母の後を継いで悪女となりました
「おぉロルフ、久しぶりだな!帰ってきてたのか!」
言いながら、男は上背のある男の背に手を置いた。
ロルフと呼ばれた男は、馴染みのある顔に笑みを返すと男と固い握手を交わす。
「あぁ、一昨日な」
「それはそれは、旅の疲れも取れないうちに早速女遊びとは大したもんだ。…なんかまたデカくなったか?」
言いながら確かめるようにロルフの腕を叩く。
確かに細身の男が大半の中で、ロルフのように筋肉質でがっしりとした体躯はよく目立った。
「まぁそうかもな」
「で?今回の旅ではどんな子と出会ったんだよ?」
「そうだな…南部の女は良かったぞ。肉欲的で、ベッドの上ではかなり情熱的だったな。王都の女に飽きたならお勧めする」
「おいおい、みんながみんなお前みたいに好き勝手にできたらそんな苦労はしねぇよ。南部の女なんて出会えること早々ないだろうが」
ロルフの言葉に男はやってられねーとばかりにグラスを呷った。
その様に声を出して愉快そうに笑う。
「そういや、お前の好きそうなのが一人いるぞ」
男はきょろきょろと辺りを見回しながら言葉を続ける。
「俺らの親世代の頃に一世を風靡したらしい悪女の娘が、これまたとんでもないんだってよ。もう既に何人も食ってるらしいが、皆口を揃えて言うんだ、自分の口からは何も言えないってな。どーんなスケベなことしてんだってもっぱらの噂だよ。…お、いたいた」
そう言って指差した先には、明らかに異彩を放つ香り立つような美女が立っていた。
「な?お前が好きそうな肉欲的な良い女だろ?彼女が来てる会ではこぞって誰が持ち帰るかって賭けてるぐらいだぜ?」
「へぇ…」
ロルフは確かに、と渦中の女を見て目を細める。
どこか物憂げな表情でグラスを片手に会場を眺めている彼女は、数多の女を口説き落としてきたロルフも息を呑むほどに魅力的だった。
周りの男たちもちらちらと様子を窺っており、誰が声をかけるか牽制し合っているようだ。
そんな様にロルフはにやりと口角を吊り上げる。
「ま、あの子じゃなくてもお前のこと見てる女はそこら中に…っておい!行くのかよ!?」
男の話を最後まで聞くこともなく、後ろ手にひらひらと手を振ってロルフは目当ての女に近付いて行く。
道中にすれ違う女たちがぼうっと惚けたようにロルフを見るが、そんなものは眼中にない。
「やぁ、一人なら一緒にいいかい?」
女はちらりとロルフを見上げると、すぐに警戒したような顔をした。
ロルフは意外と手強そうな相手にますます胸が躍る。
「見ない顔だが、普段は王都に?」
「…いいえ、辺境に領地があるので滅多に来ないわ」
「へぇ。何処かきいても?」
その問いに一瞬戸惑ったような顔をしてから、女はふいっと目を逸らしてからぽつりと告げた。
「南部の端の方よ」
「南部か、そりゃあいいな。あっちの人は王都の人間と違って裏表もないし明るくて良い」
ロルフの言葉に、女は驚いたように顔を向けて、食い入るようにその目を見つめた。
下から見上げてくる潤んだ眼差しに、ロルフはごくりと唾を飲む。
「貴方、南部を知っているの?」
「あぁ。色々と旅して回ってるからな。この間まではそっちの方にいたんだ」
「そう…なの。そう、そうなのよ、とっても良い所でみんな良い人たちだわ」
女は華やぐような笑みをロルフに向けた。
それは萎れていた花が命を吹き返したように、眩しい笑みだった。
「こっちの文化には不慣れで…何か粗相があったらごめんなさい」
困ったように眉を下げて微笑むその顔から目が逸らせない。
吐息のようにどこかしっとりとした語り口調が耳に心地良く、形の良い赤い唇が艶々と輝いて、まるでロルフを誘っているようだ。
その唇にかぶりついて、貪り尽くしてしまいたいと欲望が滾る。
彼女は何かを話しているが、もうロルフの耳にはほとんど届いていなかった。
ただその姿に魅入られたように、目が離せない。
