ギター・三人・悲恋
Twitterのフォロワーさんからリハビリ用に頂いた三つのお題。
それを元に作成したお話です。
放課後の教室に、橙色の光が満ちる。
揺れるカーテン越し、聞こえてくる日暮らしの声に耳を傾け、俺はくるりと彼女に向き直った。
「なんだか珍しいですね。先生から呼び出すなんて」
頬を夕日に染めた生徒が、くすりと笑って俺を見上げる。
須郷美晴。
それが彼女の名だ。
一回りほど年が離れていて、彼女が小さい頃から付き合いがある。
俺が理科教師として彼女のいる高校に赴任してから、より一層一緒にいる時間が長くなった気がする。
現に、俺の根城の理科準備室には、明らかに自分のものではない小物が散乱し、気のせいでは片付けられない現状だ。
ちらりと視線を動かすと、当の本人は慣れた手つきで、ドリップポットにドリッパーをセットしていた。それ秘蔵の珈琲豆なんだが。隠しておいたはずなのに。
「先生って、やっぱり聞き慣れんな。んーまぁなんだ。意外にも大丈夫そうでよかったよ」
窓の桟に凭れ、さりげなく彼女を観察する。別段変ったところは見られない。健康そのもの。
その結果に少し安堵し、ドリップポットから彼女の入れた珈琲の残りを頂戴する。
うーん。いい香りだ。
珈琲をじっくり味わっていると、一瞬きょとんとした彼女は何か合点がいったようだ。
傍にあるソファに身を投げ出し、腕組みをしてしかめつらする。
「もー。シュウ君のお葬式の時のこと、心配してくれたんですか? 確かにあのときは大泣きしちゃいましたけど……その節はお世話に――」
「気にするな。これも兄貴分としての仕事だ」
慣れ合いになりそうな空気を遮断する。
葬式。雨。石畳。嗚咽。握りしめられた背広。冷たい指先。
まざまざと蘇る葬式の記憶が、俺の胸を締め付けていく。
得たいものが、こんなに近くにいる。
それなのに、その瞳に映るのは違う男の背中。
……まずい。これ以上彼女といると、何か変な気持ちになってしまいそうだ。
離れたい。
「まぁ元気そうだし、お前、もう帰っていいぞ。俺、仕事あるから」
口を引き結び、俺は彼女に背を向ける。
そんな俺を彼女はただ、呆けた顔で見つめるばかりだった。
夏の始め。
それまで俺たちにはもう一人の仲間がいた。それが、秀二――シュウ君である。
彼は美晴の幼馴染で、よく一緒にいたことから俺とも交流があった。
歳のせいか、美晴と同じく俺を兄のように慕い、近所では仲良し三人兄弟と揶揄されたものだ。
元々活発で、何にでも興味を示し、高校に入ってからはずっとギターに打ち込んでいた。
その熱は本物で、作詞作曲から駅前での弾き語りまでと、相当入れ込んでいるようであった。
俺も何度か彼の歌を聞いたが、前向きで、明日に希望を見出し進もうとする姿勢が伺えた。
それだけ力強い歌に感化されない人はいないだろう。
当時引っ込み事案であった美晴は、彼の歌をきっかけにして、次第に明るい一面を見せるようになった。
でも今ならわかる。彼女を変えたのは、歌のせいだけではない。
彼女と仲睦まじく歩くシュウの姿が、じわりと心に憎しみを募らせていくのを、俺はゆっくりと噛み締めていった。
「先生。ううん、栄治兄さん。本当に、今日の用事はそれだけ?」
泣くのをこらえるような声が後ろから聞こえる。
庇護欲をそそるか細い声は、葬式のときとは違っていた。
「兄さんが私に特別な想いを持ってた事、私知っています。
それでもずっと私とシュウ君の仲を見守っていてくれたことも――」
「だから?」
咄嗟に出た言葉は、心を抉る鋭いナイフのようだった。
