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 ルーカスたち一行は、約十日ほどかけて北部の目前までたどり着いた。


 北部に接するカルミセ国の北端地域は、人の住まない深い森になっている。その森に入り、しばらく行くと北部とカルミセ国の境にたどり着く。


 北部とカルミセ国は、ひたすらに続く峡谷を境として分たれている。深い峡谷の底は常に濃い霧に覆われ、底に何があるのかも全くわかっていない。


 峡谷の向こう岸には北部が広がっている。北部も、峡谷と同様に濃い霧に覆われ、手前側に針葉樹らしき見たこともない木が茂っているのがかろうじて見えた。


 一行の目の前には、四人が並んで歩けるくらいの幅の天然の石橋がある。この石橋が北部に繋がる唯一の道だ。


 馬車を降ろされたルーカスは、石橋の前まで来ると足を止めた。ルーカスをここまで連れてきた一行は、離れた位置からルーカスを見ている。北部に入るのを見届けるつもりだろう。


 ルーカスがちらりと背後を振り返り、離れた位置にいる一行を見やると、数人の研究員が身振り手振りでさっさと北部に行けと指示してくる。ルーカスは小さく息を吐き、石橋に向き直った。


 彼らが北部や石橋から距離を取る理由がわからないわけではない。周囲には、明らかに異様な空気が流れていた。


(これは……)


 ルーカスは改めて周囲を見やる。


 何の音もしない。


 鳥の声も、虫の声も、獣の声もしない。風も吹かず、辺りは不気味なほど静まり返っている。初夏の今時分にはありえないほど、何の生き物の気配もしない。


 それなのに、視線を感じる。峡谷の底から、霧に覆われた北部の針葉樹の森から、おびただしい数の視線がこちらに向いている感覚がした。姿の見えない何かが、こちらを見ている。鳥肌が立ち、冷や汗が背を伝う。


 ルーカスは首飾りを握り、一度深呼吸すると、ゆっくりと歩き出した。一歩一歩、踏みしめるように石橋を渡っていく。その間も、目に見えない何かの視線は外れない。


 恐怖で足が止まりそうになるも、必死に「止まるな」と自分自身に強く言い聞かせた。今止まれば、恐怖に身がすくんで動けなくなる。止まるな。止まったら終わりだ。


 ルーカスは意を決して、霧の中——北部へと一歩足を踏み入れた。


 途端に、濃い霧がルーカスにまとわりつく。ゆっくりと慎重に歩みを進めながら、周囲を警戒する。濃い霧のせいでこの先に何があるのかは見えないが、幸いなことに足元が確認できる程度には見える。


 周囲は針葉樹の森のようだった。生えているのは、滑らかな木肌の見たこともない木で、ルーカス二人分の高さから枝が上向きに伸び、細い葉が茂っている。


 足元の地面には、丸い形状の黒い花弁を持つ小さな花が咲き乱れていた。やはり、見たことのない花だ。


 辺りは相変わらず不気味なほど静まり返っていた。何の物音もしない霧の森を、息を殺しながらゆっくり進んでいく。


(静かすぎる)


 自分の心臓の鼓動が周囲に聞こえてしまうのではないかと思うほどに、異様な静けさだ。自らの衣擦れの音がやけに響く。一歩、また一歩と歩みを進めるも、なぜか地面の花を踏む音すらしない。


(……ん?)


 そこで、はたと気付いた。


 ——なぜ、地面にはこれほど一面に花が咲いているのに、足を踏み出しても花を踏む音がしないのだろう?


 ルーカスは疑問を抱くと同時に、反射的に足元を見る——全ての花が、ルーカスを見ていた。


 開いた花弁は全てルーカスの方を向いている。まるで太陽の光を求めるかのように、前方も、後方も、右も、左も、全ての花がルーカスに向かって開花していた。花弁の中の青いめしべと赤いおしべが、じっとこちらを観察している。


 ぞっとして、思わず後退りする。正体の不明の恐怖がルーカスを襲う。視線を感じる。上からも、下からも、前からも、後ろからも、右からも、左からも。何かに見られている。


 ルーカスはとっさに首飾りを握りしめ、素早く踵を返して走り出した。北部に入ってから、まだそれほど進んでいない。真っ直ぐ引き返せば、戻れるはずだ。


 ところが、ルーカスがいくら走っても、森から出られない。行く先はどこまでも濃い霧に覆われた針葉樹の森だ。


(どうなってるんだ……!)


 走り続けるルーカスの耳に、遠くから誰かの話し声が聞こえてくる。かと思えば、すぐ近くからも話し声がする。何を話しているかまではわからない。言語そのものが、今自分が使っているものとは違う気がするが、確認する余裕などない。


 話し声は徐々に増え、そこかしこから聞こえてくる。しかし、その声を発する何かはルーカスの目に映らない。何かを議論している、と直感する。ああでもない、こうでもない、と意見が飛び交っているのだ。


 その議論に紛れて、「人間?」「人間だ!」「どうして人間が?」「約束を破った人間を殺せ!」「生かして返すな!」などと聞き取れる言語で怒号が飛び交う。ルーカスが北部に踏み入ったことが知れたのだ、と察して血の気が引く。もつれそうになる足を懸命に動かし、走り続ける。


(どうすればいい……!? どうすれば……!?)


