3話 バシッではなくゴッって感じ。
男は、前を進む間者に気付かれないよう静かに森を歩く。歳の頃は三十後半、羽付き帽子を目深に被ったカイゼル髭のよく似合う男性で、腰には剣を差していた。
彼が、前を進んでいる間者の元主、デル・バンデルト伯爵である。
デルから間者の姿は見えないが、彼に使った追跡魔法のおかげでデルにしか見えない《線》が彼の元へ向かう道を示していた。
(ここ数日間、特に怪しい様子だったからつけてきたが……どうやら当たりか)
なにが目的なのか伯爵には判らないが、あの男は実に一年もの間バンデルト伯爵家に仕えるふりをして貴族の情報をこそこそ嗅ぎまわっていた。
ずっと泳がせていたがいつまでも誰かに報告をするような素振りは見せなかったので、彼の趣味かと思い始めていたところで遂に動き始めたのだ。
(しかしこの森、まさか彼は知らないのか? 経歴を調べても戦えるようには見えなかったが)
今彼らが歩いているのは、王都から馬で半日ほど離れた場所にある森の中だった。王都の騎士団に立ち入り禁止を掲げられているこの森は、浅い位置にこそ危険はないものの、深部にはワーウルフの巣が存在する危険な森だ。
ワーウルフは比較的温厚だが、種族の縄張りに立ち入るものに容赦はない。
単体なら戦える人間は多いが、集団となると熟練の冒険者パーティでも危険を伴う。
考えても仕方がない、とデルはかぶりを振った。深部は危険だが、たしかに密会に丁度いい場所だろう。
森の中に入ってから一時間ほど経ったころ、突然男の怒声が聞こえた。
「話が違うだろ! なんのためにこんな危ない橋を渡ったと思ってんだ!」
デルは足を早め、男を視界に収めると木の陰に隠れる。
そこにはつい先ほどまで追っていた男と、ローブに身を包みフードで顔を隠している人物が立っていた。
男は今にも目の前の人物に跳びかかりそうな迫力があったが、目の前の人物はそのローブを脱ぐことなく涼しく受け流している。
「話が違う? 何か約束していたか? もう忘れてしまったよ」
「ふざけやがって!」
男が殴りかかろうと腕を振りかぶった瞬間、ローブの人物が男の喉を掴み、男を片手で持ち上げた。
男を持ち上げた際にローブの袖がずり落ちて、学者のような細腕があらわになる。
ローブの人物の声色は少し低かったが女性のようだった。
「ぐっ!!」
「それはそうとして、君には一つ感謝をしなくてはならないね」
ローブの女性が男を持ち上げたままそう告げた時、相手はフードで顔が殆ど見えないにも関わらず木の陰に隠れているはずのデルは目があった気がした。
「バンデルト伯爵、何でも自分でやらないと気が済まない悪癖は健在のようだ」
デルはすでに見つかっていたことに小さく舌打ちをして、腰に挿した片手剣を抜きながらローブの女性の前に姿を現す。
「お前は俺を知っているな? 誰だ、何を企んでいる」
ローブの女性はデルの問いかけに応えることなく口元を緩めると、ポケットから液体の入った小瓶を取り出した。
喉を掴まれたまま宙に持ち上げられている男性がもがくも意に介した様子はなく、微動だにしない腕からはまるで男性が空中に貼り付けにされているような印象を受ける。
「た、たす、け」
「伯爵を連れてきてくれた君には、先ほどの情報料に加えプレゼントをやろう。とても目立つ素晴らしい香水だ 」
ローブの女性は男を投げ捨てるように放り投げると、取り出した小瓶の蓋を開けて男に投げつけた。
小瓶は男にぶつかると中身をぶちまけて、甘ったるい匂いを辺りに充満させる。
「ぐふっ……ひぃっ」
「まさか!?」
この森に住むワーウルフは狼の頭と人間のような体を持つモンスターで、その頭から想像できるようにとても匂いに敏感である。
この場所でこんな強い匂いを発してしまったら、縄張りを荒らされると勘違いしたワーウルフが即座に襲いかかってくるだろう。
ハメられた! とデルはローブの人物に目を向けると、ローブの人物は一歩引いた場所で小さな玉を取り出すところだった。
「転移珠玉!? 」
「さよなら伯爵、簡単に釣られてくれて助かったよ」
「逃すかッ!」
デルは一瞬で間合いを詰めて剣を振るが、瞬時に消失したローブの女性を捉えることはなく剣は虚しく空を切った。
「う、うわああああ!!」
「チッ!」
直後、背後で男の悲鳴が響く。男はやはり戦う力を持っていなかったようで、悲鳴をあげるとほぼ同時にワーウルフの爪と牙を受けて絶命していた。
(どうにか、この場を切り抜ける方法を探さなければ)
デルの目前に立つ五匹のワーウルフは、そのどれもが既にデルを認め臨戦態勢を取っている。
ワーウルフを前にして血を流すことはできない、血の臭いで位置を特定されるからだ。さらにいえば、ワーウルフを傷つけることはできない、同じように返り血で位置を特定されるからだ。もちろん、血を流させずに傷つける方法があれば別だが。
デル自身は剣士としてそこそこの腕前だが、ワーウルフほどのモンスターともなると同時に相手するのは二匹程度が限界であり、魔法の方も一般的な魔術師程度に使えるといったレベルでしかない。
強靭な肉体と狼以上の素早さを持つワーウルフに対して有効な魔法を覚えているわけもなく、正直に言って、この状況は既に《詰み》であった。
(火を放つか? いや、時間がかかり過ぎる。閃光……ワーウルフ相手には意味がない。くそッ、どうする! どう切り抜ける!?)
