5
レネの声は落ち着いていて、やはり穏やかだ。平生であることが伝わるだけで、それ以外に何の感情も伝わってこない。
表情を見れば何かわかるかもしれないが、今のルーカスは目を閉じたままでいるようにとの言い付けを守り、目を閉じている。仮にその言い付けを破ったところで、頭からマントを被っているため、結局レネの表情を窺うことはできない。
言いようのない感情がルーカスの中にじわじわと広がっていく。
「精霊石が時々使えなくなるのは、二星様が不安定で僕たちに影響が出ているせいだよ。力が弱まったりするから、上手く精霊石と繋がれないんだ。半年後の大満月の時に僕が二星様の元へ還れば、元通りになるよ」
レネはルーカスを安心させようとしているのだろう。殊更優しい声音で言い、レネの腕を掴んでいるルーカスの右手を優しく二度叩く。
ルーカスは安心するどころか、息が詰まるような焦燥感を覚える。隣の優しい精霊が、あの得体の知れない湖の糧になるために死ぬのだ。嫌だ、と真っ先に思った。どうしてそう感じるのかもわからないまま、嫌だと心が叫ぶ。
返す言葉が見つからず、結局黙る。レネの腕を握る手に力を込めることしかできない。
「さあ、着いたよ。もう目を開けても大丈夫」
それから互いに無言のまま歩き続け、唐突にレネが足を止めて言った。
ルーカスが目を開けると同時にマントが取り払われ、視界が開ける。
途端に目に飛び込んできたのは、灰色の雲が重く垂れ込める空と、雪に覆われた街並みだった。
ルーカスとレネは広い通りに立っていて、通りの両側には家屋が立ち並んでいる。民家らしきものもあれば、何かの店舗らしきものもあった。しかし、通りには人一人歩いておらず、どの家屋も全く生活感がない。どうにも人の気配が感じられなかった。無人の街だ、と直感する。
通りの両側に立ち並ぶ家々は、見たことがない造りをしていた。窓の無い石造りの一階には、出入り口のドアが付いていない。どの家屋にも二階に続く階段があり、その階段の先、二階に出入り口のドアがあった。家屋は二階建てだったり三階建てだったりするが、どの家屋も屋根の傾斜が急勾配だ。
広い通りは除雪されているようで、足が埋もれることなく歩ける程度に積もっている。通りの脇にはところどころ雪の山ができていた。
と、灰色の空から雪がちらつき始める。冷たい風が吹いて、ルーカスはわずかに震えた。今の季節は初夏だ。ここは一体、どこなのだろう。
「ここは?」
「ベルデアという街だよ」
「ベルデア……?」
聞いたことのない街の名前だ。他国だろうか。
首を傾げるルーカスに、レネは微笑む。
ベルデアという街の名前を、どうにか記憶の底から掘り出そうと思案するも、全く思い出せない。そんな地名がこのカルミセ国にあっただろうか。
ルーカスが思案する間にも風雪は強くなっていき、気温がどんどん下がっていく。
ルーカスが身に纏っているのは、研究所で支給されたシャツと薄手のベスト、同じく薄手のズボン。足元は薄手の靴下と革靴のみだ。そもそも今の季節は初夏で、ルーカスは初夏に合わせた装いをしていた。極寒の真冬に身を置く想定はしていない。
我慢しようとしても、あまりの寒さに体が勝手に震えてしまう。
見兼ねたレネが、ルーカスにマントを着せる。
「防寒用ではないから、あまり変わらないかもしれないけど……無いよりはましだろう」
留め具を留めるレネの手元を見下ろしながら、ルーカスは礼を言った。
行こう、と腕を取るよう促され、ルーカスは反射的にレネの腕を掴んだ。エスコートされるような形で再び歩き出そうとしたが、あることに気が付いてぴたりと足を止める。
「待って。このままだと汚れる」
怪訝そうな表情でレネも足を止めた。
レネのマントは、レネが着ている時ですら裾が地面につきそうなほど長い。レネよりも頭ひとつ分ほど背が低いルーカスでは、マントの裾を引きずってしまう。
ルーカスは裾を引きずらないよう、どうにかして片手でマントの裾を持ち上げた。このマントは借り物で、レネのものだ。汚すわけにはいかない。無理やり片手でマントの裾を持ち上げているから、少々シワにはなるかもしれないが、それは致し方ない。
レネは、必死にマントの裾を持ち上げるルーカスの様子を見て、小さな笑い声を上げた。
「きみは可愛いね」
「かっ……」
思わず心の声が漏れてしまったというようなレネの囁きに、ルーカスは言葉に詰まった。
自分に可愛い要素はない、とルーカスは思っている。身長も人並みで決して小さくはないし、体格も標準的で決して華奢ではない。
ルーカスは翠眼の吊り目で、強いて言うなら涼やかな顔立ちをしている。肩まである緩くうねる金色の髪を首の後ろで一括りにして誤魔化してはいるが、長年の研究所生活でろくな手入れをしていないために見るからにボサボサだ。何をどう見れば可愛いなどと感じるのだろう。
