閑話 王
「……ウス……」
暗闇の中、とても小さな音で何かが聞こえる。
耳を凝らして音を聞こうかと思ったが、彼女の身体は自分の意思を受け付けず動かない。
しかし彼女は不思議と焦らなかった、なんとなく心地のいい気分に浸っているからかもしれない。
「……ウス殿」
声はさっきより近くに来た、どうやら自分の名を呼んでいるようだと彼女は気付くが、その声はどこから聞こえているのか分からず、そもそも身体が動かせないので探しようもない。
「マリウス殿」
ハッキリ声が聞こえた時、彼女の目がパチリと開いた。
目の前には赤い瞳をしたレブナント卿が立っている、状況がイマイチ理解できずに、マリウスは周囲を見回した。
「はは、さぞお疲れのようですな、私に薬を渡した直後に寝てしまっておりましたぞ」
「なんだと?」
まだハッキリとしていない意識の中、視界に映るのは見慣れた執務室の机や戸棚で、混乱のあまりつい自分の手のひらを眺めて呟いた。
「……夢、か?」
口に出してみるが、とても先ほどまでの体験が夢であったとは思えずに首をかしげる。
痛みすら覚えているほどの現実感があり、一部始終を覚えている夢など存在するだろうか、と。
しかし、あれが夢でないとするならば彼女はバニルミルトの手により消滅させられているはずであり、そもそもレブナント卿が生存しているはずがないのである。
「その瞳、成功率は限りなく低いと思っていたけど、うまくいったんだね」
もしあれが夢だとするのであれば、今この場では不死化に成功したレブナント卿が存在しており、私はあろうことか眠気に耐え切れずに意識を手放してしまったのだろうか、と彼女は考える。
「ところで……そこの子供は誰だい?」
頭にもやがかかったような気持ち悪さに一度こめかみを押さえてから、レブナント卿のとなりに立つ、金色のショートカット少年だか少女だか見分けのつかない中性的な顔立ちをした子供を見て尋ねる。
記憶の中には、この執務室に入った時からずっと居たような感覚もあるのだが、逆にこの場に突然現れたような明らかに矛盾した記憶も存在するので、マリウスは密かに心の中で首を傾げた。
「おや、本当に大丈夫ですかな? 我々の協力者のナービス殿ではありませんか」
レブナント卿は心配するように笑うと、言葉を続ける。
「どうやら酷くお疲れのようですな、今日はもう解散といたしましょう」
「そうだね……私はゆっくり寝てくるとするよ」
思えば体はだるく気を抜けばまた眠りについてしまいそうだ、とマリウスは欠伸を噛み殺しながら立ち上がり、執務室を後にした。
壁の燭台が灯りを作り出す石造りの廊下を、一歩、二歩と歩いた時、つい先程目が覚めた時に細部まで実体験のように鮮明に覚えていた夢の内容を、既に全て忘れそうになっていた事実になぜか冷や汗が流れる。
何かがおかしいとは思うのだが、未だに頭にはもやがかかっているような感覚が続いて、思考にノイズを走らせて邪魔をする。
コツコツとマリウスが廊下を歩く音の後ろから、先程レブナント卿にナービスと呼ばれていた子供がトントン歩いてくる足音が続いた。
「一体、きみは誰だい?」
くるりと後ろを振り向いて、突き刺すような視線を向けながら、マリウスはナービスに尋ねる。
そんな子供は確かに存在しなかった。廊下を歩く途中ノイズのかかる思考の中、持ち前の記憶力や集中力を駆使して何故か二つ存在する記憶から矛盾の多い方を排除して彼女が導き出した結論はそれだった。
「その様子……まさか気付くとは思わなかった、存外やるもんだね」
鋭い視線を受けながら口を開いたナービスは、いつの間にか先ほどの中性的な子供姿ではなく、頭部の左右にツノを持ち、煽情的な服装に身を包んだ女性へと変貌していて、マリウスは驚きに目を見開く。
