7
ふっと意識が浮上し、ルーカスは目を開けた。途端に目に飛び込んできたのは、見慣れない天井だった。自分が仰向けに寝ていること、柔らかな何かの上にいること、暖かい布のようなものが体にかけられていることを瞬時に察知し、寝台に寝かされているのだと理解した。
ゆっくりと体を起こし、周囲を見回す。
ルーカスが寝かされていた寝台の他に、テーブルとイス、大きなチェスト、壁には絵画が飾られている。
絵画に描かれていたのは、野営だろうか——暗闇の中で焚き火を囲み、楽しそうな笑顔で飲食する老若男女だ。装いからすると、商団の者たちだろう。どの者も生き生きとした表情をしていて、まるでその瞬間をそっくりそのまま切り取ったかのようだ。
その他には何もない部屋だった。どうやらここは、レネの寝室らしい。
ルーカスは寝台から出て、枕元に先程まで羽織っていた大判のストールが折りたたまれて置いてあることに気がついた。起きたら着るようにとのレネの配慮だろう。
ルーカスはありがたくストールを羽織り、それから耳を澄ます。辺りはしんと静まり返っていて、物音一つしない。どうやらレネは近くにはいないようだ。
観察されていないことに違和感を覚え、妙に落ち着かない気持ちになる。
誰にも見られていないこの状態が普通で、これまでの常に観察される日々の方が異常であったというのに、観察する目がないことにうっすら不安すら感じてしまう。
王立研究所での実験台としての五年間は、ルーカスの感覚を根底から麻痺させ、狂わせたのだ。
(レネはどこに行ったんだろう)
無意識に首の後ろを掻こうとして、右手に何かが当たった。
「ん?」
手に当たった何かは、床に落ちることなく変わらずそこにあった。触れて形状を確かめる。小さな球状の何かが縦にいくつも連なっているようで、軽く引っ張ると耳朶が引っ張れた——耳飾りだ。
そうして耳飾りだとわかった瞬間、これがなんであるのかもわかった。レネの耳飾りだ。
北部での一連の出来事で、ルーカスと結婚すると言い放ったレネは、他の精霊たちの前で婚姻の誓約を交わした。その時に、人間はどうやって結婚するのかを聞かれたルーカスは、揃いの腕輪または指輪を交換するのだと答えた。レネはそれを、その時身に付けていた耳飾りで代用したのだろう。装飾品ならば何でも良いと判断したのかもしれない。
思い返すと、レネが顔を近付けてきた時に右耳を触られた。恐らくはその時に、両耳に付けていた耳飾りの片方をルーカスに付けたのだろう。顔が近付くことに耐えきれずに目を閉じていた上に、ほんの一瞬と言っていいほどのわずかな時間だったから、まさか自分の耳に揃いの耳飾りを付けられているとは全く思わなかった。
耳朶と耳飾りの接触面に触れて確認すると、確かに耳に穴が空いている。
それにしても、あの時は、ただレネに触られた感触しかしなかった。ルーカスは元々、耳飾りのための穴を開けていない。それなのに痛みも何もなかった。重みも感じないし、丸い石が縦にいくつも連なる耳飾りであるというのに首に当たる感触はなかった上に、何にも引っ掛からなかった。だから、これまで気付くことができなかったのだ。
耳飾りを引っ張り、どうにかしてそちらに目を向けると、耳飾りの端が見えた。光の加減で薄い青にも見える白い球だ。レネと揃いの耳飾りをしているのだと思うと、心が妙にそわそわするような、こそばゆいような、何ともいえない気持ちになる。
ルーカスは気を取り直して、寝室から出た。見慣れない廊下であることから、ここが居間のある二階ではなく、三階であることを悟った。
辺りは静まり返っている。レネはどこにいるのだろう。ひとまず隣の部屋をノックしてみるが、中から返答はなかった。続いて向かいの部屋をノックするもやはり返答はない。
(いない……)
三階の部屋を全てノックしていくか、二階に降りて居間に行った方がいいかを考えていると、隣室の扉が少しだけ開いているのが目に入った。
「レネ……?」
声をかけながら、少しだけ開いていた扉の中へ恐る恐る入る。
室内にレネはいないが、ある物が置いてあった。
「これは……」
——縦型織り機だ。
織られているのは敷物だろうか。未完成のようだが、緻密で繊細な模様が目を引く。
室内には他にも、完成品だと思われる敷物がいくつか置かれていた。どれもこれもが美しい。こんな織物は目にしたことがない。ルーカスの生家、フアネーレ家でもこんなに素晴らしい品を見ることはなかった。
(これを、レネが?)
