記憶になれなかった夢
人は夢を見る。
眠るたび、世界のどこかがひび割れ、そこから違う空気が流れ込んでくる。夢は十人十色、だけど、私の夢はいつも灰色だった。音が遠く、時間が溶けて、空気が匂わない。夢の中の私は、いつも静かに笑っている。誰かの記憶を借りているような、他人の皮膚の中にいるような感覚。
目を覚ましたとき、いつも少しだけ涙が出る。
何が悲しいのかわからない。ただ、現実の温度が夢より冷たい。
私は十七歳。
高校二年、春。クラスの窓際の席で、毎日空を見ていた。
友達はいる。笑いもする。でも、どれも“仮”のように感じる。笑うたびに、心の奥がズレる。自分がちゃんと存在しているのか、誰かの夢の中にいるだけなのか、その境目がわからなくなる。
あの日、国語の授業で先生が言った。「夢の中で夢を見たことがある人?」
誰も手を挙げなかった。私は手を挙げようとしたけれど、指が動かなかった。夢の中でも同じ質問を聞いた気がしたから。
「夢の中の夢は、たいてい目覚められない」
先生の声が、チョークの音に吸い込まれた。
その夜、私は夢の中で目を覚ました。
部屋の壁紙が少しだけ違っていた。カーテンの色も。母の声が聞こえたけれど、少し低い。知らない匂いがした。
鏡を見た。映っていたのは私の顔だけれど、まばたきが遅れてついてくる。頬に触れると、感触がない。皮膚の下で光が揺れていた。
目を覚まそうと思った。頬を叩く。痛みがある。だから安心した。
でも、その安心の感触が、嘘みたいに冷たかった。
次の日、学校に行くと、クラスの空気が昨日と違っていた。
席順が変わっている。友達の名前が思い出せない。ノートを開くと、自分の字が知らない文章を書いている。
「夢は壊れない、夢は繰り返す」
私は息を止めた。ペン先が震えた。
昼休み、屋上で空を見た。青い空の端が、折れていた。空の色が裏返って、そこに白い手が見えた。私のものだった。
怖いというより、美しかった。
世界が壊れていくのを見て、少しだけ安堵した。
壊れることは、終わること。
終わることは、救われること。
夜、夢の中でまた目を覚ました。
何度も、何度も。
目を開けるたびに別の夢が始まる。
夢を抜け出したと思ったら、その先も夢。
母が笑っている。けれど声が裏返って、猫の鳴き声になった。
校舎が海に沈む。友達の顔が崩れる。私は泣きながら笑った。
壊れろ、と思った。
全部壊れたら、きっと楽になる。
でも、壊れたあとに残るのは何?
その問いに、夢は答えない。
私は夢の中で自分の日記を見つけた。
そこにはこう書かれていた。
「夢の中のあなたは、現実のあなたに似ていない」
ページをめくると、知らない文字があった。
「あなたは、誰かの夢の中の記憶です」
私は笑った。そんなわけない。
でも、涙が止まらなかった。
目覚ましの音が聞こえた。
私は布団から起き上がった。朝の光が優しかった。
母が呼ぶ声。台所の匂い。
もう大丈夫だ、と思った。
けれど、リビングの壁に貼られたカレンダーの日付が、昨日と同じだった。
それでも学校へ行った。
校門の前に立つと、誰もいなかった。
桜の花びらが逆に散っていた。
世界が呼吸している音がした。
私は笑って、泣いた。
怖くて、愛しかった。
壊したいのに、守りたかった。
そのとき、遠くで誰かの声がした。
「そろそろ目を覚まそう」
私は振り向いた。誰もいない。
でも、確かに聞こえた。
それが“主人”の声だと気づいたのは、世界が崩れ始めてからだった。
景色が反転する。
机、ノート、友達、母の顔。
全部が光になって溶けていく。
痛みもなく、ただ静かに。
そして私は悟った。
私は“夢の中の記憶”だった。
彼――この夢を見ていた誰か――が目を覚ますたびに、私は薄れていく。
朝の光とともに忘れられ、消える。
でも、それでもよかった。
彼が夢の中で私を見てくれた。
彼の心のどこかで、ほんの少しでも私が生きたのなら、それでいい。
光が満ちる。
世界が静止する。
最後に見えたのは、誰かのまぶたの裏の景色だった。
私は笑った。
――ありがとう。
私を、夢に見てくれて。
【終】