一秒、一秒と時間が過ぎる毎にワーウルフの包囲網は完成してゆく。
デルは左右、背後にまで気配を感じて死期を悟った。
(っ、ここまで、か。せめて怪しい動きがあると誰かに伝えておくべきだったな)
ふう、と短く息を吐いて、デルは剣を両手で持って眼前に構えた。
(ただでは死なん、無理だと分かっていようとも、望みは捨てん!)
ワーウルフ達が吠え、デルに向かって駆けながら腕を振り上げた瞬間、突然茂みから飛び出した何かに触れて頭が破裂した。鈍器で殴るような鈍い音に続いて頭蓋が砕け散る不快な音が響く。
突然の闖入者にデルもワーウルフも驚くが、ワーウルフは即座に戦闘の対象を闖入者に変えた。
「い、一体何が……」
規則的に鈍器を叩きつけるような鈍い音が続いて、その度にワーウルフが地に伏せる。デルは状況を把握できず、剣を構えたままただただその光景を眺めるしかなかった。
やがてワーウルフは闖入者が勝ち目のない強者だと把握すると、パニックを起こしたように逃げ去っていく。突然現れたそれは、逃げ去るワーウルフを全く気にした風もなく無表情で自身の服を眺めていた。
「少、女?」
黒い長髪に赤い瞳のまだ十歳にも満たないだろう少女が、返り血を浴びて真っ赤になったままワーウルフ達の死体の中央に立っている。
少女はデルの声に反応してちらりとデルを見るが、真っ赤な瞳に恐怖を覚えてデルは咄嗟に剣を構え直した。
当然の話だが、ワーウルフを素手で殴り倒せる少女など存在しない。ましてや群れのワーウルフを素手で圧倒するなど人間の仕業ではないだろう。
真っ赤な瞳、不死者 に多いその特徴を鑑みて、デルはこの少女を上位のアンデッドだと推測した。
(なぜワーウルフに襲いかかったのか不明だが、単純に動くものに反応したのだろうな)
自分が死を覚悟した状況を一瞬で消失させたという、あまりにも大きな実力差を見せつけられてデルはただただ逃走を一心に考えていた。こんなモンスターは例えデルが束になっても叶わないだろう。
少女が一歩だけこちらに歩いた。デルは、先ほどまでのスピードで襲われたら反応すらできないと逆に一歩下がって構えを変える。
すると、少女は口をへの字に曲げてからデルに背を向けて凄まじい速度でどこかへ走り去った。
しばらく剣を構えたまま立ちすくんでいたデルだが、ようやく緊張が解けると、一言だけ呟くように発した。
「……助かった、のか?」
◇――――――――――――――――
まず、この返り血を両親にどう説明するか、それが問題だ。
血で真っ赤に染まった服を見ながら、トートこと私は思う。
身体だけなら川とかで洗い流せるだろうけど、服とかにこびりついた血はじゃばじゃば洗って落ちるのだろうか、洗剤どころか石鹸すら持ってないし、落とすのは無理そう。
残念ながら、どうあっても隠し通すことはできなさそうだ。
それより、あの場に居たおじさんは誰だったんだろう。
あの場にいると攻撃されそうだったから思わず逃げちゃったけど、冒険者だったのかな? 獲物を奪われたから怒ったとか。あー、ありえる。
あれからさらに三年経って、私は八歳になった。
これまでちょこちょこ重ねた性能調査の結果、私はかなり無茶できる体っぽいことが判明したので、かねてより憧れだったモンスター退治に乗り出した。
移動して、耳を澄まして、草木が大きく揺れる音を確認する。
そこで風ではない不自然な揺れの音を感じたら、そこまで出向いてモンスターかただの動物か確かめに行く。
その結果何度もただの動物だったので、意外とモンスターって居ないんだな、なんて思ったりもした。
で、そんなことを続けていたら、今日いきなり人間の悲鳴が聞こえた。
急いでその場に向かったら、さっきのワーウルフと呼んでいいのか、狼人間と、剣を向けてきたおじさんと出会ったわけだ。
悲鳴の人は見えなかったけど、逃げたのだろうか? 多分あのおじさんは違うだろうし。
それにしても、最初に殴ったのがモンスターで良かった。
力加減に気をつけないまま人を殴ってしまったりしたら、こっちはその気がなくともとんでもないスプラッタになるところだった。
私もまさかこんなに威力が出るとは思わなかったのだ。
(最初は反撃とか怖いし、とにかく本気で殴りかかろう)
そう思っていただけで、本気で殴っても少年マンガみたいに凄い勢いで吹っ飛ぶくらいかなって思ってた。
まさか当たった瞬間に頭が弾け飛ぶとは……。
二体目以降は力加減も抑えたおかげで頭が弾け飛ぶことはなかったし、最初のよりはスプラッタ感を抑えられたと思う。
「でも、すさまじい……」
握りこぶしを眺めながら呟く。私の拳は鈍器より凶器だった。
さっきのモンスターはこの世界でどのくらいの強さだったのだろうか。
さっきのおじさんは一人で七体くらいの相手をしようとしてたから、大して強くない相手なのかな。
「はっ!? まさか」
あのワーウルフは実はとても強いモンスターで、あのおじさんはそんな相手を圧倒できるこの世界のいわゆるSランク冒険者だったとか。
「……ないな」
なにせ一撃で頭が弾け飛ぶ程度のモンスターなのだ、きっとザコの一種なのだろう。
しかしザコと言っても数は暴力のはず。一人であの数と戦おうとしていたあのおじさんはきっと中級〜上級の冒険者なのかもしれない。
「うん、なっとく」
勝手に自分の出した答えに満足した頃、私の住む村が見えてきたので速度を落とした。