どこの誰だか知れない勇者様へ
夢路は激怒した。
必ず、かの過労死ライン超え長時間労働のブラック企業を除かなければならぬと決意した。
夢路には化学がわからぬ。夢路は人妻で、派遣社員である。
前述のブラック企業が取引先で、夢路はそこで夫に出会った。けれども長時間労働に対しては、人並みに鈍感であった。そういう時代であった。
「イチャつく時間が無い」
夢路はひとりごとをつぶやいて、時間つぶしに手にしていた本――開いていたのはもちろん『走れメロス』だ――をテーブルの上に放り出した。
夫が連日の残業で、家にはほとんど寝に帰ってくるだけの状態になっている。ちなみに夫は現在十連勤中である。
「不景気だからって、人の夫をこき使いやがって」
夢路は治安の悪い地域に生まれ育ったため、性根はそう悪くないつもりだが、口は悪かった。
リビングのソファーに座って、日付が変わるまで夫を待っているつもりだったが、しかし手持ち無沙汰ではあった。
ソファーに背中を預けて、なんとはなしにすぐそばの本棚を見る。『ガラスの仮面』のタイトルが目についた。
それはもともと実家にあった漫画だった。実家に置きっぱなしだった卒業アルバムだとか、そういう荷物を一式引き取ったときに紛れていた一冊だ。
次に実家に行くときには持っていかなければならないのだが、夢路は、目の前にある本はとりあえず読む性質だったので、既読である。
夢路は内容を思い出した。
天才的な演劇のセンスを持つ主人公が、八百屋お七を演じる回だった。
八百屋お七のストーリーは、ざっくりこんな感じだ。
舞台は江戸時代、江戸の町。
大火事に巻きこまれた八百屋の娘お七は、家族と避難するのだが、避難先で男と出会い恋に落ちる。
しかし、お七が彼と過ごせたのは、わずかに避難している間だけ。
大火事から時が経って復旧が進み、家に戻ればもう恋人には逢えない。
恋人に逢いたくて思い余ったお七は、自ら放火して再び火事を起こそうとし――
「そうか。火事か」
夫の勤め先が燃えたら出勤しなくて良くなるな。
夢路はちょっと思った。
なんという甘い誘惑。
いやしかし、平成の世でも放火はダメだ。
夫が巻きこまれたり、他の人が巻きこまれる可能性があるから、よけいにダメだ。夢路は夫を休ませたい――あわよくばイチャつきたい――だけであって、人死にを出したいわけではない。
夢路は考えた。
では、時限爆弾なんかはどうだろう。爆弾が解除されるまで、仕事は休みになるのではないだろうか。
夢路には化学がわからぬ――高校の理科で選択したのは生物だった――ので、材料から知らないし、どう作るのかも、バレないように設置できるのかも、全部わからない。乗り越えるべき問題点は多いが、しかし検討の余地はありそうに思えた。
べつに、本当に爆発しなくて良いのだ。それっぽい感じで、夫が休めれば。
「調べようかな」
つぶやいたところで、玄関の鍵がガチャリと開く音がした。時計を見れば日付は変わっている。
夫が帰ってきたのだ。
夢路はいそいそと玄関に向かいながら考えた。
調べるのは明日にしよう。
夢路も派遣社員のわりに毎日残業があり、帰宅は21時頃になるのが常だが、そこから夫が帰ってくるまで、いつも3時間ほどはあるのだ。調べる時間くらいは作れる。
夢路は、疲労度MAXで倒れこむように帰ってきた夫を抱きしめた。
「おかえりなさい」
翌日。
いつも通り残業を終えて、21時過ぎに帰宅した夢路は、玄関に夫の通勤靴があるのを見つけて驚いた。
急いでパンプスを脱ぎ捨て、リビングに飛びこんだ。
「えっ!どうしたの?!」
「あ、夢路。おかえり〜」
「ああ、うん、ただいま。どうしたの?!体調悪いとか?!」
目の下の隈がいつもよりちょっとマシな夫が、笑顔で出迎えてくれた。
「体調は大丈夫」
「それなら良かったけど」
「それがね、夢路」
「うん」
夢路は、頬をかく夫の言葉を待った。
「今日会社に、いきなり労働基準監督署が来て」
「へぁ!?」
「労基が来るなんてみんな知らなくてさ。抜き打ちで」
「抜き打ち!」
「で、定時で帰された」
「おぉ〜!きっと、誰かが通報したんだね」
「そうだろうね」
「通報した人は勇者だね」
潜在的爆弾魔の夢路とはえらい違いである。
が、夫が普通に休めるなら、夢路はそれで満足である。
夢路は、あっさり時限爆弾計画を放棄し、夫に抱きついた。
八割がた実話w
平成のブラック企業全盛期の頃、労基が抜き打ちで来た。そこから1カ月ほど、全員定時あがりだった(労基効果は約1カ月しか保たなかった、とも言うw)
お読みいただきありがとうございました。