1.黒猫
「君は、どうしてここに居るの」
チコは目を丸くした。
もともと大きく黒目がちな目をますます大きくして、そうして自分の膝の上を凝視する。
そこにちょこんと座った黒い猫は、真ん丸い目を光らせてチコを見上げている。
上空から降り注ぐ淡い月の光に、黒い毛並みが柔らかな光沢を刻む。
チコと、猫の他には、誰もいない。
黒い猫は、チコを見上げながら苛ついたように長い髭をそよがせた。
「君は耳が聞こえないの。それとも口もきけないの」
一つ瞬きをして、唾を飲みこむ。
乾いた唇を噛んで湿らせると、喉に詰まっていた言葉がようやく口から零れ出た。
「…あなた、何?」
何、と聞いたのは、チコの頭には「喋る猫」というものはインプットされていなかったから。
耳に届いた声が、確かに目の前の猫から発せられたものだとはとても思えない。
「こっちが聞いているんだけどね。どうしてここに居るのかって」
やはり苛ついた様子で髭をひくつかせながら、猫はチコの膝の上から飛び降りた。
「どうして…」
頭には入ってこない言葉を口先だけで反復しながら、チコの目は黒猫の動きを追う。
膝から降りた猫は軽く身震いすると、向けられた視線を厭うように忙しなく毛繕いを始めた。
器用に尻尾の先まで舌で整え、胸元の毛繕いが終わると舐めた黒い小さな手で顔を擦る。
タプン、とその足元で水が跳ねた。
…ああ、海だ。
チコと、猫と。
その下にはただただ暗い水が時折月の光を反射して揺らめいている。
その上に座っているはずなのに、水の冷たさは感じなかった。
薄い膜でも張っているかのように、沈んでいく事もない。
上空には、ただ月だけが星さえない暗い空を丸く切り取っている。
チコは再び、目の前の猫に視線を戻した。
ようやく毛繕いを終えた猫が、億劫そうに首をもたげてチコを見る。
「…ああ、何だ」
その金色に光る瞳を見返しながら、今度は滑るように言葉が漏れた。
何処か分からない場所、得体の知れない喋る猫。
やっと納得がいった。
これは夢なのだ。目覚めるまでのしばしの間、起きてしまえば記憶にも残らないだろう夢。
「…耳も口も正常。どうやら、君のおつむに問題があるみたいだね」
ゆるゆると首を振って、返答を諦めたのか黒猫が肩を竦めた。
その動作があまりにも人間臭くて、チコは小さく肩を揺らす。
チラリとそんなチコの様子に目を向けた猫は、呆れたように目を眇めてから立ち上がった。
「まあいいや。とにかく、ここにいられると困るんだ」
言いながら、しなやかな動作で背を向けると歩き出す。
静かな水面を波紋さえ作らずに歩いて行く猫の背をぼんやりと眺めていたチコに、足を止めた黒猫が顔だけで振り返ると髭を揺らした。
「聞こえなかったの。ここにいられると困るって言っているだろう」
ついて来い、と言う事だろうか。
チコはゆっくりと腰を上げると、黒猫の背中を追う。
歩くたびに足裏を擽る水面は、絹の薄布の上を歩いているようにやさしい。
ついてくるチコを確認すると、再び猫は歩き出した。
それ以上は振り返ろうとしない猫を、チコはただ追い掛ける。
闇に溶けてしまいそうな黒い毛並みを、月の光りが包み込んでチコの視界に映した。
音は無かった。
水音も、足音も、自分の呼吸の音さえ聞こえなかった。
不思議と不安はない静かな世界を、チコは猫の後について歩き続けたのだった。