「では、私が『赤星(あかぼし)』となる任、謹んでお受けいたします」


 これまでにないくらい近く——すぐ耳元で、凛と澄んだ声がした。そうして次の瞬間、ルーカスは思い切り何かにぶつかった。


「……っ!?」


 しっかり前を見ていたし、霧が濃いとはいえ足元が見えるくらいには視界を確保できていた。ルーカスの行く手には何もいなかったはずなのに、瞬きの一瞬で何かが目の前に現れ、その何かに思い切り衝突して顔面を強打してしまった。


 顔面を押さえて痛みに呻きながら、目の前に現れた何かを確認しようと目を開く。


「おや」


 ルーカスが衝突した目の前の何かが、小さな声を上げて緩慢な動作で振り返る。ルーカスはそこで初めて、自分が何者かの背に激突したのだと察した。そうして、その何者かを真正面から見た。途端に、ルーカスは息を呑む。


 背の中程まで伸びた白茶色の長髪に、飴色の瞳を持つ優しげな印象の美しい青年だ。足元までを覆う、白色のマントのようなものを身に付けている。


 青年はルーカスより、少なくとも頭ひとつ分は背が高い。楚々として上品な、ひどく整った目鼻立ちに薄い唇。穏やかで優しそうに見えるのに、同時に言い表しようのない冷たさを感じる。この世のものとは思えない美しさを持っているからだろうか。


 青年が小首を傾げると、白茶色の髪がさらりと揺れ、白色の小さな丸い石が縦に連なるピアスが揺れた。丸い石のピアスは、見る角度によってうっすら青みを帯びる。それがまた、青年の美しさを引き立てている。


 ルーカスは魅入られたように青年の一挙手一投足を見つめることしかできなかった。あまりの美しさに呼吸を忘れる。


「人の子だね。ここまで来るとは珍しい。迷ったのかな?」


 自分に問いかけているのだ、と理解するまで数秒を要した。ややあって、ルーカスは頷く。目の前の美貌の青年を見つめることに必死で、頷くことしかできなかった。目が離せない。得体の知れない熱が身体中で暴れ回っているかのようだった。


「きみはとても運が悪いね。こんな時にここに来てしまうなんて……」


 穏やかに、のんびりと言葉を紡ぐ青年は、心配そうな表情でルーカスをじっと見つめる。


 その間も、そこら中から「人間!」「殺せ!」「人間だ!」「八つ裂きにしろ!」「首をもいで奴らに送りつけろ!」「約束を破るなんて!」「串刺しだ!」「細切れにしてやる、人間め!」などと怒号が飛び交っていたが、ルーカスは目の前の青年に意識を奪われて、それどころではなかった。


「……無事にここから出たい?」


 問われて、ルーカスはもう一度頷く。ここでようやく、青年の声が、先程耳元のすぐ近くで聞こえた凛と澄んだ声と同じだと気付いた。


「そうか。なら、僕がきみを外に連れて行こう」


 そう言って、青年はふわりと笑う。途端に、どっと安堵して膝から力が抜けそうになる。理由はわからないが、この青年は大丈夫だと確信した。少なくとも、この青年にルーカスを害する意思は感じられない。


「ただ、ここから出るには……きみのこれから先の半年間を貰う必要があるのだけど、いいかな?」


(俺の半年を、貰う?)


 意味がわからなかったが、悪いようにはならない予感がして、頷く。


 ルーカスが同意したのを見て、青年が満足げに頷き返す。


「ありがとう。きみのこと、大切にするよ」


(大切にする?)


 言い回しがどうも気になるものの、青年が何を考えてその発言をしたのか上手く聞き出せる気がしない。ルーカスは結局黙り込んだ。


「これから僕が何をしても、何を言っても、きみは黙っているように。皆に何か言われたら僕が答える。どうしても話さなければならなくなったら、適当に僕に調子を合わせて。できるね?」

「はい」

「いい子だ」


 小さな笑い声を上げて、青年がルーカスの頭を優しく撫でる。まるで幼子に対するような態度と声音にじわりと羞恥が湧いたが、ルーカスが何かを言う前に手が離れていった。


「さてと……では」


 緩慢な動作で青年が振り返り、ルーカスに背を向ける。それから、マントの合わせ目から左手を差し出し、言う。


「手を」


 手を、と言われても、何をどうすればいいのかわからない。ルーカスが困惑して黙っていると、「ふむ」と青年が小さく呟く。どうやら、ルーカスの困惑を察したらしい。


 青年は、マントの合わせ目から右手を出してルーカスの右手を取ると、自らの左腕を握らせ、ルーカスを自らの横に立たせた。エスコートするかのような形になり、ルーカスは内心でそういうことだったのかと納得する。


