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ゆらり  作者: 大正ふにに
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2.虹色スープ

 どれだけ歩いたのかは分からない。

月は相変わらず上空に白く円を描いているし、足も疲れてはいないから、そんなに長く歩いたわけではないかもしれない。

果てまで続く暗い海の上、唐突に黒猫は立ち止まった。

数歩後ろで、チコも足を止める。

「ここだ。さあ、入りたまえ」

 振り向いた黒猫が前方を顎で示しながら言う。

チコは首を傾げた。

そこには何も無い。

ただただ、今までと同じ風景が音もなく続いているばかりだ。

見下ろした黒猫の瞳が僅かに細められて、チコを促す。

動こうとしないチコに、黒猫の尻尾が苛ついたようにパタパタと海の上を叩いた。

「…お邪魔します」

 そっと足を踏み出すと、小さな猫の横を通り過ぎる。

途端、チコは目を見張った。

 そこは小さな家の中だった。

どれもこれもチコのサイズよりも小さい家具が所狭しと並んで、やはり小さな暖炉には小さな火が灯されている。家具はどれも少し古びた木でできていて、黄色い壁紙にくっついている窓には緑色のカーテン。

足もとの海は消え失せて、ふかふかの臙脂色の絨毯が敷かれていた。

「そこに突っ立ってると邪魔だよ。掛けておいて」

 声をかけながら、後ろ足だけで立った猫が丁寧にドアを閉める。

チコはゆるく頭を振ると小さく笑った。

夢とはいえ、なんとも奇妙な光景だ。

言われた通りに腰を屈めながら小さなイスを引いて腰掛ける。

窮屈ではあったが、チコの体重をかけてもイスは軋む事もなく、チコは足を抱えるようにテーブルに向かう。

脇を通り過ぎる猫は4つ足で歩き、奥のキッチンまで行くとスープ皿を2枚、今度は後ろ足で立って歩きながら器用に運んできた。

小さなテーブルに小さな白い皿が並べられる。

空のスープ皿を覗き込むと、横から黒猫の前足が伸びてテーブル上に置かれていた水差しを傾けた。

水差しからは七色に光る液体が零れて、スープ皿に溜まっていく。

「それで」

 なみなみと液体が注がれた皿の片方をチコの前へと押しやると、黒猫はイスの上に飛び乗った。尻尾を身体に巻きつけてイスにちょこんと座ると、一口、七色の液体を舌で掬ってチコを見遣る。

「どうして君はここに居るの」

 最初の質問を繰り返す。

淡い光をゆらゆらと反射するスープ皿の中を不思議そうに眺めていたチコが視線を上げると、真っ直ぐに黒猫のはしばみ色の目とぶつかった。

「…ここは何処なの?」

 質問の答えではないチコの言葉に、黒猫の耳が不機嫌に揺れる。

程なくして、ピンと張っていた髭が、諦めたように垂れた。

「君にはどうも言葉が通じないらしい。…ここは誰の記憶にもない、だけど誰もが来る場所」

 さらに一つ、虹色のスープを舌で掬うとチコを見上げる。

「月が昇ると魂がやってきて、日が昇ると戻っていく。ここの海に癒されて、還って行くんだ」

「海」

 やはり今まで歩いてきたのは海だったのだ。

チコは頷いて、黒猫の言葉の続きを待つ。

「普通はね、還って行く。…君みたいなのを除いて」

 黒猫の目は、明るい今は細められ、チコを見ていた。

言葉の断片を繋ぎ合わせながら、チコも黒猫を見つめ返す。

「どうして君は、還らないの」

「分からない」

 チコは首を振ると虹色のスープへと視線を落とした。

黒猫の説明も分からないが、問いの答えはもっと分からなかった。

どうして、なんて、チコにもさっぱり分からない。

気がついたらここに居たのだから。

 ゆらゆらと揺れるスープの表面を、目を細めながら眺める。

黒猫がスープを飲む音が小さく響いて、時折暖炉の火の爆ぜる音がそれに混じる。

揺らめく水面は七色の光りを放ち、まろやかな波模様を描き出す。

水滴が落ちたように、一つ、スープの真中から波紋が広がった。

滑らかになる水面に、色褪せた映像が浮かび上がって、チコは僅かに目を見張る。

髪を束ねた、エプロン姿の女が洗濯物を干していた。

「…君は誰なの」

 再び黒猫の言葉が耳に入ってきて慌てて顔を上げる。

飲み終わったスープ皿を前に、顔を前足で毛繕いしている猫がチコを見ていた。

「私は、チコ」

「それで?」

 言葉を続けるよう促す猫に、チコは首を捻った。

自分はチコ。チコとは、自分の名前だ。

しかし、それだけだった。

他には何も、浮かんでくるものはなかった。

黒猫が、目の前で一つ、人間臭いため息をつく。

「自分が誰なのか、君は思い出さなければ」

 チコは黒猫を見る。

黒猫の耳は僅かに後ろに倒れて、所在なげに髭がそよいだ。

「自分を忘れてしまっては、還れなくなってしまう」

 そう言うと、黒猫はイスからなめらかな動作で飛び降りて伸びをする。

そうして柔らかい絨毯の上をゆっくりと歩いて、ドアの前で伸び上がるように立ち上がった。

「どこへ行くの?」

 声をかけたチコを、黒猫はチラと振り返っただけで肩を竦める。

「そんなに暇でもないんでね。君は、早く思い出すことだ」

 開いたドアの隙間から滑り出るように、黒猫の身体はドアの向こう側へと消えた。

静かな音と共にドアが閉まるのを眺めていたチコは、小さく息を吐き出しながら目の前のスープ皿へと視線を落とした。

七色に光る液体は淡い灯りを受けてゆるやかに光りを跳ね返すばかり。

先ほどの映像は跡形もなく消え失せていて、覗き込めば虹色の水面が嫌がるように揺らめいた。


 

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