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第一章 出会い

「この人痴漢です」

 声と共に唐突に私の手が掴まれた。掴まれた手は周りに見せつけるように高々と空中に掲げられている。その様はまるで悪いことをしてしまった幼児のようだ。

 あまりに突然のことで、他人事のようにあっけにとられている私にかまわず、手を掴んだ主は続ける。

「この人痴漢なんです。さっきまで私のお尻を触ってました」

 そう言って俺の手を掴んでいるのは女子高生。私が女子高生と断定したのは制服を着ていたからだ。このブレザーの制服はおそらくT高のものだろう。

 少女の言葉を聞いて、周囲にいた人たちが一斉に私に注目する。そして周りの私の見る目もまた、一斉に変わっていくのが手に取るようにわかる。さっきまではまるで関係のない、いてもいなくても変わらない空気のような存在だったのに対し、今では明らかに犯罪者を見る侮蔑のまなざしに変わってしまっている。

「違います。私は痴漢なんかやっていません」

 とっさに叫んだ。誓ってもいい、絶対に私は痴漢なんかやっていない。痴漢をする人間を軽蔑こそすれ、自分自身が痴漢をしようと思ったことなどは一度もない。だがいくら私がそう叫ぼうと周りの目は変わらない。それどころか先ほどにもまして侮蔑に満ちた視線が増えたような気がする。私の手を掴んでいる女子高生に同情の視線を向ける人までいる。

私を痴漢だと思っているのが言っている女子高生だけではないのは、すぐに形となって表れた。気が付けば私の隣には駅員が立っている。

「痴漢ですか。詳しい話は駅の事務室で聞きましょう」

 そういってその駅員は腕を取って私を連れて行こうとする。痴漢という犯罪の場合において、加害者にされた男が無罪を立証するのは難しい。前にどこかのテレビで言っていた。それは当然なのだろう。被害者である女性の言い分が重要な証言としてあるうえに、何よりも痴漢をしていないという証拠がない。痴漢の犯人にされると、それを覆すことは容易ではない。前に『冤罪』というような主旨のタイトルのテレビ番組でやっていたことだ。そのことからも、私の置かれている今の状況では、諦めざるを得ないものではないのだろうか。

そう考え始めたこともあり、気の弱い性格の私が強い否定も言い訳もできないままでおとなしく駅員について行きかけた。その時だった。

「この人痴漢なんかしてません」

 声がした方を見ると、私を痴漢だといった少女と同い年くらいの少女が立っていた。私を指さすと駅員を見てさらに言葉を重ねる。

「あたし見ました。この人この子から離れた距離にいたんです。だから痴漢なんてできるはずないんです」

「あんた、横からしゃしゃり出てきて何言ってんのよ。実際にされたあたしが触られたって言ってんだから、間違いないでしょ」

「あんたこそ根も葉もないこと言ってんじゃないわよ。あんたと、このオジサンとの間に何人の人がいたと思ってんのよ」

「あんた関係ないでしょ。引っ込んでなさいよ」

 当事者である私そっちのけで、いきなり目の前で始まった少女同士のケンカめいた口論に、当事者であるはずの私だけでなく、私を連れて行こうとしていた駅員さえも圧倒される。

「駅員さん信じてください。本当にこのオジサン痴漢なんかやってないんです」

「こんなやつに騙されたらダメ。当事者であるあたしが触られたって言ってるんだから間違いないでしょ」

 二人とも駅員を見ながらさらに続ける。だが当の駅員はどちらの話を信じていいのかわからずに、呆然と立ち尽くしたままだ。

「ちょっと待ってください。お一人ずつお話を伺いますから」

「だから、あたしはこのおっさんに痴漢されたって言ってんの」

「オジサンは絶対に痴漢なんてしてない」

 駅員は必至で二人を落ち着かせようと試みるが効果はないようで、二人ともヒートアップする一方だ。少女たちの剣幕に、当事者である私以上に駅員の方が狼狽えている。

「とにかく、少し落ち着いてください。話はゆっくりと事務所の方で伺いますから」

「何言ってるの。なんで痴漢をやってない人を事務所なんかに連れて行く必要があるのよ」

「だから、あたし、このおっさんにお尻触られたって言ってんだろ」

 ますます激しくなる少女たちの口論に駅員はなすすべがない。オロオロと立ち尽くしているだけだ。

 それは突然だった。

突然、私の無罪を訴えていた少女が動いた。

「オジサン逃げるよ」

 駅員が私の腕を掴むのを確認するのが早いか、私の腕を掴み、引っ張って走り出す。私も40過ぎのもう若くない身。いきなり腕を引っ張られる形になって、とっさには動けない。それでも訳も分からないまま、なんとか少女についていく。

「ちょ、君たちちょっと待ちなさい」

 制止しようとする駅員を無視して少女は階段に向かって走る。それに引っ張られながら必死でついて行く私。

「気をつけろ」

 追ってくる駅員から逃れるために満員の人ごみをすり抜け、時には人にぶつかりながら、それにもかまわず少女は私の手を引いて走り続ける。

「オジサン早く!!!」

 走りながら焦ったように声を上げて少女が急かす。だがついていくだけで精いっぱいの私は、それに答えているような余裕がない。

「何やってんのよオジサン。早く逃げないとあの女に痴漢にされちゃうよ。それでもいいの? そしたらオジサン会社クビだよ」

 情けないことに痴漢の犯人にされたことが、あまりにも唐突すぎて現実的なことが頭からすっぽりと抜け落ちてしまっていたことに今更ながら気が付いた。少女の言うとおりだ。痴漢にされたら間違いなく今の会社はクビになってしまうだろう。今職を失うということは、生活の糧を失うことであり、それはまさに今の私にとっては死刑にも等しい出来事だ。

「ちょっと……まって……」

「待てるわけないじゃん。早く逃げないと追いつかれる」

 息が上がってすでに走れなくなりかけている私に関係なく、少女はどんどん逃げていく。

「あともう少しで改札だから、改札出たらこっちのもんだよ」

 少女に励まされながら私は必死に走る。あえぎながら前を見ると目の前には改札。私は手を引かれたまま、やっとの思いで改札を抜けたのだった。


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