思わず見入ってしまいそうになるが、本来の目的を思い出し、部屋から出る。
念の為、他の部屋を一通りノックし、反応がないことを確かめてから二階に行く。
二階の廊下に出た途端、手に軽食の盆を持ったレネと鉢合わせた。レネは一瞬驚いた顔をしたが、すぐに嬉しそうに笑った。
「ああ、起きたんだね。おいで、ルーク。軽食を持ってきたよ」
「ルッ……、ありがとう」
突然の愛称呼びに動揺しかけるが、平生を装って礼を言う。
出会ったのは先程であるのに、ごく自然に愛称でルーカスを呼び始めたレネに内心で驚く。距離の詰め方がおかしい。あまりにも近い距離に驚くが、不思議と不快感はない。
レネの後に付いて居間に行き、そこで軽食を食べる。先程とは違い、レネはルーカスの横に腰掛けた。
また足の間に座るよう強制されなくてよかったと安堵したが、今度のレネは軽食を食べるルーカスを食い入るように見つめてくる。
レネは何か言いたげな様子で、嬉しくてたまらず、かつ楽しそうな笑顔を浮かべている。見られることに慣れているルーカスですら気が散るくらいに、熱烈な関心を寄せているのが丸わかりだ。
レネが用意してくれた軽食は、さっぱりした風味の調味料で和えた新鮮な野菜と肉が挟まったパンと、少しとろみのある野菜のスープだ。料理に明るくないルーカスには料理名も何もわからないが、気を抜けば無意識に顔が緩むくらいに美味しい。心の底から美味しいと思える料理を食べたのは、一体、何年ぶりだろうか。
「どう? 口に合うかな」
「美味しい」
「良かった」
ルーカスの手は止まることなく動き、あっという間に食べ終わってしまった。唇を噛み締め、空になった器をじっと見つめる。正直に言えば、もっと食べたい。
これまでの王立研究所での生活では、生命活動を維持するための必要最低限の食事しか出てこなかった。冷めた食事が出ることが多く、おかわりするなどもってのほかだった。試しに、何度かもっと食べたいと訴えてはみたが、食事の量は決められているからと突っぱねられた。
フアネーレ家にいた時も、離れで暮らすルーカスには予算が割り当てられず、乳母と数名の侍女が他の使用人からの嫌がらせと戦いながら身銭を切ってルーカスを世話してくれた。
成長に従って自然と状況を理解したルーカスは、衣服や食事など、与えられた物以上の何かを要求することができなくなった。フアネーレ家から半ば見放されたような自分を変わらず育ててくれる者たちを苦しめるわけにはいかなかったし、金銭のかかる子供だと見放されてしまったら生きていけない。
だから、ずっと我慢していたのだ。食事が足りなくても足りているふりをしたし、菓子が食べたくてもねだらなかった。いつだって満足に食べたことがなかった。
「もっと食べたそうな顔をしているね。待っていて、今おかわりを持ってくるよ」
もっと食べたいと思っていたのが顔に出たらしい。レネが嬉しそうに笑って部屋から出て行き、すぐに倍の量のパンとスープを手に帰ってきた。もはや軽食ではない量だ。
ルーカスはレネが追加で持ってきたパンとスープをまたもやあっという間に平らげた。
これまでにないほど腹が満たされ、えもいわれぬ幸福感に夢見心地になりながら、ソファーの背もたれにもたれかかる。
「ありがとう。凄く美味しかった」
「喜んでもらえて本当に良かった。きみはとても美味しそうに食べてくれるから、作った身としては本当に嬉しい。次から、おかわりしたい時は気軽に教えてくれるともっと嬉しいな」
「いいの?」
「もちろん」
レネの笑顔からは、純粋な喜びの感情がこれでもかと伝わってくる。もっと食べたいと伝えても、困らせることも怒らせることも鬱陶しがられることもないのだと思うと、心から安堵した。
「あ、でも……」
ふと、重要なことを思い出す。かなりの量を食べてしまったが、レネの分まで平らげてしまっていないだろうか。
「俺、かなり食べちゃったけど、レネの分は……」
「ああ、大丈夫だよ。僕の食事は十日に一度程度でいいんだ。最低でも一月に一度取れれば問題ないしね」
あっさりと答えるレネに驚く。
「十日に一度? 最悪、一月食べなくても平気だって?」
