第9話 はじめてのキス
私の家までの道中、勇凛くんはずっと無言だった。
いったいどうしたの?
いつもの雰囲気と違いすぎて声をかけにくかった。
最寄駅に着いたあと、自宅までの道のりは静かな住宅街で、それが気まずさに拍車をかけた。
何も話さないまま自宅マンションに着いてしまった。
「勇凛くん、迎えに来てくれてありがとう」
「いえ、当然のことをしただけです」
勇凛くんがやや不機嫌なのが気になって、なかなか動けずにいた。
「私何か怒らせちゃったかな……」
「……七海さんは何悪くないです」
「でも──」
「俺は七海さんが困ったことがあっても、仕事では何も助けることができません」
勇凛くんは俯いた。
勇凛くんは──
自分が年下で、まだ学生だってことに劣等感を持っているんだ……。
私も年下扱いしてしまっていた。
勇凛くんは私と肩を並べようとしているのに。
「勇凛くんごめんね。勇凛くんの気持ち、ちゃんとわかってなかった」
私は勇凛くんの手に触れた。
「勇凛くんは、そのままでいい。私がちゃんと、私たちが夫婦だって胸を張って言わなきゃいけなかった」
「いえ。まだ俺は学生なんで、七海さんが言いにくいのはわかります」
勇凛くんは手を握り返してくれた。
「四月から俺も社会人なんで、もっと頼り甲斐がある男になれるように頑張ります」
勇凛くんの真っ直ぐな瞳が眩しかった。
「……あの、一つお願いしてもいいですか?」
お願い?
「うん。なに?」
勇凛くんは少し時間を置いた後呟いた。
「キスしてもいいですか……?」
私は言葉を失った。
「え、今……?」
勇凛くんは頷いた。
「でも、七海さんが嫌なら、いいです」
勇凛くんは私の気持ちを第一に考えてくれる。
なぜこのタイミングかはわからない。
それで勇凛くんの心が満たされるなら──
「……いいよ」
勇凛くんは顔を上げた。
「本当ですか?」
「うん。だって私たち一応夫婦だし……」
夫婦なのにキスすらしたことがない。
「ありがとうございます。嬉しいです」
キスなんて初めてじゃない。
なのに、ものすごい緊張している。
「あの……ここだと近所の人に見られちゃうから、家の中にしようか」
「はい」
私は勇凛くんを連れて、また部屋に帰ってきた。
私は勇気を出した。
「勇凛くん!いいよ!」
私は目を閉じた。
「じゃあ、いきます」
不思議なやりとりだ。
緊張して心臓が破裂しそうだった。
その時、柔らかい感触が──
目を開けると、恥ずかしそうにしている勇凛くんの顔が目の前に。
こんな至近距離で見たのは初めてだった。
甘酸っぱい気持ちになった。
まるで初恋の相手と初めてのキスをしたような──
「ありがとうございます」
勇凛くんは離れた。
「七海さんにまた近づけてよかったです。じゃあ、俺帰ります」
勇凛くんは玄関から出ようとした、その時。
私は勇凛くんの腕を掴んでいた。
無意識だった。
「どうしましたか?」
勇凛くんは驚いてる。
なんで私はこんなことを?
でもわかった。
私はまだ勇凛くんと一緒にいたいんだ。
「勇凛くん、まだ時間ある?」
「はい」
「じゃあ、もう少しゆっくりしていってくれると嬉しいな……」
勇凛くんの瞳が輝いている。
「はい!」
私たちの心の距離がまた少し近づいた気がした。
「勇凛くんお腹空いてるよね?」
「はい、少し。何か作りましょうか?」
「え!昨日も作ってもらったからいいよ。今日は何か頼もうよ」
「ダメですよ。医者から言われてますよね?ちゃんとした食事を食べないと」
勇凛くんは冷蔵庫を覗いた。
「昨日の残りの食材が少しありますけど、これじゃ足りないので俺今から買いに行ってきます」
「そこまでしなくていいよ!」
「でも七海さんの体が大事ですから」
好意は嬉しいけど真面目すぎる。
「じゃあ私も行くよ」
「七海さんは休んでてください」
「勇凛くんだけに任せてのんびりしてるのは嫌なの!」
──沈黙が流れた。
「わかりました。すみません。暴走しました」
「ううん。私のためにありがとう。一緒に買いに行こう」
私と勇凛くんは二人で歩いてスーパーに向かった。
勇凛くんの手が私の手元にきた。
私は勇凛くんの手を握った。
あっという間にスーパーに着いた。
二人で食材を見て回る。
「勇凛くんは何が好き?食べ物」
「和食が好きですけど、なんでも食べますよ」
「じゃあ今度カレー作ろうかな……」
カレーくらいしかまともに作れない。
もっとレパートリー増やさないと。
「七海さんのカレー食べたいです」
嬉しそうな勇凛くんの表情。
「うん、落ち着いたら、ね」
「七海さんは今日何が食べたいですか?」
「うーん。ハンバーグかな……」
その時思い出した。
ハンバーグの作る手間を。
「ごめん、今の忘れて」
「なんでですか?」
「ハンバーグって手間かかるし」
「七海さんが食べたいものにしましょう」
勇凛くんは肉コーナーに行って挽肉を入れてきた。
「え!本当に作るの?」
「はい。うまく作れるかわかりませんが」
他にも食材を買い込んで、また二人でマンションに帰った。
◇
キッチンに立つ勇凛くん。
「エプロンありますか?」
「え、エプロン使うの?」
「油飛ぶのであると助かります」
私の持ってるエプロン、ピンクの花柄なんだけど。
「こんなのしかないんだけど……」
勇凛くんに差し出すと、特に顔色も変えず「ありがとうございます」と言って、エプロンをつけて玉ねぎを刻み始めた。
背の高い若い美形男子が、ピンクの花柄エプロンをつけてキッチンでハンバーグを作ろうとしている。
はたから見ると不思議な光景だ。
今でも夢なんじゃないかと思っている。
私は勇凛くんの近くに行った。
「どうしましたか?」
「一緒に作ろうと思って」
「じゃあ、混ぜたの形作ってください。俺焼きます」
ハンバーグも作れる勇凛くん。
なんて有能なんだ!!
勇凛くんと並んでハンバーグを作る。
それがなんだか幸せだった。
◇
二人で出来上がったハンバーグをテーブルに並べた。
「美味しそう!いや、絶対美味しい!」
「七海さんも一緒に作ってくれたんで、美味しいですよきっと」
私はただ形を作ってただけ……。
二人で一口目を食べた。
「美味しい!勇凛くん天才!」
「いや、このくらい普通ですよ」
「そんなことないよ!私まともに作れないし」
「これからは俺が作るから大丈夫ですよ。心配しなくても」
ハンバーグが喉に詰まりそうになった。
まだ付き合いたてみたいな気持ちなのに、夫婦だという現実が、感情の処理を難しくする。
二人でハンバーグを食べて、ご馳走様をしたあと、勇凛くんは帰ろうとした。
「明日は大学とバイトなので迎えに行けないんですが、何かあったら行ってください」
「うん、ありがとう。気をつけてね」
そう言った瞬間、目の前の景色が歪んで視界が狭くなった。
「七海さん!」
倒れそうになった時、勇凛くんに腕を掴まれて、そのまま二人で倒れ込んでしまった。




