食欲の秋
秋は物思いの季節だという。
だが押田にはそんなものは縁が無い。押田はこの数年で急成長を遂げたベンチャー企業の社長だった。
今日はいつにも増して精力的に資料の山と格闘している。
押田は傍に控える従業員のひとりに目を向けた。
「おい、清川産業が伸びるのはなぜだと思う? あそこは、まともな開発もしていないのに」
「言われてみれば不思議ですね。清川産業の社長はビジネスよりも生物学の研究に力を注いでいて、温厚で人の良い人物です。あのような人が、なぜビジネス界で生き残れるのか……」
首をかしげる従業員に、押田は押し殺した声で答えた。
「実は、清川産業のライバル社がやたら自滅しているんだよ」
「あ、なるほど」
「来月売り出す我が社の目玉商品は、ちょっと前に清川産業の発売した商品と同類だ。もちろん、機能は清川産業の比ではないが」
「とすると、もし清川産業がライバル社に何らかの工作を行っているとすれば、次のターゲットはうちということですか」
事情を悟った従業員は、不安げな表情を見せた。
「心配には及ばない。先手を打って、清川産業にスパイを送り込めばいいんだよ」
決断したら即実行を旨とする押田は、すぐに選りすぐりの従業員数名をスパイとして清川産業に送り込んだ。そして彼らからの情報を待ち構えた。
しかし、あれほど優秀なメンバーを送り込んだにも関わらず、清川産業のライバル社を自滅に追い込む方法は掴めなかった。彼らから入ってくる情報といえば、せいぜい清川社長の生物学研究の学会発表論文くらいなものだ。
「ほう、獏の研究ですか」
「獏? 夢を食うとかいう架空の動物ですよね」
「清川氏は実際に存在していると考えているようです」
清川の論文について語り合う従業員たちに、押田が一喝する。
「そんなものどうでもいいんだよ。まともな報告はないのか」
もしや、送り込んだスパイが、清川産業に取り込まれたのではないかという不安がよぎった。何と言っても送り込んだのは押田産業の中でも際立って優秀な人材だ。万が一取りこまれたら、それこそ一大事だ。
不安が不安を呼び、社員たちも浮き足立っている。暢気に構えているのは、アルバイト事務員くらいなものだった。
アルバイト事務員は、最近よく出入りしている野良猫と遊んでいた。
「仕事中に猫と遊ぶな。クビにするぞ」
苛立った押田が怒鳴りつけたが、アルバイト事務員は肩をすくめて照れ笑いを浮かべただけで、反省した様子は全くなかった。暖簾に腕押しとはこのことだ。押田も面倒になってアルバイト事務員への文句を言うのを止めた。そもそも、アルバイト事務員などに目くじらを立てている場合ではないのだ。
「売上が落ちているじゃないか。しっかり売りつけてこい」
押田が怒鳴った。だが従業員たちの反応は悪い。
「なんだか、セールスっていっても、己の欲望のためにお客様に商品を売り付けているような気がするんですよ。そんなことでいいのかな、と、ふと思うようになったのです。真にお客様のことを考えると、この商品はいまいちかと……」
似たようなことを、従業員たちが口々に言い出した。
そういう押田自身も、取引先との折衝も失敗続きだった。どういうわけか最近、押田の最大の売りである押しが足りないようだ。
「社長は満足ですか。ご自分の欲望に振り回されて」
従業員の遠慮がちな質い掛けに、押田は言葉を失った。しばらく考え込んでから、やがて、小さく呟いた。
「実は、私も最近疑問に思えてきたのだ。欲望にまみれていていいのかと……」
口にした瞬間、押田はつきものが落ちたような気分を感じた。
その翌日、押田は失踪した。「修行に行く」というメモ一枚を残して。
従業員たちが慌てふためいている中、例のアルバイト事務員が間延びした声で呟いた。
「そんなことより、猫ちゃんがいなくなっちゃったんですけど」
その頃、押田産業のアルバイト事務員が可愛がっていた猫は清川のもとに戻っていた。
「御苦労さま。今回の食事はどうだったかい?」
猫は嬉しげに、清川の手にじゃれついた。
猫といっても、普通の猫ではなかった。伝説の生物とされる獏の血を引いていた。清川が獏の研究をしているうちに、生み出してしまった生き物だった。
この猫が食べるのは人間の夢ではなく、人間の欲望だった。だから清川は、猫が空腹にならないように常に気を使わなければならない。そのために欲望渦巻くビジネス界に、身を投じる羽目になった。
会社経営に興味も関心もない清川だが、会社は意外に順調だった。もちろん例の猫がライバル社の中枢にいる人物の欲望を食べてくれるおかげではあるが、なぜかライバル社が次々と優秀な人材を提供してくれることも要因の一つだった。もちろん、押田産業も例外ではない。
「押田さんは、修行に出かけちゃったみたいだけど、いつになったら物欲が戻るかな。それにしても、今回は随分派手に食い散らかしたものだね」
愛おしげに猫の背中を撫でながら、清川は静かに微笑んだ。
「まあ、仕方ないか。食欲の秋だからね」