どくどくと脈打つ自身の心臓の音が、大きく耳に鳴り響く。
何か魔法にでもかけられたように、ぽろりと言葉が溢れ出た。
「…抜けないか?ここから」
気づけば彼女の手を取ってそう口走っていた。
ロルフは自分で制御できない言動に驚きながらも、その手を離そうとはしなかった。
こんな風に誰かの笑顔にときめき、触れたくて焦がれるような焦燥感は初めてだった。
早く、二人きりになれる場所へ。彼女の笑顔を独り占めできる場所へ行かなくては――、
「ッ…良い加減にして!!もううんざりよ!貴方たちは発情期の猿なの!?」
一瞬傷ついたような顔をして手を振り解いた彼女は、そう叫びながらグラスの中身をロルフに浴びせかけた。
*
ジャクリーンは王都から離れた南部の辺境に領地を持つワイルバーン伯爵家の一人娘だった。
自然豊かなその地で、領民たちに交ざって農作業に勤しむこともあるようなお転婆娘。
両親は仲睦まじく、遅くにやっと授かったジャクリーンを溺愛しており、領民たちも彼女を親戚の子かのように可愛がっていた。
ジャクリーンの父と母は20歳以上も歳が離れており、母は後妻だった。
ある日王都からやってきた華やかな若妻に、こんな田舎でやっていけるのかという周りの思いに反して、あっという間に馴染んで受け入れられていった。
何より二人が心から愛し合っていることが、誰の目から見ても明らかだったことが大きかったように思う。
辺境であっても数年に一度、社交シーズンには顔を出すのが貴族の義務だ。
ここ数年、加齢により旅路が辛くなりつつあるワイルバーン伯爵は社交界を欠席し続けていた。
しかし今年はさすがに顔を出せねばなるまいと、重い腰を上げようとしていた矢先に、あろうことかぎっくり腰をしてしまったのだ。何の笑い話かと思うが、ワイルバーン家にとっては死活問題である。
なんと言っても今年は国王直々に会えるのを楽しみにしている、ともはや脅しとも取れる封書が届いていたのだ。
国王からの手紙の手前、まさか書面で欠席の旨を伝えるわけにもいかず、かと言って家臣に代理を頼むことも体裁が悪い。
已む無く夫人が単身で向かうこととなっていたのだが、不運とは続くもので、出発を5日後に控えた夫人はまだら病という感染症にかかってしまった。
その病自体は特段珍しいものではなく、2、3日の高熱さえ下がれば快方に向かうのだが、まだら病という名前の通り、身体中に赤いまだら模様が出るのが厄介だった。
夫人の顔にまで及んだその模様は、とてもではないが人前に出られる様ではない。完治には2週間はかかるとされているため、夫人の上京は絶望的だった。
そうして答えの出ない問題に夫妻が頭を抱えていた時、その愛娘が言ったのだ。
「あら、そんなの私が行けば良いんじゃなくて?」
夫妻は娘のあっけらかんとした答えに別の意味で頭を抱えた。
国王も一人娘が顔を出したのであれば、何も不満には思わないだろう。
「王都には初めて行くわけでもないし、皆もついて来てくれるのでしょう?」
両親がジャクリーンを一人で王都に行かせるのを渋るのには理由がある。
誰がどう見ても幸せな家族、それが領地での評判だったが、王都での評判はそうではなかった。
ジャクリーンの母はその妖艶な容姿で数々の男を魅了してきた社交界の華であったが、それと同時に多くの女性を敵に回してきた女性でもあった。
確かに娘のジャクリーンの立場でも、たまに鼻につくような言い回しをするな、と思うことがある。
ただ田舎の領地ではそんな言い回しも通用することがなく、またよくわからないこと言ってんなーぐらいで流されるので問題になっていないだけだった。
そんな女性が辺境の親子程も歳の離れた男の元へ後妻として嫁いだのだ。王都では金目当ての結婚だとその当時はもっぱらの噂だった。
ジャクリーンの容姿は幸か不幸かそんな母にそっくりだった。少し垂れた潤んだ瞳に、ぽってりとした赤い唇。そして極め付けには右顎にぽつりと黒いほくろがある。体も肉感的で、領地では健康的だと言われているが、細身の女性が多い王都の貴族女性の中では浮いてしまうだろう。
