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愛に代えて鮮やかな花を

作者: Ono

 

 シャンデリアの光が氷柱のように鋭く降り注いでいた。

 磨き上げた大理石の床も、今の私にはまるで暗く揺らめく底なしの沼。

 そこに映る顔は誰の目にも哀れな女に見えた。


「エリシア・グローヴナー公爵令嬢。君との婚約を、この場限りで破棄する」


 大広間に静かに響いた玲瓏な声が舞踏会の喧騒を断ち切った。

 凍りついたように音楽が止む。享楽に耽っていた人々が硬直したまま私たちを凝視する。

 私の目の前に立っているのは、この国の唯一の希望、王太子アリステア。金色の髪は太陽そのもののように輝き、見慣れた碧眼がまっすぐに私を射抜いている。

 けれど彼の瞳にかつて私に向けられていた慈愛の色はなく、あるのは荒れ野を吹き荒ぶ冷たい風に似た冷徹さだった。

 アリステアの熱情は、隣に寄り添う小柄な影だけに向けられている。私ではなく。


「……殿下、今、なんと仰いましたの?」

 私の声は震えていたはずだ。喉の奥が惨めに引き攣り、肺の中の空気さえも急速に冷えていく。

 唇が震えるのを悟られぬよう、指先が白くなるほど強く扇の柄を握りしめて覆い隠した。

「聞こえなかったのか。君との婚約は白紙に戻すと言ったんだ。僕は、ここにいるエヴァを新たな妃として迎える」

 アリステアの腕に守られるようにして立つ少女、“王太子のエヴァンジェリン”。招かれざる平民の身でありながら、彼女は当たり前の顔をしてそこに立っていた。

 豪奢な輝きを放つドレスの洪水の中、彼女の簡素なドレスは野辺に咲く可憐な花のように清楚で儚く、何よりも異彩を放っている。

 彼女がおずおずとアリステアの外套の袖に触れると、アリステアは彼女を庇って私の視線を遮った。


 母から継いだドレスが重い。私は軽やかな無垢とは程遠い。

 好奇の視線が私たちを取り巻いている。エヴァの前で、自身の重さに首を垂れる私はさぞや滑稽なことだろう。

「わたくしは幼き日より殿下にお仕えし、王妃となるべく教育を受けてまいりました。それをこのような……どこの馬の骨とも知れぬ娘のために反故になさるなど」

 正気ではございませんわ。どこまでも平静を装ってそう告げた私に、アリステアの顔が青褪める。

「言葉を慎め、エリシア!」

 聞いたこともない彼の怒声が私の鼓膜を打ち据えた。

「エヴァは真の献身と誠実を心に持つ美しい女性だ。身分や家柄で人を判断するその傲慢さこそが、王位に相応しくない欠陥なのだよ」


 周囲から嘲笑が漏れ始めていた。囁き声は扇に隠し、それでも確実に私に届くようにと大理石を伝って忍び寄る。

「グローヴナー家の才媛も地に落ちたものですね」

「怜悧なお嬢様の耳が痛くなるお言葉よりも、幼気な平民の娘が黙って微笑んでいるほうが、殿下もお心が安らぐのでしょう」

「無理もありませんな。エリシア嬢は少々……男にとっては“高貴”すぎる」

「そもそもグローヴナー家は先代の浪費で傾いているという噂ではないか」

 嘲り。侮蔑。遠い他人の不幸を甘やかな蜜として味わう、下品に粘ついた好奇心。

 ああ、虫唾が走る。


 視界が明滅し、乱れそうになる呼吸を必死で整えた。この期に及んで無様を晒したくはなかった。

 悪夢が私の脳を支配する。美しかったはずの私の人生が、崩れ落ちていく音が聞こえる。

「殿下、どうかお考え直しください。この国のために、わたくしたちの未来のために」

 私にはあなたしかいないの。最も深いところに響く言葉は胸にしまって。

「国のため、か。君の口から出る言葉はいつもそればかりだ」

 アリステアは吐き捨てるように言った。彼の手がエヴァの肩を優しく抱き寄せ、彼の瞳が無感動に私を見下ろす。そこに映るのは訣別だった。

「僕は『真実の愛』を選ぶ。皆もそれを望んでいるだろう」


 劇的な音を立てて大広間の扉が開け放たれる。

 王宮の外から民の声が雪崩れ込んでくるようだった。

 ――真実の愛を!

 ――平民の娘に祝福を!

