれは、硬さの感じられないサラサラとした肌触りが心地よい。

 それに身を包まれて眠れば、さぞかし良い寝心地だろうと思われた。


 ナイトキャップをかぶせ、すっかり寝る準備を整えたアイリスを布団に寝かせると、その傍に立ち恭しく頭を下げる。


「それではお嬢様、明日は朝の七つに起こしにまいりますね。

 これにて失礼いたします、どうぞごゆっくり、おやすみくださいませ」

「ええ、おやすみなさい……。

 明日こそ、覚えてらっしゃい……」


 そんな負け惜しみの声を発して、すぐにアイリスは眠りに落ちた。

 一度寝てしまえば、年相応のあどけない寝顔を見せて。

 それを見て、くすりと満足げに微笑むと、音を立てないように……足音一つ立てずに部屋を退出する。


 油をしっかりとさされた扉は、丁寧に閉めれば音も無く。かちり、外から鍵をかける。

 閉まった扉へと向けてもう一度頭を下げると、やりきった感満載の笑顔を見せて。

 くるり、与えられた自室へと向かって踵を返した。


 コツ、コツ、と小さな足音を、わざと立てながら廊下を歩く。

 一部の使用人を除いて寝静まり始めている屋敷の中、音を立てないようにと思えば、それこそ先程のように足音を立てずに歩くこともできるが。

 さすがにそれを廊下でやってしまえば、うっかり人と遭遇でもしたら面倒なことになる。

 ということで自重して、普通に抑えた足音をさせながら廊下を歩いていた。


 ……正直なところ、一日が終わって充実していた。

 楽しかった、とすら言ってもいい。


 色々言いたいことはあるけれど、懐深く受け入れてくれた公爵とその家族。

 何だかんだと的確に動き仕事のできる、ロバートを筆頭とする使用人達。

 職場環境としては決して悪くない、むしろ良好であるとすら言える。


 何よりも。


「いやはや最初はどうなるかと思ったけど、なんだかんだお嬢様も可愛いしねぇ。

 磨けば光る原石を磨かせてもらってる気分だし。

 このままじっくりお育てして差し上げたいねぇ」


 そう、小さく呟く。

 お転婆で跳ねっ返りであろうとも、アイリスは紛れもなくとびきりの美少女で、恐らくとびきりの美女になるであろう逸材。

 それは今日一日で良く分かったし、今日のケアの効果が出始めるであろう明日、その成果を確かめられるのが楽しみですらあった。

 ほくほくとした笑顔で曲がり角を曲がり、使用人たちの部屋のある方へと少し歩いて。


「っていうのが本心なんで、いい加減見張るのやめてくんない?」


 立ち止まり、視線は前を向いたまま、背後へと向けて声を掛けた。


 しばしの静寂の、後に。

 確かに、背後で動く気配がして。

 その気配を刺激しないように、ゆっくり、ゆっくりと振り返る。


「……いつから気づいていた」

「あ~……悪いけど、旦那様の部屋に通された時から。

 途中一回交代してたね、夕食の時に。

 食事休憩も兼ねてたのかもだけど、夜用の衣服に着替えてた」


 へらりと笑うリタの言葉に、剣呑な空気が漂う。

 振り返ったリタの前には、夜の闇に溶け込みそうな黒装束の女が立っていた。

 褐色の肌、長く黒い髪を一つに縛っていて。

 切れ長の黒い瞳は、先程のリタの軽口を受けて更に鋭く光っている。


「そこまでわかっていて、平気な顔で仕事をしていたというのか。

 随分舐められたものだな……」

「ああ、舐めてたわけじゃないよ? 普通に考えたらいい仕事してたと思うし。

