3.白兎
静かに揺れる七色のスープをじっと見つめて、火の爆ぜる音を聞いていた。
どのくらいの時間が経ったのかも分からない。
頭の中には白くもやがかかってきて、そのままチコごと空気に溶けてしまいそうな気がした。
そんな錯覚は心地よく、チコは無心に揺れる光を見つめ続けた。
ふいに、
「ねえ」
足元からかけられた高い声に、チコは小さなイスの上で跳ね上がった。
足がぶつかったテーブルの上で、スープの皿が引っくり返って中の液体がテーブルクロスに零れ出る。
白いクロスに吸い込まれていく七色は、まるで元々あったかのように虹の染みを作った。
「おや。なかなか素敵な模様になったじゃない」
足元からひょっこりと出てきた白い塊が、呑気に飛び上がると零れたスープを眺める。
自分の隣で跳ねる白い兎。
チコはぽかんと口を開けたまま、突然現れた新しい動物を見下ろす。
視線に気付いた兎は、跳ねるのを止めるとチコの足元で姿勢を正した。
「これは失礼。驚かせたようで申し訳ない」
器用に後ろ足で立ち上がると、紳士のごとく頭を下げて礼をしてみせる。
驚いた表情のまま見下ろしているチコに、兎は4つんばいに戻ると目を細めて笑った。
数度瞬きを繰り返してから、チコは大きく息を吸い込んで吐き出した。
身を屈めるように兎に向き合って、その赤い瞳を覗き込む。
「あなた、いつから居たの」
不思議そうに尋ねるチコに、兎は半ば埋もれた丸い尻尾を左右に揺するとまた笑う。
「最初から。ずっといたよ、チコ」
「私を知っているの?」
さらに顔を寄せながら目を丸くすると、白い兎は髭を揺らしてひくひくと鼻を動かした。
得意そうに顔を上げて、チコを見返す。
「もちろん。君のことは何でも知ってる」
自信たっぷりな様子で長い前歯を覗かせる兎。
チコはじっとそんな兎を観察した。
柔らかそうな毛で覆われた白い全身。ピンク色のよく動く鼻。たくさん生えた、これもよく動く白い髭。赤い大きな目は、しっかりとチコを見つめてくる。
「私は、あなたを知らないわ」
「だけどボクは、チコを知ってるよ」
困惑して呟いたチコの言葉に、相変わらず見上げて逸らされない赤い瞳が細められた。
「じゃあ教えて。私は誰?」
「チコは、チコだろう」
すぐに返された返答は、チコをがっかりさせた。
そんな事はチコも知っている。
肩を落としたチコに気付かないのか、白い兎は一つ飛び跳ねるとチコの足の上に前足を置いた。
「それじゃ、行こうか」
目を細めて鼻をひくつかせると、そう言って一っ飛び、チコから離れる。
驚いて、チコは兎へと手を伸ばした。
「どこへ行くの」
伸ばした手の先で、もう一つ、兎が跳ねて距離を開ける。
「君はここにじっとしているつもりなのかい?」
さらにもう一っ飛び。
チコを知っている兎の白い背中は、扉へと向って跳ねて行く。
「待って」
慌てて立ち上がったチコの視界が、景色が滲んで混ざり合うようにゆらり、と揺らいだ。
瞬きを一つ。
気がついた時には暗い海の上にいた。
上空に白い月。
音さえない、静かな空間。
周囲を見まわしても、今まで居たはずの黒猫の家はどこにも見当たらなかった。
視界の遥か先を、白い背中が遠ざかっていく。
チコは急いでその背を追った。
「ねえ、どこに行くの」
ふわり、ふわりと。
羽毛が風にあおられて浮き上がるように、兎は先へと跳ねていく。
小さなその背中に追いつく事は容易だった。
踏んでしまわないよう、チコは白い兎を数歩分距離をおいて追いかける。
「チコはどこに行きたいの」
ついて来ている事を確認するように、兎は一度振り返るとチコを見上げた。
「分からない」
ここが何処かも分からない。自分は兎の後についてきただけで、何処に行こうとしているかなど、チコには見当もつかなかった。
兎が向う先も、そこにはただ白い月に照らされた暗い海が続いているだけ。
「分からない。行きたい場所も分からない。自分が誰かも分からない。何処から来たかも分からない?」
揺れる足元の海と、その上を跳ねる兎の背中を見つめながら、チコは歩く。
尋ねる言葉には、頷くしかなかった。
足をとめて、振り返った兎が、伸び上がるように後ろ足で立つとチコを見上げる。
鼻をひくひくと揺らしながら、目を細めた。
「それじゃあ、チコは迷子だね」
「迷子」
言葉を繰り返すチコに、白い兎は一つ頷くと再び背を向けて跳ねていく。
暗い中に浮かび上がる白い兎を、チコは追い掛ける。
「私は、何処から来たの」
問い掛けると、弾かれたように兎の白い耳が揺れた。
振り向かない兎は、どうやら笑っているようだった。
「おかしな事を聞くね。そんな事は、チコが一番知っているはずだろう」
「思い出せないもの」
半ば予想はできていた期待はずれな兎の返答に、チコは肩を落としながらつぶやいた。
「思い出そうとしていないだけさ」
「違う。思い出せないの。思い出せるものが何もないの」
「何もない、だって?」
兎はようやく振り向いた。
「それは違うね。思い出すべきものは、無数にあるんだ。思い出せないのは、チコがそれを望まないから」
大きな赤い目がチコを見て、数度瞬いた。
「チコ。君は、どうしてここに居るの」
何度も聞かれたその質問。
分からない、と答えかけて、チコは言葉を飲みこんだ。
兎の目は食い入るようにチコを見つめていて、その瞳を見返しながらチコは真っ白な記憶の中を探る。
やがてぽつり、と言葉が口から零れた。
「…還っても、そこには何もないもの」
「何も…?」
丸い目を瞬いて、兎が鼻を揺らす。
「本当に、何もなかったの?」
チコは首を横に振る。
その言葉以外は何も、浮かんではこなかった。
そんなチコをじっと見つめていた赤い目は、やがて細められて伏せられる。
「何もなかったとしたら、それはね、チコ。君が見ようとしていなかったんだ」
言葉を区切ると髭を揺らした。
「君の周りにあったもの。大切なものも、綺麗なものも。君が見えなくなっていただけ」
言い聞かせるようにゆっくりと言葉を紡ぐと、兎は白い背を向ける。
ふわり、ふわりと。
遠ざかる兎の背中を、チコは再び追い掛ける。
兎の言葉を、頭の中で繰り返しながら。