「可愛いし、いい子だ」
レネは再びぽつりと言う。
遅れて、じわりと顔面に熱が集まり出した。本音がこぼれ出たような言い方をしないで欲しいが、注意しようにも何と言ったら良いのか全く思い浮かばない。
それ以上レネが何も言わないため、ルーカスも黙った。何も突っ込まないのが得策かもしれない。
ルーカスが無言でレネの腕を軽く引っ張ると、意図を察したレネが歩みを再開する。ルーカスはレネに連れられて、人気のない通りを行く。
「ベルデアはどこにある街なんだ?」
気を取り直して聞く。
「西部だよ。ベルデアはカルミセ国の西部にある街のうち一つでね。西部にある街の中では三番目くらいに栄えていた」
レネの返答に息を呑む。
「……西部? ここが?」
「そう。西部だよ」
ここが西部にある街だと聞いた瞬間、あることがルーカスの頭を掠めた。
——西部。雪に覆われた街。約三百年前に西部を雪に沈めた、雪の精霊。
(——まさか。レネが)
ルーカスは隣を歩くレネを見上げた。レネはルーカスに穏やかな笑みを返すばかりで何も言わない。
「西部を雪で閉した雪の精霊が、レネ……?」
「うん。もっと直接的に言ってもいいよ。どんなに表現をぼかしても、西部が失われたのは紛れもない事実だし、原因は僕にある」
わずかに視線を伏せたレネの表情は、うっすら笑ってはいたが、今にも泣き出しそうに見えた。まるで、自分を責めてくれと言わんばかりに、はっきりと言い放つ。
「カルミセ国の西部を雪で滅ぼした精霊は、僕だよ」
(レネが、西部を雪に沈めた雪の精霊。人間と精霊の争いを生むきっかけになった精霊……)
レネの表情には深い悲しみと自責の念が滲んでいる。同時に、ルーカスからの叱責や罵倒を望んでいる気配がした。
レネには先ほど会ったばかりで、ルーカスがレネについて知ることは少ない。だが、レネが穏やかで心優しい精霊であることは伝わってくる。彼が好き好んで西部を雪に沈めるわけがない。そんな姿など想像できない。何か理由があるはずだ。
「結果的に西部は雪で滅んだかもしれないけど、それがレネの本意じゃないっていうのは何となくわかるよ。客観的に今の西部の状況を見て、悪いか悪くないかで言えば確かにレネが悪いのかもしれない。だけど、だからって、結果しか知らない俺が、西部が雪に閉ざされた背景に何があったのかも知らずに一概にレネが悪いって断言するのも責めるのも……上手く言えないけど、何か違う気がする」
ルーカスの言葉にレネは目を丸くしたが、ふっと息を吐いて苦笑した。
「さっき、精霊と人間との間に生まれた僕は、六割が精霊で四割が人間っていう話をしたよね」
ルーカスは頷く。その反応を確認してから、レネは話を続けた。
「僕は父の膨大な力をそのまま引き継いでいる。その力は僕の六割の精霊の部分だけでは抑えきれないんだ。僕は、僕のいる場所を中心に広範囲で雪が降ってしまうことを止めることができない」
空から降りしきる雪は、こうしている間にもどんどん強まっていくが、不思議なことにルーカスとレネを避けるように降る。風も強くなってきて、吹雪になりそうだ。
「僕は真夏の生まれなんだけど、僕が生まれた時から西部に雪が降り始めてね。通常、強い力を持つ高位の精霊が誕生する時は、初めからある程度成長した姿で生まれる。力の制御も、二星様が核のようなものに制御方法を組み込んで生み出してくださるから、生まれた時から膨大な力を制御できるようになっているんだ」
「初めからある程度成長した姿で?」
「うん。精霊は人間とは違って、新たな個体を生み出すのに交尾を必要としない。母のお腹からは生まれないんだ。それぞれの精霊の素となるものに、二星様が核のようなものと外側の姿を与えて初めて生まれる。そして二星様が与える姿は、人間の形をしていようと他の動物の形をしていようと、全てある程度成長した姿だ。加齢することもない。けれど、僕は違う。人間たちと同じように母から生まれ、初めは赤子だった。父から受け継いだ膨大な力を制御する術を待たず、物心ついた頃には西部はこの有様だ。物心ついた後も制御することはできなかった。母は僕が赤子の時に積雪の範囲を調べて、王都や他国に影響の出ない場所で僕を育てたらしい。それがここ、西部のベルデアだよ」
「お母さんとお父さんは……」
ルーカスはためらいながら疑問を口にしようとしたが、どう言えばいいのかわからず結局口を閉ざした。