 ただ、あたしが人外な奴知ってるのと、あんたが殺気向けてきてないのわかってたから、ってだけだしね」


 こうして会話をしている今の方が殺気が出ているくらいに。

 先程までの彼女は、実に静かに、観察に徹していた。

 時折、若干刺さるような鋭い視線も感じてはいたが。


「お前、どこまで知っている?」

「知ってることは、見張られてたことだけさ。

 旦那様やロバート様の命令かとも思ったけど、あのお二人からはそんな気配は感じなかったし。

 ……まあ、あのお二人ならあたしに悟らせずに、ってくらいのことはできるだろうけどさ。

 ともあれ、公爵令嬢のお付きに、あたしみたいなのがなろうってんだ。

 警戒されるのは当たり前、どうせあたしの『前職』も知ってんだろ?」

「それはもちろん。

 だからこそわからない。お前は何を企んでいる?」


 開き直りとすら思えるほどの無防備さ、あけすけさに、黒装束の方が若干引いている。

 戸惑いがほのかに滲む声色に、リタはにやりと笑って見せて。


「決まってるじゃないさ、十分なお給料もらって死ぬまでの貯金を作る。

 それだけさ」

「……は?」


 今度こそ隠すこともできずに、呆れた声が漏れた。

 笑顔を絶やすことなく楽し気に語りながら、それでいてどこかで冷静にリタは相手を観察している。

 ……少なくとも、今攻撃されることは、ないはずだ。


「いや、は? じゃないよ。

 前職があれで、色々疲れちまったからね。

 真っ当に大人しく静かに暮らしてける仕事をって知人に斡旋を頼んだらこの様だよ。

 何か企んでるからこの仕事してるんじゃない。

 何も考えずに仕事をもらったから、この仕事する羽目になってんだよ!

 ……あ、この仕事自体は楽しくやってるよ?」

「いや、楽しそうなのはわかった、わかった、のだが……。

 お前、それでいいのか? そんな動機でここに勤めて、いいのか?」

「そりゃごもっとも、だけどね」


 もはや完全に呆れた声を隠そうともしない黒装束の様子に、内心で勝利を確信した。

 とは言え、まだまだ打ち解けたとは言えない空気だ、油断はできない、と気を引き締めつつ、緩い笑顔を見せる。


「今となっちゃ、あたし自身に大した望みのあるわけでなし。

 だったら穏やかに余生……っていうには長いけどさ。ともあれ、それを送ろうってのも不思議じゃないだろ?

 あの稼業、ギラついて尖がってる奴ばかりってわけでもないんだしさ」

「理屈はわかる。

 だからこそ、わからない。お前のそれほどまでの能力で、なぜそんな枯れた思考ができる」

「や、あたしは目端が利くだけで、肉体労働は大したことないからね?

 後まあ、さっきも言った人外を知ってるからね、あたしなんて大したことないって思い知ってるから、かなぁ」


 そう言いながら、その人外の顔を思い浮かべる。

 大人しく、自己主張もなく。

 情けも容赦もぬかりもなく。

 自分など比べ物にもならないほどにサクサクと『仕事』を片付けていた彼女を。

 それでいて、どことなく可愛げのある妹分を。

 ……本人は、妹分などと思っていないかも知れないが。


「理解はしがたいが、お前の言い分はわかった。

 お嬢様に危害を加えるつもりが、現時点ではないことは認めよう」

「そいつはどうも。あんたに監視を命じた人にもそう伝えてくれたら嬉しいねぇ。

 あんたも安心しとくれ、あんたの大事なお嬢様に危害を加えるつもりは毛頭ないからさ」

「なっ、べ、別に私は、私情など差しはさんでいないっ!