 ――高慢な貴族に鉄槌を!

 あつらえたようなシュプレヒコール。きっとこの場にいる誰もが共有していた幻聴が、王宮を焦がす熱狂の渦となり、アリステアとエヴァンジェリンを英雄として讃えていた。

 そして私は「美しき愛を引き裂く悪役」だ。

 鉄の味が口の中に広がる。

 私が積み上げてきた愛も献身も、この熱狂の前にはすべてが無価値な塵芥に過ぎない。


「……後悔、なさいますわよ」

 その警告は私の喉奥に掻き消えて、アリステアにしか聞こえなかったに違いない。


 ***


 王宮の長い回廊を歩き、庭園に差し掛かった時、私の脳裏に幼き日の光景が蘇った。あたたかな陽射しが溢れる追憶の庭。

『エリシア、見て。庭師が新しいバラを植えてくれたんだ』

 幼いアリステアは泥だらけの手で一輪の赤いバラを私に差し出し、無邪気な笑顔を向けてくれた。それを受け取った私の頬もバラの色に染まっていただろう。

『すてきですわ、殿下。でも泥を落としませんと、侍従長に叱られます』

『いいじゃないか。泥に塗れて叱られながら、僕たちは一緒に、一番美しい花を咲かせるんだ』

 先王が崩御なさって、現陛下が即位したばかりの頃だった。家という背景を持たず武功で玉座を与えられた真新しい王と王太子を、貴族たちは笑顔の裏で蔑んでいた。

 聡い彼は父と自分の孤立を敏感に感じ取り、歴史ある公爵家の娘を唯一無二の友として、盾として、恋をした。


 私たちは共犯者だった。

 弱い地盤の王家を支えるため、私は父から厳しく教育された。感情を見せるな。民の感情を見ろ。あくまでも冷徹に、国を富ませる算段を立てろ。殿下のために。

 私たちの恋は最初から策略の色を纏って咲いていた。

 アリステアが温かな情熱で民を照らし、私が冷徹な理性で土壌を整える。そうして私たちの庭園を育んでゆけるはずだった。


 自室に戻ると、侍女たちは既に去った後だった。王太子に捨てられた公爵令嬢の味方は、もうこの王宮にはいない。

 鏡に映る自分の顔を見る。なんて蒼白い。月夜に現れる亡霊のよう。けれど青い瞳の奥に、消えることのない暗い炎が揺らめいている。

「愚かしい」

 低く呟いた言葉が誰に向けたものなのか、自分でも判然としなかった。


 数日後、私はいつものようにアリステアの執務室を訪れた。

 扉の前を守る衛兵たちの視線も冷ややかだ。最敬礼で迎えながら、兜の下ではすでに「元婚約者」への敬意などなくしている。


 部屋に通されるとアリステアは机に向かったまま顔も上げずに私を迎え、人払いすらされていなかった。書類を待つ大臣も、お茶を運んできたメイドも、あろうことかあのエヴァまでも彼の隣に侍って私を見ている。

