第二話 女神との決別
意識がふわりと浮上して、閉じていた目を開ける。
かつて夢の中で女神様と語らった、暖かく穏やかなあの場所に私はいた。
「おはよう、私の愛しい子」
「……」
私を助けてくれたの?と一瞬考えたが、”あの時”を思い出し叫びそうになる己を抑えつける。
「怖い思いをさせてごめんなさい。もう大丈夫よ。あなたは生まれ変わったの」
「生まれ変わった……?」
「運命を曲げることはできなかった。あなたはあそこで命を終えるしかなかったの。でも大丈夫。新しい命を授けたし、記憶も残したわ」
そんなもの、いらない。
反射的にそう思ってしまった自分に驚く。
今まで私には存在しなかった『拒絶』という選択肢。
死を経験したからこそ、二度と同じ目に遭いたくないと、本能が拒絶した。
「聖獣として、人々を救うの。人ではないから、もう悪意に晒されることはないわ。私の選んだ者の傍で、その者を守り、人々を幸せにする手伝いをする」
「……なぜ、ですか」
「なぜって、どういうこと?」
「なぜ私なのですか」
「だって、私が手塩に育ててきた可愛い子だもの。幸せになって欲しいわ」
「私の幸せは、人々を救うこと、だと?」
「違うの?幸せだったでしょう?」
幸せだったのだろうか……。
女神様に愛され、多くの力を与えられた事は幸運だったのだろう。
人々に感謝され、尊敬され、信仰を集めたことも悪い出来事ではないと思う。
でも、幸せと思った事はあったのだろうか?
女神様に褒められること、力を与えられる事は嬉しかった。認められ、もっと頑張ろうと思えた。
求められた事を求められる以上に頑張ってきた。だって、私はそういった生き方しか知らなかったから。
「……」
「あなたは私の言う通りに生きれば幸せなのよ」
その言葉に心の底から寒気がした。
言う通りに生きたから私は死んだのに?
あの結末をあなたは幸せだというの?
「……お断りします」
「え?」
「もう、あなたの為に生きるのは嫌なのです。だって、信じていたのに、あなたは私を助けてはくれなかった。汚れた私を嫌ったのでしょう?」
「違うわ!神は決められた運命に干渉できないの、だから仕方がなかったのよ」
「それでも私は、あの時、助けて欲しかった」
「……」
「どうぞ、今ここで私の命を奪ってください。あなたの愛しい子はもういないのだから」
「……ダメよ、できないわ。どうして私が愛した子を殺さなければいけないの?」
「見殺しにしたくせに」
「だから、こうして新しい命を……」
「新しい命が欲しいと私は願いましたか?私が願ったのはあの場から助けられることだけです」
「……それでも、殺せないわ」
女神の瞳には、一点の曇りもない慈愛が満ちている。
それが何よりも恐ろしかった。
この人は、私がどれだけ傷ついても、己が正しいと信じた事を与え、それが幸せだと言うのだ。
それがどんなに私を苦しめているかわからないまま、愛を免罪符に全て見なかったことにしている。
話にならないとため息をついて、近くの泉で自身の姿を確認する。
白く大きな狼の姿は、なるほど聖獣という名に恥じない姿だ。
自分の内にある力を探れば、聖女として扱ってきた聖属性の力もこの身に流れている。
「御前失礼いたします」
「どこへ行くの?」
「行く当てもなく、どこか遠くへ」
「そう」
どうすればこの場所から人の住む世界へ降りられるかは分かっていた。その道をたどる為に女神に背を向ける。
ここではない場所なら、どこだって構わなかった。
かつて私を死に追いやった人間たちの世界ですら、この一方的な愛や幸せに満ちた鳥かごに比べれば、まだ私の幸せを探せるだろう。
「ずっとずっと愛しているわ。私の愛しい子」
神の愛などろくなものではない。
聖女の時の私がそれに気が付いていれば、あのような死に方をしなかったのだろうか。
人の世界に降り立って、気ままに旅をする。
そこで知ったことは女神が救えと心配するほど、世の中は不幸ではない、ということだ。
そこにある人の営みは、苦しくても日々の活力に満ちており、その中から小さな幸せを感じ取る。
大きな幸せも、耐えがたい不幸も等しく降り注ぎ、その人間の人生を豊かにする。
幸せは与えられるのではなく、自ら掴み取る物なのだと。
旅の最初の頃は、見返り無く人々を助けていた。それは聖女の時の習慣のようなもので、困っている人がいれば、反射として手を差し伸べることは当然のことだと思っていた。
でも、そうして一つのところに留まっていると、次第に人はその助けを当たり前のように受け取ってしまう。
そして、それを行使しないと怒り、攻撃してくるのだ。
それは私を捕らえ殺した人間と何ら変わらない人の醜さだった。
どこに行ってもそういう事が起こるし、見返りを要求したとしても、見返りさえ渡せば言うことを聞くという誤解が広がる。
そうしている内に、なぜこんなにも醜い人間と一緒にいなければならないのか、という疑問が沸いてきた。
人を助けなければいけないという義務はもうない。
彼らの中で生きていく事が絶対というわけでもない。
ならばいっそ人との関わりを絶ってしまおうと、人の間で魔の森として恐れられている森へと足を踏み入れた。
幻惑の結界が張られていたが、その程度は問題はない。
問題なのは、強烈に漂う呪いの匂いだ。
「うーん、くさい……」
終の棲家にしようとしている森でそんな匂いを毎日嗅ぎたくない。
その発生源を探しに行って、私は白銀のドラゴンに出会った。
「何者だ?」
「名前はありません。ここに住ませていただけるなら、その呪いを浄化します」
「不要だ。俺はここで朽ちる運命だ」
「どうして?」
「どうして、とは?」
「助けられるという者に縋らないのは何故?」
不思議だった。
死の淵にいるものは藁にもすがる思いで、その光に手を伸ばすというのに。
誰でもそうだった、こうして条件をだせば必ず受け入れるのが他のものだった。
「平凡な毎日に飽きたから。一人で無為に時間を過ごしても退屈なだけだ」
「死にたいほどに退屈、ということ?」
「まぁ、そうだな」
「私がここに住むなら二人になるわ」
自然と口からこぼれ出た言葉だった。
人を嫌って一人で暮らしていこうと思ったのに、どうしてこのドラゴンと一緒に過ごそうと思ったのだろう?
「は?」
「私はあなたの事が知りたいの。だから助けていい?」
あぁ、そうか。
知りたいのだ。
特別な私を求めないその心が何よりも美しいと思ったから。
初めて自分の我がままで力を使おうとしている事に高揚していた。
この人を助けたいというよりは、死にたくなるような退屈や、私に助けを求めないという心を知りたかったのだ。
「……好きにすればいい」
そうして私は横たわる白銀のドラゴンに鼻先を触れさせた。
鼻先に触れたその場所から、かつて与えてきたものとは違う、私自身の熱が伝わっていくような気がした。