「うん、そうだよ。皆は食物の摂取は必要ないんだけど、僕は四割くらいが人間だからね。頻度は人間ほど多くないけど、食物の摂取が必要なんだ。食べないと動けなくなる。昨日食べたから、まだ大丈夫だよ」
レネが自分の身の上をそれとなく、何でもないことのようにあっさり話すために勘違いしてしまいそうになるが、精霊と人間が混じるレネの身の上は、本来なら繊細な問題なのではないだろうか。レネについてのあれこれを気軽に質問していいのか、今更だがわからなくなってくる。何がレネを傷付けるのか、ルーカスには全く予想できない。こちらの問いでレネを傷付けてしまったら、どうすればいいのかわからない。
「ああ、そうだ。きみの服と靴を作りたいから、あとで採寸させてくれるかな」
「服と靴を……作る?」
ルーカスは驚きに目を見開く。
「買うんじゃなくて、作る? レネが?」
「うん。僕が作るんだ」
レネは一瞬怪訝そうな顔をしたが、すぐにふわりと笑い、頷く。
「もしかして、レネが今着ている服も?」
「僕が作ったものだよ。きみが羽織ってくれているそのストールも僕が編んだんだ」
そう言って、レネは茶目っ気たっぷりに笑ってみせる。
レネの着ているシャツもズボンも、見るからに仕立ての良い品だ。襟や裾の刺繍は見事としか言いようがないくらいに緻密で美しい。レネによく似合っていて品がある。ルーカスが羽織っているストールにも緻密な模様が描かれていて、編み目は全て均等で歪みがない。
(これを……レネが)
こんなに上等な品は見たことがない。
ルーカスが驚いて言葉を失っていると、畳み掛けるようにレネが言う。
「それと、きみの寝台のことなんだけどね。僕が使っている寝台と同じ大きさでいいかな? 急いで作るけど、出来るまで僕の寝台を使って」
「寝台を作る!?」
あまりの驚きに、大きな声が出るのを堪えきれなかった。レネの言葉を遮ってしまったが、それどころではない。
レネはルーカスの反応にぽかんとしたが、頷いた。
「うん。作るよ」
先程見た敷物の作製に、服と靴の作製、刺繍と編み物、家具の製作、さらに料理までできるとは。驚くなという方が無理だ。
「レネは多才なんだな」
「ふふ」
感心するルーカスに、レネは小さく笑った。
(……? 嬉しそうじゃないな……?)
ルーカスが多才だと誉めた瞬間、わずかにレネの表情がこわばったような気がした。小さな笑い声をあげたのも、照れたというよりは笑って誤魔化したように思えた。それとなく、この話題を続けるべきではないと察し、別の話題を振る。
「レネ、さっき気付いたんだけど、これって……」
ルーカスは右耳の耳飾りを示しながら言う。
「ああ、それは僕の精霊石だよ。人間の結婚は揃いの腕輪や指輪を交換するときみから聞いたから、元々僕が付けていたものだけど、ちょうどいいかなと思ってきみに付けたんだ」
「レネの精霊石……俺が持っていてもいいのか?」
「いいに決まってる。元々僕の精霊石をきみにあげるつもりだったんだ。本当はリコやロペみたいに、目に入りやすいところに腕輪か指輪を付けて僕のことを常に意識してもらおうかと考えたけど、揃いの耳飾りの方がいいかなと思ってね」
ルーカスは右手の親指と小指の指輪に視線を落とす。この指輪の精霊石を与えた精霊の存在を意識させるように、あえて利き手に指輪を授けたということだろうか。これまで何も考えてこなかったが、そういった意図があったとは思ってもみなかった。
「この耳飾り、確かに長めの耳飾りではあるけど……視界には入らないぞ」
「いいんだよ」
レネがぐっと顔を近付け、嬉しそうに、花が綻ぶように笑う。
「だって、きみがこうして僕と見つめ合って話せば、片耳にしか耳飾りを付けていない僕が目に入る。僕と見つめ合う度に、自分にも同じ耳飾りが付いているんだって思い出すだろう? 僕はきみをずっと見つめていたいし、ちょうどいいと思って」
ルーカスは大きく息を吸い込み、目を見開く。心臓が早鐘を打ち、顔面に熱が集中する。今自分がどんな顔をしているのか全くわからない。ただただ顔が熱い。
「そっ……」