「何の用だ、エリシア。僕は忙しい」

「殿下。先日のことは、何かの間違いですわよね? 宴の熱に浮かされていただけだと仰って。あのような愚かなこと」

 扇の柄を握りしめ、必死に訴えかける。プライドをかなぐり捨てて取り縋る、なんて哀れな女。

「くどい。現実を認めたまえ。間違いだったのは、僕たちの婚約のほうだ」

「愛で政は成り立ちません。あの女に何ができますの? 外交儀礼も、財政のいろはも知らぬ平民に」

 エヴァはびくりと肩を震わせ、アリステアの背後に隠れた。

「そんな……私はただ、アリステア様をお支えしたいだけです。愛はお金で買えませんわ」

「黙りなさい、卑しい泥棒猫が! 誰に向かって話しているの!?」

「黙るのは君だ、エリシア!」

 私が声を荒げるのに呼応するかのように、アリステアが彼らしからぬ乱暴さで机を殴りつけた。インク壺が跳ね、書類に黒い染みが広がっていく。


 心臓がどくどくと脈打っていた。彼のこんな声を、聞きたくはないのに。彼にこんな風に見つめられたくはないのに。

「エヴァを侮辱することは僕自身を侮辱するも同じだ。出て行け。二度と顔を見せるな」

「殿下、あなた様は騙されているのです。下賤な身の上の女に……」

「衛兵! この者をつまみ出せ!」

 衛兵たちに腕を掴まれ、部屋から引きずり出される。厳かに扉が閉ざされる寸前、かつてのように優しいアリステアの声が微かに聞こえた。エヴァを慰めるための声だった。


 乱れた髪も直さず廊下に立ち尽くしている私の横を、文官たちが嘲笑を押し隠しながら通り過ぎていく。

 扉を見つめたまま、ふ、と微笑のような息が漏れた。


 ***


 城下の喧騒は祝祭の色を帯びていた。王太子の「真実の愛」は吟遊詩人の歌となり、酒場の与太話となり、瞬く間に国中へ広がっていった。

 民衆の目には旧態依然とした貴族社会が映り、彼らは批判に熱中する。

 公爵令嬢エリシア、純真なる二人の愛を引き裂く悪女。

 王太子アリステア、古き因習と戦う改革の聖騎士。

 彼らは物語を求めている。自分たちの退屈な日常を豊かな楽園に仕立てるための、支配者の没落を。

 彼らは悪役を探している。振り上げた手のひらで打ち据えて心を満たすための、誅すべき愚者を。


 そこに描かれているのが私ではなかったとしても、彼らの色がエリシア・グローヴナーを作り上げるのだった。

 グローヴナー家は民の血税で肥え太っている。

 公爵令嬢のドレス一着で村が一つ救える。

 朝に罪もない子供の血を啜り、夜は若い男を寝床にして悠々と眠る。

 王家を誑かして貴族を欺き、民衆を踏みにじる、悪魔のような女。

 醜いデマゴギーが民の唇を介するたびに真実として通りを駆ける。


 王は沈黙を守っていた。

 確かな系譜を持たない一代の王は、民意の怪物に逆らえない。彼自身がその怪物によって玉座に押し上げられた存在なのだ。

 血筋でも財力でもなくただ武勇によって名誉を得て、民が自ら戴いたのが、現陛下だった。

 そして平民の血を引くアリステアも。


 ***


 アリステアの言動は日に日に過激になっていた。もはや彼は私を近づかせもしなかった。

 彼は公務を欠席し、エヴァと共に街へ繰り出しては民衆に金貨をばら撒いた。国庫が逼迫していることなどお構いなしだ。

 民衆は降り注ぐ金にただ熱狂し、彼を讃えた。


 ある夜会のこと。それは隣国の使節を迎える重要な席だった。

 私は招待されていなかったけれど、父の旧知である将軍の手引きで会場に潜り込んでいた。

 すでに失うものはない。ただアリステアに最後の説得を試みる。そんなことは無駄だと重々承知でいたけれど。


 隣国の使節を前に、アリステアはエヴァの腰に手を回して笑みを浮かべている。

 滑稽なまでに蕩けた表情に知性は感じられず、外交の話などしていないのは遠目にも明らかだった。

 一歩近づくたび、使節の顔に拭いきれなかった困惑の跡が見えてくる。

「殿下」

 アリステアの笑顔が、会場のざわめきが、凍りついた。


「警備は何をしている! 誰がこれを通したのだ!」

「殿下、いい加減に目を覚ましてくださいませ。隣国との通商条約の期限が迫っております。今は、戯言にかまけている場合では……」

 私はアリステアに歩み寄ろうとした。エヴァが細い悲鳴をあげて倒れ込んだのはその時だった。

「あっ……エリシア様、何をなさいますの?」

「え?」

 間抜けな声が漏れた。私は彼女に指一本触れていない。彼女は自らこちらに向かって転び、私を見上げて涙を浮かべていた。


「私は何もしていません!」