レネは今、母親が王都や他国に影響の出ない場所で僕を育てたらしい、と言った。断言はしなかった。つまり、レネは母親から直接そのことを聞いたわけではない。第三者からそうだろうという予想を聞いたか、状況を見て自分で予想したのだろう。そこに母親の存在は感じない。そして、レネはこれまでの話で父親の所在ついて触れていない。母親だけでなく、父親も存在を感じない。嫌な予感がする。
「母は、僕が物心つく頃にはいなくなっていた。僕を捨てたのか、亡くなったのかはわからない。父は、僕が生まれてすぐに還ったそうだよ。父が生きていたとして、僕を愛しんでくれたかは疑問だけどね。精霊にはそういった……親子の情のようなものがないから」
ルーカスの言いたいことを汲み取ったレネが、あっさりとルーカスの疑問に答えた。
ルーカスの嫌な予感が的中してしまった。何と言えばいいのかますますわからなくなって、とっさに頭に浮かんだ疑問を口にする。
「親子の情がないって、どういうことだ?」
「精霊は二星様に核のようなものを与えられて生まれるから、そもそも家族というものが存在しない。親も、きょうだいも存在しない。当然、我が子に対する情なんていうものは未知のもので、全くといっていいほど理解できないものだ。互いに対して好悪の感情はあるから、友情……に近いものはあると思う。二星様が与えてくださる姿に雌雄の違いはあるけど、恋情というものを抱かないから、精霊同士が恋人になることもない。父が人間の母に恋情を抱いたのは極めて異例だと言えるね。だからといって、僕にまで異例の感情を抱いてくれるかというと……そうは思えないんだ。母が特別だっただけ」
「なら、レネは……どうやって今まで……」
物心ついた頃といえば、まだ幼子だ。その時点で西部がこうなっていたのなら、すでに人の住んでいない大雪原が形成されていたはず。母親もいない、父親もいない、周囲に誰もいない環境下でどうやって生きてきたのだろう。
「その時は代わりに面倒を見てくれる人がいたし、僕は六割が精霊だから、人間ほど食事も睡眠も必要としない。人間の病気にもかからないし、雪の精霊だからか寒さにはとても強くてね。リコとロペには色々教えてもらって世話になった。僕がここにこうして存在していることが答えだ。大丈夫だよ」
「リコとロペ?」
ルーカスが問うと、レネは笑みを返す。
「僕の世話係……友人みたいな精霊だよ。きみの右手の指輪の精霊石を与えた精霊たちと同じ精霊だ。火の精霊がリコで、水の精霊がロペ。リコもロペも強い力を持つ高位の精霊だよ。きみは彼らにとても気に入られている。僕がきみを伴侶として連れて来たから、そのうち会いに来ると思うよ」
ルーカスは手元に目を落とし、親指と小指にはまる指輪を見た。この精霊石を授けてくれた精霊は、リコとロペという名前らしい。
それよりも、ルーカスには気になることがあった。レネと、他の精霊たちとの関係性についてだ。
レネは、いわば異端の存在。二星が生み出したのではなく、人間と同じように母から生まれた、精霊にも人間にもなりきれない精霊。
ひょっとして、他の精霊たちに爪弾きにされてきたのではないだろうか。北部——精霊たちの住処であるホグに、住むことを許されていないのではないだろうか。レネが西部を雪に沈めたことで人間たちとの諍いが起き、精霊たちはホグから人間を引かせるために、人間に力を貸さなくてはならなくなった。精霊たちにとって、全てが『レネのせい』なのではないだろうか。
レネは、ルーカスを西部に連れてくるにあたって、安全な場所である『僕の家』に向かっていると言った。つまり、西部の街ベルデアがレネにとっての家であり拠点なのだろう。
レネは、北部にあるタボヤ山という山の万年雪の精霊だと言っていた。通常の精霊がどういったものなのかは不明だが、ルーカスには、己の元になっているもののそばで暮らすのが自然なことに思えた。それに、雪が降るのを止められないレネにとって、タボヤ山にいた方が良いのではないだろうか。万年雪があるということは、雪の降る山だということだ。西部よりは居住地として適しているような気がする。
しかし、レネは生まれてからずっと西部にいたのだ。
ルーカスが生まれてから今に至るまでの十八年、西部はずっと雪に閉ざされていたし、約三百年前からの記録でも西部は今に至るまでずっと雪に閉ざされている。レネが西部に留まり続けているということだ。
やはり、北部に定住することを許されていないのではないだろうか。西部に留まるよう、強制されているのではないだろうか。
自分が容易に首を突っ込むことではないというのは重々承知しているが、これまでレネがどんな目に遭ってきたのかを思うとモヤモヤする。どうにもできないのがもどかしい。レネに直接確認するわけにもいかず、心の曇りが晴れない。
二人は黙々と歩き、通りを奥へと進む。そうして、レネが一軒の屋敷の前で足を止めた。