24話 逃れよ、罪から
その黒く染まった艶のある美しい髪は、短く整えられている。
初めてあった時よりも少し伸びていて、女性らしい美しさが増している。
赤縁の眼鏡が彼女を知的に飾っていたが、今はつけていないようだ。
その時の俺はまだ何も知らなかった。
俺は美咲さんの近くのソファーに座った。
「美咲さん、お久しぶりです」
そういうも、相変わらず美咲さんはガラス張りの窓を、海を眺めているだけだった。
俺は予想外の出来事に少し驚く。
でもよく考えれば無視されるのも無理もないはずだ。倒れこんでさぞかし、迷惑だっただろう。
俺はそういう考えにたどり着き、美咲さんに謝罪の言葉を口にした。
「前回の任務…そのすいません。俺が足手まといになったり…もとはと言えば俺があの女性をちゃんと捕まえていればよかったんですよね…」
そう言い切るもやはり美咲さんは、ガラス張りの窓を眺めているだけだった。
その瞳はどこか切なく、何かを失ったような瞳をしていた。
それにさっきから車いすに乗っているということが、引っかかる。
嫌な予感しかしない。
デリカシーのかけらもないのは承知だが、俺は美咲さんに何が起きたのか聞く。
「美咲さん、何かあったんですか」
とても静かな時間が流れる。
ただそれを感じているのは、俺だけかもしれない。
美咲さんはただ無情に、この海を、世界を眺めているだけなのかもしれない。
「美咲さん、そろそろ行きましょうか」
別の女性の声が後ろから聞こえる。
その声のもとに振り向くと、そこには看護師さんがいた。
看護師さんは俺を見るなりこう言った。
「ごめんなさい、彼女、感情を表に出せなくてね…別にあなたのことが嫌いとかじゃないだろうから、また話に来てくださいね」
その看護師さんは俺の言葉を聞く前に、美咲さんの乗っている車いすを引きながらこの場を去っていった。
感情を表に出せない、美咲さんに何が起きたのだろうか。俺はそれを聞きそびれた。
たった3日しか立っていないというのに、ここまで周りの環境が変わってしまうことに動揺を隠せなかった。
そして困惑し、頭の中が整理しきれなくなる。
蓮田さん、川本さん、白岡さんはどうしているだろうか。
美咲さんが入院していることに対して、俺を責めているのではないか。
俺が原因で、美咲さんは入院してしまった、と。
俺の頭にはさらに追い打ちを掛けるように、そんな不安が襲ってくる。
さらには、レプリカのことまで疑い始めた。
最近、やたらと距離を近づけてきた彼女には何かあるのではないか。
前回、俺が入院した時はお見舞いにすら来なかった。
それが今になって急に人が変わったように、容態を気にかけ、そして俺に対する言葉にも棘が無くなった。
そうやって俺は他人の善意にまで踏みにじるような考え方をするところまでに至ってしまった。
考え過ぎだと自分で思っていても、その不安は募るばかり。
すると後ろの方、少し離れたところから声をかけられる。
「神川さん」
その声のおかげで負の感情を抱くことを、停止することができた。
振り返ると、前と同じく、缶詰が入った袋をぶら下げてこちらを見ている。
「レプリカか…」
俺は少し気が抜ける。
なぜか安心した。恐らく、さっきまで深く考えすぎていてしまったせいだろう。
レプリカの声でそれを覚ますことが出来たからだ。
一方のレプリカは、そんな気が抜けた俺を見て、不思議そうにきょとんと首をかしげていた。
「…どうかしましたか?」
レプリカが俺に問いかける。
「いや…」
俺は言うべきか、そのまま心にじっと沈めて置くか悩んだ挙句、曖昧な返事をしてしまった。
真実は知りたくない。
ある程度の予想はできている。
俺が足手まといになったから、美咲さんは…。そんなこと知っていても、他人の口から真実を告げられるのは嫌だ。
それは逃げであって、自分を甘やかしているにすぎない。
現実と直面しない、向きあおうとしない俺は相当なクズである。
それでも、その罪から逃れたい。そんな自分が隠そうとしても、表に出てしまう。
例えば、免罪符が売っていたとしたならば、俺は罪を背負い、そしてその罪を免罪符によってかき消すだろう。
それくらい、今の俺はクズでどうしようもない生き物だった。
そんな俺の感情を知りもしないレプリカは、後ろを振り返ってからまた俺を見る。
「美咲さんのことですか?」
その言葉に俺は身の毛がよだった。恐ろしい寒気が全身を襲い、何者かが遠くから俺の首を締め付けるような感覚に陥った。心拍数は上昇し、体がだんだん暑くなってくる。呼吸は少し乱れ、額、手、首筋、至るところから汗がにじみ出る。
それでも、なお、俺は逃げようとする。
レプリカは、彼女は悪気はないだろう。だが、俺は少しだけ、一瞬、恨んだ。彼女を恨んだ。
俺は必死になって逃げようと、平常を装い、レプリカに返事をする。
「いや…別に…なんでもないから」
最後の方が少し早い口調になってしまった。明らかに不自然である。
なんでもない人の口調ではない。怪しすぎる。
本来の会話であればここまでむきになることもないだろう。
だが、怖い。
怖いがゆえ、逃げたいがゆえにむきになってしまう。
それをレプリカも感じ取ったのか、もう一度質問してくる。
「大丈夫ですか?…やっぱりなんか…」
その言葉を遮るように、彼女の心配を踏み殺して、他人の優しさより自己の利益を優先して、俺は強く突き放すように彼女に向って叫んだ。
「もういいから!!」
その言葉が院内に響き渡る。
俺は彼女の顔も見れずに下を向いた。後悔しかない。
今なら死んでもいい。自分からそうしてもいい。そのくらいの後悔が心を襲った。
頭がぼーっとしていながらも、後悔、後悔、後悔、後悔のことを考え続けた。
自分の弱さを自覚し、その自分を殺そうとするように自分の左手で、自分の右手首を掴んで握り付け、圧迫した。
自分が憎い。自分が哀れに見える。自分が悲しい。自分が弱い。
自分を殺してやりたい。
静寂に還った院内。俺は顔を上げた。
俺の瞳には彼女が写っていた。彼女の瞳には涙が浮かんでいた。
俺と目があったことを認識した彼女は、はや歩きで先ほど来た道を引き返して言った。
当然の結果だ。
俺は彼女の進む足を、止めることも出来なかった。