「シュウが亡くなった悲しさは、泣けば済む程度の事だった。恋人がいなくなって寂しくなった。埋め合わせにちょうどいいのがいた。いい機会だから構ってくれ。お前の本心は、それだろう?」
彼女はそんなやつじゃないだろうと、心のうちでもう一人の俺が叫ぶ。
それでも――想いを押し隠していた俺の心はささくれだち、しみだした血は今も止まらないままだ。
「そんなこと!」
「ない訳じゃないだろ。俺も大人だ。子供の我が儘に付き合えない訳じゃない。それが可愛い妹なら尚更。それでもな。俺は、お前に弄ばれるために仲良くしてた訳じゃねぇんだよ」
そこまで一息に言いきったとき、後ろで息を飲む音が聞こえた。
我に帰るも、もう手遅れだろう。
振り返ることも慰めの言葉をかけることもできない俺は、ただただ深く息を吐いた。
今までの彼女との記憶が、閉じた瞼に浮かんでいく。
シュウの野外ライブに行ったこと。
シュウのギターに合せて三人で歌ったこと。
美晴と指先が触れあっただけでドキドキしたこと。
彼女が俺に笑いかけるだけで、心の内側が温かくなったこと。
振り返るだけでも、心が痛んで、意味のない後悔ばかりをしてしまう。
これまでに気持ちを彼女に伝える機会はあったのだろうか。
こんな言い方をする必要があったのだろうか。
彼女を傷つける権利が、俺にあったのだろうか、と。
そうして自問自答の海に沈む俺の首に、何かが巻きつくような感触があった。
目を開く。
するとそこには、背伸びをして俺に抱きつく美晴の姿があった。
「栄治兄さん。酷いです……そんな言い方。それに。兄さんの言ったこと、全部大外れ」
「え……」
「笑ってるように見えて、まだ私、シュウ君のことは立ち直れてないんです。
それに、兄さんがちょうどいいやつだなんて、そんな物みたいに思ったこともない。
私、感謝してるんですよ? お葬式のとき、取り乱して泣く私の頭をずっと撫でて、慰めてくれたでしょう? あのとき、本当に申し訳ない気持ちでいっぱいだったの。兄さんが私のこと好きなのを知っていて、それなのに期待させるようなことしてって。ずっと、自分のこと責めてた。いつかちゃんと謝らなくちゃって思っていたのに……」
そこで、美晴は俺の首にかけていた腕を解いた。
うつむく彼女の足元で、リノリウムのタイルにぱたぱたと水滴が零れていく。
「こんな風にしか気持ち言えない兄さんなんて、もう御免です。本当ばか!ばかばかばか!」
「美晴……」
「もっと早くに話し合えばよかった。大好きな兄さん……。本当はこんな風になるなんて、考えたくなかったのに。もう昔みたいには、戻れないんですよね――?」
そう言って見上げた美晴の顔には、少しの後悔と、決心が見えた気がした。
うつむく俺に、彼女は軽やかにステップを踏んで距離を離していく。
「私、決めました! もう、金輪際兄さんのことなんて構ってあげません。
ずっとずっと、今日の日の事を後悔してください。それで……いつか、また――」
廊下に面した扉の前で、こちらに背を向けたまま、彼女は小さく小さく呟いた。
「――私の兄さんにふさわしい人になったら、妹になってあげますね?」と。
その後、扉の開く音と、彼女が廊下を走り去る音が聞こえてきた。
俺は糸が切れたように椅子に深く座りこむと、額にこぶしを当てて空を仰ぐ。
まだまだ子供だとは思っていたが、知らない間に彼女のほうが大人になっていたなんて。
「今回のことは、関係修復の可能性を残してくれた彼女に、感謝しなくちゃな……」
そう一人ごちて、大切な妹の成長を見られた事と、まんまと一本とられた事に、声を上げて喜び笑った。