「嘘をつけ! 僕は見たぞ、君が足をかけたのを!」

「私は……」

 アリステアの顔が怒りで真っ赤に染まる。その手が振り上げられ、そして――。


 乾いた音が、ホールに木霊した。頬に熱い衝撃が走る。

 視界が横に滑り、気づくと私は無様に床を這っていた。


 王太子が、公爵令嬢を殴った。

 公衆の面前で。

 隣国の使節の目の前で。

 頬に広がる熱が羞恥なのか驚愕なのか、痛みなのか、分からなかった。

「君には失望した。心根の腐った女だ」

 アリステアは冷徹に言い放つと倒れているエヴァを抱きかかえるように支え起こした。


 周囲の貴族たち、衛兵や、給仕たちから、私を非難する声があがるかと思っていた。意外にもそこにあるのは奇妙な静寂だった。

 あまりにも品位を欠いた行動、外交の場での醜聞。

 王族の威厳が損なわれる瞬間を目の当たりにし、熱狂に冷水を浴びせられたように静まり返ったのだ。

「王太子よ」

 王の重々しい声が広間に響く。陛下は悲痛な面持ちで息子を見つめていた。

「王族としてあるまじき振る舞い。……アリステア、お前に王位を継ぐ資格はない」

「父上!? しかし、これはエリシアが……!」

「黙れ! 民の前で恥を晒し、国益を損ない、あまつさえ女性に暴力を振るうなど。お前を廃嫡とする。二度とこの国に立ち入ることを許さん」


 国外追放。有無を言わさぬ王の宣言に、アリステアは愕然と膝をついた。エヴァもまた、青ざめた顔で震えている。

 私は床に伏したまま、呆然とその光景を見ていた。

 胸の奥ではどす黒い歓喜と、どうしようもない空虚さが渦巻いている。

 これでいい。

 これで、すべてが終わったのよ。


 ***


 季節は巡り、秋の気配が濃厚になり始めた頃。私は国境を越えた隣国、アケディア帝国の離宮にいた。

 このバルコニーからは燃えるような紅葉の森が見渡せる。

 白磁のカップに立ち上る湯気は、かつて私の故郷だった国とは違う異国の香りがした。

「……エリシア。頬の具合はどうだ?」

 かけられた声に振り返る。そこには質素な庭師の服を身にまとって泥に塗れたアリステアが立っていた。

 絹のシャツも煌びやかな王太子のマントもない。けれどその顔つきは狂乱の舞踏会とは別人のように穏やかで、秋らしい悲哀の色を帯びていた。


「またそれですの? 痕も残っておりませんわ、殿下」

「もう殿下ではない」

「ふふ……そうでした、アリステア」

 アリステアは苦笑し、私の隣に並んで手すりに寄りかかった。

「痛くないように、しかし音だけは派手に鳴るように。何度も枕を相手に練習した甲斐があったかな」

「そんなことをなさってましたの?」

「たまに自分の頬で試したよ」

「まあ」

 思わず彼の頬に手を伸ばすと、アリステアは顔を赤くして飛び退いてしまう。


 そう、あの一撃は、予定されたものだった。私の転倒もエヴァの悲鳴も、婚約破棄さえも、すべては私たちの庭園の設計図だった。


 部屋からバルコニーへ、足音を消して一人の女性が現れる。

「仰ってくだされば、人の殴り方などいくらでもお教えしましたのに」

 気配も感じさせない静かな身のこなし。今はメイド服に身を包む彼女は、あの「可憐な平民の少女」エヴァンジェリン……アケディア帝国の密偵だった。

「なんてことを言うんだ、君は」

 呆れ顔でアリステアが呟く。エヴァの瞳にはもう、アリステアへの関心の欠片も見当たらない。ただ職務を全うする冷徹な光を私たちに向けてくる。


「報告いたします。我が帝国軍は国境の砦を突破しました。ディカイオス王国軍の抵抗は微弱。王都の門が開け放たれ、民衆が逃げ惑っているとのことです」

 エヴァの淡々とした報告は、私たちの故郷が終焉を迎えたことを告げる鐘の音だった。

「そうか。父上は?」

「王城に残り、最後まで指揮を執る、と」

「……報告ありがとう、エヴァ」

 アリステアの手が、白くなるほど強く握りしめられている。私はカップを置いて、そっと彼の手に触れた。


「民はどうしていますか?」

 私が問うと、エヴァは僅かに眉をひそめた。彼女は私の心情を正確に理解しているのだ。

「逃げそびれたディカイオスの民は空になった貴族の屋敷を略奪し、僅かな食料を奪い合っています。彼らが望んだ『自由』に相応しい無秩序ですね」

 辛辣な言葉にアリステアの手が震えるのを感じながら、私は遠い記憶を見つめていた。


 まだ私が少女だった頃。まだ、父も母も生きていた頃。父は王国の財務大臣だった。

 度重なる飢饉と先王の無謀な外征によって、国庫は空に等しかった。