「僕から離れないで。この手はこのままで」


 ルーカスは頷く。青年は気遣うような視線をルーカスに向ける。


「怖かったらぎゅっとくっ付いてもいいからね」

「それは……」


 結構です、と言えばいいのか、そこまで気遣わなくても大丈夫です、と言えばいいのか。どう遠慮すればいいのかがわからず、結局黙り込んだ。


 青年は小さく笑い、かと思えば次の瞬間、その顔面から一切の表情を消した。冷淡さすら漂う無表情でルーカスから目を逸らし、前方を見つめて、唐突に開口する。


「では、約束した通り、私の願いを聞き入れていただけますか?」


 先程までの穏やかでのんびりした口調とは打って変わって、ひどく冷たい口調で言い放つ。それほど大きい声ではないにもかかわらず、その声は不思議と周囲に響き、凄まじい怒声を上げ続けていた何かが一斉に黙り込んだ。


 急速に静まり返ると同時に、周囲の霧が薄くなっていき、周りの様子が見えた。


 ルーカスと青年が立っているのは、湖の中にある小島のひとつだった。


(湖か……?)


 ルーカスは内心で首を傾げる。目の前に広がる湖はルーカスの知る湖とは少々様相が異なっており、ルーカスにはこれが湖だと断定することができなかった。


 小島の周囲には、ひどく澄んだ水に満たされた広大な湖が広がっている。魚の類いは一匹も見当たらず、湖の底には真っ黒な何かが沈澱している。さらに、その真っ黒な何かの中で、無数の小さな青い光が瞬いていた。まるで、夜空が湖の底に沈んでいるかのようだ。


 ルーカスは始め、湖の水自体が黒いのかと思った。だが、よく見てみると、小島に打ち寄せる波飛沫が無色透明であることに気付いた。そこでようやく、水が驚くほど透き通っていて、底に黒い何かが沈澱しているのだと察した。


 これほどに水が澄んでいるのに、いくら目を凝らしても湖の底に沈澱する真っ黒な何かが何なのか全くわからない。青い光も同様で、何が光っているのか全くわからなかった。


 湖は、浅いようにも深いようにも見え、美しくもあるが、同時に不気味だった。水に触れたら駄目だ。理由はわからないが、本能的にそう感じた。波が小島にぶつかって弾ける波飛沫の一滴でさえ触れるのは危険だ。


 湖には、ルーカスと青年が立つ小島の他にも無数の小島が存在し、それら全てに何かがいた。小島にいる何かの姿は、そこだけ霧に覆われていてはっきりと視認できないものの、青年と同じく足元までをすっぽり覆うマントに身を包んだ人が大多数で、他にも人の身の丈と同じくらいの大きさの巨大な猫や鳥、馬のような動物らしき姿も見えた。はるか向こうの湖岸には、様々な色の明かりがずらりと並んでいて、よく見ると蠢いている。


 異様な状況に混乱しそうになる頭を必死に働かせ、どうにか現状を整理する。


 北部に入り、気付いた時にはここにいた。ルーカスは北部から出ておらず、また、北部は人間の侵入を拒む。つまり、隣の青年も他の小島にいる人々も人間のような姿をしているが、彼らは人間ではなく精霊だ。動物のように見える彼らも全て精霊なのだろう。湖岸の蠢く光も、もしかすると精霊なのかも知れない。


(もしかして、これが精霊の集いなのか?)


 ルーカスはごくりと口内の唾を飲み込んだ。異様な緊張感と威圧感が場に満ちていて、腕を掴ませてくれる隣の青年の存在がなければその場にへたり込んでいるところだった。


「赤星様。あなたは、何を望まれると言うのですか?」


 すぐ近くから、少年の声がした。言葉遣いは丁寧だが、その言葉尻からは明確な呆れが感じ取れる。たった一言で、少年が隣の青年に良い感情を持っていないことが知れた。


「この人間を貰いたい」


 青年が平然と言い放つ。瞬間、場にいる全ての精霊たちが騒ぎ出す。


「人間を……? なぜですか? 始末するべきでは?」


 精霊たちは騒ぎ続け、ややあってしわがれた声が青年に意見を述べた。


 間髪入れず、青年が開口する。


「私は、父と母が手を取り合うことになった、その選択に興味があるのですよ」


 青年がそう言い放った途端、精霊たちが水を打ったように静まり返る。尋常ではない緊迫感と緊張感、殺気すら感じられるような視線に気圧され、ルーカスの足が震え始める。


 そのことに気付いたらしい青年が、ルーカスとの距離を詰めてぴたりとくっ付く。それから、空いている右手で、左腕を掴むルーカスの指先を軽く握る。


 ひやりと冷たい青年の手に驚き、ルーカスはびくりと身じろぐ。だが、次の瞬間には青年の手に熱が戻った。不思議には思ったが、疑問を青年に投げかけられるような空気ではない。


 青年は、まるで「大丈夫だよ」と宥めるようにルーカスの指先を握る手に力を込める。青年の手から伝わる体温と気遣いに安堵し、足の震えが徐々に治っていく。


「……つまり、あなた様は……」


 今度はすぐ近くから若い女性の声がした。愕然とした様子で口ごもり、少しの間を置いて言葉を続ける。


「……その人間を、娶りたいと仰っているのですか?」

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