そんなことない、思い出さない、と言おうとして、レネの左耳で揺れる耳飾りが目に入る。途端に、自分の右耳に付いている揃いの耳飾りに意識を奪われる。つい先程目を覚ますまでその存在を意識することはなかったというのに、意識した途端に揺れる耳飾りが首元を掠める感触がありありと感じられて、その存在を主張してくる。
まんまとレネの思惑通り、ただレネの顔を見ただけで揃いの耳飾りの存在を思い出して意識している。
「う……」
じりじりするような空気に耐えきれず、咄嗟にレネから目を逸らす。
「あの、さ……レネ……」
「ん?」
表情を見ていないせいか、レネの穏やかで優しい声音にひどく甘やかな響きがあることに気付いてしまう。
ますます顔面が熱くなって、ルーカスは両手で顔を覆いながら項垂れた。
「それ……素で言ってる?」
「もちろん。僕の本心だ」
ルーカスがやっとのことで問いかけると、レネは即答した。考える間すらなかった。
「その、照れるから、そういうのは……ちょっと……控えめに……」
「それは聞けないお願いだ」
レネは楽しそうに笑い、ルーカスの両手首をやんわり掴むと顔を覆う手を外させた。
ルーカスは反射的に顔を上げ、レネを見た。目があった途端に、レネの頬が緩む。
レネはルーカスの手を取ったまま、その手を自らの両頬に触れさせる。レネの頬は滑らかで、ひんやりしていた。かと思えば、次の瞬間には暖かな体温が手のひらから伝わってくる。
ルーカスは手を動かすこともできずに、されるがままにレネの頬に触れる。
レネが目を細め、ふっと息を吐いて困ったように笑う。
「僕は、思っていることは余すことなくきみに伝えたいと思っているんだ。これもたわむれだと思って、諦めて慣れておくれ」
レネは、ルーカスの右手に頬擦りするように擦り寄る。レネの左耳の耳飾りに手が掠め、またもや同じ耳飾りが自分にもついているのだと考えてしまう。
「真っ赤だ。可愛いね、ルーク」
からかうにしてはやけに甘い声音が、とどめとばかりにルーカスに襲い来る。顔から火が出そうになって、勢いよく目を逸らして唇を噛む。
(なんだ、この距離。さっき会ったばかりなのにまるで恋人みたいに——)
そこまで考えて、自分で自分の思考に気絶しそうになる。あまりの羞恥で訳がわからない。頭の中はぐちゃぐちゃだし、心臓は早鐘を打っているし、顔も体も熱くなってきた。特に顔面の熱がひどい。本当に火が出そうだ。
ふいに、レネが小さな笑いを漏らす。
「このくらいにしておこうか。もう少しゆっくり慣らすことにするよ」
「いや……ゆっくりとかじゃなくて……」
「荒療治の方がいい? もっとぐいぐいいこうか?」
「凄くゆっくりにしてくれ……頼むから……」
駄目だ。どう言えばレネがやめてくれるのかが全く思いつかない。何を言っても結局丸め込まれてしまいそうだ。
レネは笑いながら、ルーカスの手首を掴む手を離す。
「きみをぎゅっとしたいな」
ようやく離してくれたかと思えば、甘えるような声でとんでもないことを言い出したレネに頭を抱えそうになる。
「駄目。恥ずかしいからやめて」
「そうか。それは残念」
本当に残念そうな声で言うのだから、レネはたちが悪い。心から残念に思っているようにしか聞こえない。
「ルーク、ちなみにその耳飾りだけど……きみが望んだ時にだけ外せるけど、できるだけ外さないで。どうしても外さないといけない時は必ず持ち歩いて。もしきみに何かあった時は、きみが僕の精霊石を持っている限り……少し時間がかかるけど、必ずきみを助けに行くから」
急に真剣な様子で話し出すレネに面食らいつつも、ルーカスは「わかった」と頷く。
レネがこんな注意をしなければならないほど、精霊の集いの最中の北部に人間が足を踏み入れると言うのは危険なことなのだ。かつて起きた精霊と人間の諍いの遺恨は、ルーカスが思うよりも根深いのだろう。
一体、どんな精霊に狙われているのだろうか。考え出すとキリがないし、どうしようもない不安に駆られる。
ルーカスが不安を感じたことに気付いたのだろう、レネは「大丈夫だよ」と笑ってみせる。その笑顔を目にした途端に不安が嘘のように消えていった。