 父はグローヴナー家の私財をすべて擲った。先祖代々の宝飾品も美術品も、土地さえも売り払い、隣国に頭を下げて小麦を買いつけ、民に配った。

 家が傾くほどの借金をして国を支えたのだ。もちろんそれで賄いきれるわけもなかったのだけれど。

 民衆はそれを知らなかった。決して知ろうとしなかった。

 屋敷が少しずつ質素になっていくのも、父が痩せ細っていくのも、己の生活だけを瞳に映す民衆には関心のないことだった。


 そして、あの日。民衆の不満は彼らの身体を溢れ出て、暴虐の業火となって我が家の門を破ったのだ。

『豚貴族を殺せ!』

『隠している麦を出せ!』

 父は暴徒の前に立ちはだかり、対話を試みた。我が家にはもう何もないのだ。私はすべてを君たちに捧げたのだと。

 彼らの手には松明と農具が握られていた。彼らの手はすでに高々と振り上げられていた。


 私は隠し部屋の暗闇の中で一人蹲り、起こっていることを克明に想像していた。

 誰よりも国に尽くした父が、誰よりも人を愛した母が、民衆の暴力によって踏みにじられ、血の海に沈んでいく様を。

 屋敷が燃える音。肉が焼ける臭い。私の家族を殺したその手で、台所に残っていた僅かなパンを貪り食う民衆の、おぞましい笑顔。

 それらは私の想像であり、グローヴナー家でその日確かに起こった出来事だった。


 私の中で何かが壊れ、そして再構築された。

 慈愛などいらない。

 献身など無意味だ。

 愚昧な民衆には、賢明なる王に統治される資格がない。


 生き延びた私は親戚に引き取られ、あの日の誓いが私を理性に駆り立てた。

 いつか必ず、国ごと焼き尽くしてやる。私からすべてを奪った民衆という名の怪物を、地獄へ突き落としてやる。

 ただ一つだけ、胸を刺したのはアリステアの存在だった。


 陛下は、民の声を聞きすぎた。王国が腐敗し、貴族たちが保身に走って、民が権利ばかりを主張しても、誰も義務を果たさなくても、陛下はそれを正せなかった。

 聡明なアリステアは王国の未来を悟っていた。破綻が間近にあることを理解してしまっていた。

 彼は私が振りかざした復讐の手を止めることなく、共に崩壊への道を歩むことを決意した。


 私の父と同じほどに国を愛し、私の母と同じほどに民へ尽くしたアリステアに、故郷を見捨てさせた。

 そのことだけが私に痛みをもたらした。


 婚約破棄、エヴァとのスキャンダル、そして廃嫡と国外追放。すべてが帝国の侵攻を招く布石だった。

 激しく混乱し、指導者が不在となった王国を、アケディア帝国は最小限の被害で併合するだろう。

 私の理性の底には冷たい復讐の蜜が流れていた。

 民衆よ、己が追い出した王太子こそが己を守る最後の防波堤だったことを、廃墟の中で知るがいい。

 己が焼き払った私の父が、己の命を育んでいたことを、飢えの中で思い知るがいい。

 私の復讐は成された。けれど私は何も得ていない。

 アリステアのすべてを奪った私は、何も得てはならないのだ。


 報告を終えたエヴァが一礼し、静かに退室していく。

 アリステアが私に向き直る。

「君をあんな風に罵倒した。この柔らかな頬を打ち据える感触を知っているなんて。……一生許されない罪だ」

「それは……わたくしの罪ですわ、アリステア。あなたをわたくしの憎しみに巻き込んだ。あなたが道化を演じる必要などなかったのに」

 彼を道連れにしたことを嘆く私に、私を打ち据えたことを嘆く彼。復讐に身を窶した者の末路には相応しい愚かな円環。アリステアは切なく笑った。

「言っただろう。僕は真実の愛を選ぶ、と」

 愚かな王太子が平民の女にうつつを抜かした戯言ではない。あれは私への誓いだった。国を滅ぼしてでも私と共に行く道を選んだ、彼の告解。


 遠く彼方の空に目を向ける。血のように広がる紅葉から黒い煙が細く立ち上っているのが見えた気がした。

 私の家族を奪い、私を嘲笑い、そして自らの手で破滅を招いた愚かな民衆たちの国が、赤々と燃えている。

「冷えてきましたね。部屋に入りましょう」

「ああ、エリシア。ゆっくり休もう。今度こそ、僕は君ための花を咲かせるよ」

「わたくしのための花なら、もういただいてますわ、アリステア」

 アリステアは私の手を強く握り返し、口づけを落とした。その唇は悲哀と後悔で震えていたけれど、奥には確かな熱情を秘めていた。


 燃え落ちる故郷に背を向ける。振り返ることはない。

 かの地にあるのは灰と後悔と、いつまでも響く愚者たちの嘆きだけなのだから。


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