 単に任務としてお嬢様の安全に気を配っているだけだ!」

「あ、うん。そうだね、うんうん」


 カマかけ程度のつもりだったのに、覿面にうろたえる様子を見て、少し脱力してしまう。

 身のこなしや隠れ身の腕は間違いなく一流なのに。

 あるいは、だからこそ身辺警護に回されているのだろうか。

 ともあれ、味方にすれば心強いが、敵に回すと面倒なのは間違いない。


 と思えば、にこり、友好的な笑顔を見せて。


「ま、役割の違いはあれど、お嬢様の身辺をってのはお互い様だからさ。

 これからよろしく頼むよ。……あたしはリタ、ってのはわかってるんだろうけど。

 名前聞いてもいいかい? それから、握手ってのが馴染まなかったら言っておくれ」


 そう言いながら、できる限り無防備に右手を差し出した。

 右手、つまり利き腕を一瞬でも封じられることを嫌うのは、あの業界では良くあること。

 下手をすれば、いきなり斬りかかられてもおかしくない行動だ。

 それでも笑顔は崩さず、かつ、勝算はあれど万が一もある、と背筋を冷やしながら右手を差し出し。

 差し出された右手を、彼女は一瞥して。


「私はラークシャシー。まだ右手を預ける程にはお前を信頼していないが、名乗るくらいはしてやる」

「ああ、今はそれで充分さね。んじゃ、ラクシ、よろしくね」

「いや、いきなり略称か!? お前の距離感はどうなっている!」


 にこやかに笑いながら手を引っ込めたリタの発言に、思わずラークシャシーは食ってかかった。

 勢い良く食ってかかられたが、それは完全に意表を突かれてしまったことへの誤魔化しであることは明白だったため、リタは笑顔を崩さずに応じる。


「いいじゃないさ、同じお嬢様付きの同僚なんだし」

「同僚であることは認める、だが、そんな間柄ではないとも言わせてもらう!」

「でも、ラークシャシーって呼ぶよりもラクシの方が早いし合理的だよ?

 あたしがあんたに呼びかける時はそれなりに切羽詰まってることもあるだろうし」

「くっ、それは、確かにそう、だが……」


 どうやら、口ではリタの方が上手らしい。

 嫌味のない素朴な問いかけ、に見える言い方は、もちろん演技。

 だが、ラークシャシーには十分に効果的だったらしく、うろたえる。

 そこに、さらに追い打ちをかけた。


「普段はラークシャシーで、緊急時だけラクシってのもなしではないけどさ。

 どう考えても、それだと咄嗟に反応できないだろ、普段言われ慣れてないんだから」

「うぅ……それも、確かにそうだ、な……。

 わ、わかった、職務上必要なことは理解した。

 だが、お前に気を許したわけではないからな、それは忘れるな!」

「うんうん、わかったわかった。そのうち気も許してもらうから、今はそれでいいよ」

「今は、ではなく、許すつもりもない!」


 頑なな様子に、しかしそこに若さも見えて。

 年の頃は二十歳前後、リタよりもいくらか若いようだ。

 その手の仕事をしている割には擦れていない、素直さが垣間見えて。

 何となく、この同僚のことを気に入ってしまった。


「はいはい、わかったわかった。

 あ、ところでさ、お嬢様にお出ししたお菓子のできそこないが残ってんだけど、夜食にどう?」

「お前、私の言うことを聞いてないだろう!?

 ……だ、だが、食べ物を粗末にするのは良くないから、もらえるならいただこう」


 どうにも感情をコントロールしきれていないところが、なんとも可愛い。

 などと口にすればさらに吹き上がるだろうから、心に留めておいて。


「んじゃ、あたしの部屋に置いてるから、ついてきなよ。

 ああ、ついでって言ったらなんだけどね、寝る前にお茶を飲むつもりだったから、それもどうだい?」

「むぅ、それは、そこまでしてもらうのはさすがに、何だか悪い気がするのだが」

「ああ、いいっていいって。気にしなさんな、できそこないの処分を手伝ってもらうわけだからさ」


 恐らく、根は素直なのだろう。

 そして、隠密の類をやるには不向きなそれを、普段は必死に隠そうともしていたのだろうけれども。

 もはやそれが隠せないようになっていることに、見られないように小さく笑う。

 どうやら、本当に楽しく働けそうらしい。


 そう思いながら、自室へと向かった。




 その後。

 リタの自室で夜のお茶会を堪能したラークシャシーが、それでも残ったお菓子をしっかりと持ち帰ったことはここだけの話である。

※1000ポイント達成しました、ありがとうございます!

 これに感謝いたしまして、リタの昔話短編を作成いたしました。

 ただし、そちらは全力で18禁なので、ご注意ください。

 詳細は活動報告に記載しております。


※このお話は、「暗殺少女は魔力人形の夢を見るか」(https://ncode.syosetu.com/n1740fb/)の派生作品になります。

 リンクはここより下の方に表示されております。

 読んでいなくても楽しんでいただけるよう書いてはおりますが、読んでいただけるとさらに楽しめるかと思います。

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