「まさか、魔族かい?」
「イエース、《幻夢の王》ナービス、よろしく」
「よろしくされる覚えはないのだけど、一体何の用だい?」
よろしく、と言う割にはやる気がないような抑揚のない声に対して、首を傾げて怪訝な顔をするマリウスに、ナービスは頬をぽりぽり掻いて口元に笑みを貼り付けた。
「正直なところ、あんたに用はないんだ。必要なのは、き・お・く」
右手を突き出し指を開けたり閉じたりするナービスに対し、ジェスチャーの意図が判らずにマリウスは眉をひそめる。
「魔王様がね、なんでか《過去の魔王》ってのを問題視しててさ、もし生きてると不味いんだと。で、その情報に網を張らせて貰ったワケ。オーケー?」
「つまり、情報を提供すれば私に手を貸してくれるのかい?」
「ノン、ノン。なんで種明かししたのか気付かないのかな、あんたはもう死んでる、うちはその魂をパクン、で記憶をインストール、そーいうこと」
「チッ!」
言い終えると同時に突然膨れ上がった殺気に、マリウスは反射的に腰に付けた鞘から強力な退魔の力を持った銀色の短剣を引き抜いた。
切っ先を的に向けて腕を交差させ、慣れた格闘技のようなポーズで構えるが、ナービスはそんな動きを全く気にした風もなく、相変わらず手をパクパクと開けたり閉じたりしているだけだった。
「んー、いい反応だとは思うけど、残念。あんたの記憶を元にうちの創り出したこの世界で、魂だけのあんたに出来ることはないよ」
突然今までパクパクやっていた手は鋭い牙を持つ巨大な狼の顎に変貌し、マリウスの持っていた短剣はぐにゃりと銀色の液体に変化して地面に吸い込まれ、更に地面までもが流砂のように彼女の足を取る。
「……っ!」
「それじゃ、いただきます」
◇――――――
「……お時間がかかり申し訳ありません、ようやくヘルべティア様を発見致しました」
茶色いおしゃれなカーペットが敷かれた軽い運動すら出来そうなほど広い部屋、壁一面にはあらゆる本がびっしり詰まっていて、それを読みながら書き物ができるようにしているのかインクボトルと羽根ペンの乗った大きめの机が目に入る。
そんな部屋の中央付近で、白い忍装束のようなぴっちりした衣装に身を包んだ少女が、椅子に座って読書中の人物に跪いたまま伝えた。
「ふむ、ひとまずご苦労様です。白蛇さん、貴女にしては珍しく時間がかかりましたね」
少女の言葉を聞き、読みかけの本に栞を挟んで閉じた人物は、自室だと言うのに顔の半分ほどを仮面で隠し、大きめの青いベレー帽を被り、身体のラインが出にくいだぼだぼのポンチョを着た男性だった。
声は優しそうで、肌や声の響きからまだ二十代前半くらいに見える。
白蛇さん、と呼ばれた少女は「はっ」と短く返事をし、一呼吸の間を置いてから正面を見据えて男性に言葉を続ける。
「おそらく、転生になんらかの歪みが生じ、現在トートと呼ばれる少女の体に閉じ込められているようです、非接触ですので仔細は不明ですが、どうやら封印等ではないようで、一時的に肉体を得たヘルべティア様がその少女に手を貸している姿も見られました。しかし、すぐに少女の体に戻されてしまっていたようです」
「ふむ、普段はヘルべティア様ではなく少女の精神が現れているのですか、そもそも精神が二人分あるのもおかしな話ですし、少々気になる所ですね」
「そのトートなる少女も数日ほど監視致しましたが、特に危険性は見当たりませんでした。接触致しますか?」
「そうですねえ。と、なると――」
男性は唸りながら顎を撫で、白蛇さんと呼ばれた少女にいくつか命令を下して行く。
一通り言葉を聴き終えた少女は跪いた姿勢のまま再び頭を下げ、口を開いた。
「ワルプルギス様の御心のままに」




