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ゆらり  作者: 大正ふにに
3/5

3.白兎

 静かに揺れる七色のスープをじっと見つめて、火の爆ぜる音を聞いていた。

どのくらいの時間が経ったのかも分からない。

頭の中には白くもやがかかってきて、そのままチコごと空気に溶けてしまいそうな気がした。

そんな錯覚は心地よく、チコは無心に揺れる光を見つめ続けた。

ふいに、

「ねえ」

 足元からかけられた高い声に、チコは小さなイスの上で跳ね上がった。

足がぶつかったテーブルの上で、スープの皿が引っくり返って中の液体がテーブルクロスに零れ出る。

白いクロスに吸い込まれていく七色は、まるで元々あったかのように虹の染みを作った。

「おや。なかなか素敵な模様になったじゃない」

 足元からひょっこりと出てきた白い塊が、呑気に飛び上がると零れたスープを眺める。

自分の隣で跳ねる白い兎。

チコはぽかんと口を開けたまま、突然現れた新しい動物を見下ろす。

視線に気付いた兎は、跳ねるのを止めるとチコの足元で姿勢を正した。

「これは失礼。驚かせたようで申し訳ない」

 器用に後ろ足で立ち上がると、紳士のごとく頭を下げて礼をしてみせる。

驚いた表情のまま見下ろしているチコに、兎は4つんばいに戻ると目を細めて笑った。

数度瞬きを繰り返してから、チコは大きく息を吸い込んで吐き出した。

身を屈めるように兎に向き合って、その赤い瞳を覗き込む。

「あなた、いつから居たの」

 不思議そうに尋ねるチコに、兎は半ば埋もれた丸い尻尾を左右に揺するとまた笑う。

「最初から。ずっといたよ、チコ」

「私を知っているの?」

 さらに顔を寄せながら目を丸くすると、白い兎は髭を揺らしてひくひくと鼻を動かした。

得意そうに顔を上げて、チコを見返す。

「もちろん。君のことは何でも知ってる」

 自信たっぷりな様子で長い前歯を覗かせる兎。

チコはじっとそんな兎を観察した。

柔らかそうな毛で覆われた白い全身。ピンク色のよく動く鼻。たくさん生えた、これもよく動く白い髭。赤い大きな目は、しっかりとチコを見つめてくる。

「私は、あなたを知らないわ」

「だけどボクは、チコを知ってるよ」

 困惑して呟いたチコの言葉に、相変わらず見上げて逸らされない赤い瞳が細められた。

「じゃあ教えて。私は誰?」

「チコは、チコだろう」

 すぐに返された返答は、チコをがっかりさせた。

そんな事はチコも知っている。

肩を落としたチコに気付かないのか、白い兎は一つ飛び跳ねるとチコの足の上に前足を置いた。

「それじゃ、行こうか」

 目を細めて鼻をひくつかせると、そう言って一っ飛び、チコから離れる。

驚いて、チコは兎へと手を伸ばした。

「どこへ行くの」

 伸ばした手の先で、もう一つ、兎が跳ねて距離を開ける。

「君はここにじっとしているつもりなのかい?」

 さらにもう一っ飛び。

チコを知っている兎の白い背中は、扉へと向って跳ねて行く。

「待って」

 慌てて立ち上がったチコの視界が、景色が滲んで混ざり合うようにゆらり、と揺らいだ。

 

 瞬きを一つ。

気がついた時には暗い海の上にいた。

上空に白い月。

音さえない、静かな空間。

周囲を見まわしても、今まで居たはずの黒猫の家はどこにも見当たらなかった。

視界の遥か先を、白い背中が遠ざかっていく。

チコは急いでその背を追った。

「ねえ、どこに行くの」

 ふわり、ふわりと。

羽毛が風にあおられて浮き上がるように、兎は先へと跳ねていく。

小さなその背中に追いつく事は容易だった。

踏んでしまわないよう、チコは白い兎を数歩分距離をおいて追いかける。

「チコはどこに行きたいの」

 ついて来ている事を確認するように、兎は一度振り返るとチコを見上げた。

「分からない」

 ここが何処かも分からない。自分は兎の後についてきただけで、何処に行こうとしているかなど、チコには見当もつかなかった。

兎が向う先も、そこにはただ白い月に照らされた暗い海が続いているだけ。

「分からない。行きたい場所も分からない。自分が誰かも分からない。何処から来たかも分からない?」

 揺れる足元の海と、その上を跳ねる兎の背中を見つめながら、チコは歩く。

尋ねる言葉には、頷くしかなかった。

足をとめて、振り返った兎が、伸び上がるように後ろ足で立つとチコを見上げる。

鼻をひくひくと揺らしながら、目を細めた。

「それじゃあ、チコは迷子だね」

「迷子」

 言葉を繰り返すチコに、白い兎は一つ頷くと再び背を向けて跳ねていく。

暗い中に浮かび上がる白い兎を、チコは追い掛ける。

「私は、何処から来たの」

 問い掛けると、弾かれたように兎の白い耳が揺れた。

振り向かない兎は、どうやら笑っているようだった。

「おかしな事を聞くね。そんな事は、チコが一番知っているはずだろう」

「思い出せないもの」

 半ば予想はできていた期待はずれな兎の返答に、チコは肩を落としながらつぶやいた。

「思い出そうとしていないだけさ」

「違う。思い出せないの。思い出せるものが何もないの」

「何もない、だって?」

 兎はようやく振り向いた。

「それは違うね。思い出すべきものは、無数にあるんだ。思い出せないのは、チコがそれを望まないから」

 大きな赤い目がチコを見て、数度瞬いた。

「チコ。君は、どうしてここに居るの」

 何度も聞かれたその質問。

分からない、と答えかけて、チコは言葉を飲みこんだ。

兎の目は食い入るようにチコを見つめていて、その瞳を見返しながらチコは真っ白な記憶の中を探る。

やがてぽつり、と言葉が口から零れた。

「…還っても、そこには何もないもの」

「何も…?」

 丸い目を瞬いて、兎が鼻を揺らす。

「本当に、何もなかったの?」

 チコは首を横に振る。

その言葉以外は何も、浮かんではこなかった。

そんなチコをじっと見つめていた赤い目は、やがて細められて伏せられる。

「何もなかったとしたら、それはね、チコ。君が見ようとしていなかったんだ」

 言葉を区切ると髭を揺らした。

「君の周りにあったもの。大切なものも、綺麗なものも。君が見えなくなっていただけ」

 言い聞かせるようにゆっくりと言葉を紡ぐと、兎は白い背を向ける。

ふわり、ふわりと。

遠ざかる兎の背中を、チコは再び追い掛ける。

兎の言葉を、頭の中で繰り返しながら。


 






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