ジャクリーンは15歳の社交デビューの年には両親と共に王都のタウンハウスに滞在したことがあったが、この時は両親という鉄壁に守られて、その悪意に晒されることがなかった。
王都の醜い応酬を、この田舎でのびのびと過ごした無垢な娘が上手くいなせるとは到底思えない。
だがしかし、背に腹は変えられぬと両親は泣く泣くジャクリーンの単身上京を決意したのだった。
そうして両親に、特に母に、まさしく耳にタコが出来るのではと言う程何度も何度も何度も如何に王都は恐ろしい所か、王都の貴族の醜さを懇々と説かれたジャクリーンは、父の腹心の側近と選りすぐりの使用人たちを連れて上京した。
とにかくジャクリーンがすべきことは、王宮主催の晩餐会で王にワイルバーン伯爵の欠席を詫びること。
それ以外の招待に応じる必要はないと口を酸っぱくして言われていた。
だがそこは年頃の乙女。タウンハウスに届く招待状の数々を嬉々として吟味して、同世代が集まる会に積極的に参加しようとしていた。
領地には貴族の友人はいないため、優雅なお茶会ができるような交友関係に憧れがあったのだ。
しかしそれは、早々に儚い夢と散ることになる。
王宮の晩餐会を皮切りに、社交シーズンの開幕となるが、ジャクリーンは王への謁見こそ無難に済ませたものの、次手を誤ってしまった。
声をかけて来た侯爵家の長男だと言う優男に、すげなく言い放ってしまったのだ。
「ごめんなさい。貴方のような細身な方ではちょっと私と釣り合いが取れないかと…」
その言葉を耳にした男はわなわなと怒りで顔を赤くして立ち去って行った。
ジャクリーンはそんな姿を不思議そうに見送ったが、後にそれが大惨事を招くこととなる。
ジャクリーンはただ、周りの貴族女性と比べて明らかに太身な自分を、あのもやしのように細い男性がダンスで支えられるとは到底思えなかっただけだった。ただでさえダンスは苦手なのだ、相手に恥をかかせては申し訳ないと身を引いたつもりだったが、相手はそうは受け取っていない。
"貴方のような軟弱な男では私の相手は務まらなくてよ"
貴族言葉ではこのように変換されたことだろう。
何よりその相手が悪かった。よりにもよって若手紳士倶楽部の筆頭とも言える、今王都の年頃の令嬢の間で人気を博している男だったのだ。
そんな自信に満ち溢れた男が田舎の小娘に馬鹿にされて、そのまま黙っているはずもない。
次にジャクリーンが参加した夜会では既にこんな噂が広まっていた。
あの金目当てで嫁いだ悪女の娘もとんでもない阿婆擦れだ。王都で既に男を食い漁っている――、と。
こうなってしまえばもうジャクリーンにはどうすることもできない。
後は噂に尾ひれ背びれが付いて、とんでもない尻軽女の完成だ。
それでももしかしたら誰か一人ぐらいは自分の話を聞いてくれる、友人になれる人がいるかもしれない。
そう信じて何度か招待に応じて来たが、もう我慢の限界だった。
王都でワイルバーン伯爵家が何と言われようと、辺境に帰ってしまえばどうでもいい。
こんな悪の巣窟のような場所からは一刻も早く立ち去りたかった。
*
「貴方の…!貴方たちの頭の中には色事しかないの!?」
ジャクリーンは息を乱しながら、大きな声で怒鳴る。
こんな感情に任せて、はしたなくも声荒げるだなんてこと、物心がついてからこれまでした覚えはない。
「誰も私の言葉なんて聞かないのよ!どれだけ私がそれを嘘だと否定しても、他人の真っ赤な嘘を信じるの!私がこんな見た目だから悪い?男を誘うような体付きをしている?私の?どこが!?そこら中にいる露出の激しい服を着て悦に入っているような人たちとどこが一緒だと言うの!?」
遠巻きにこちらを見ていた女性陣がジャクリーンの物言いに言葉を詰まらせ、眉を吊り上げる。
胸を寄せ上げ、背中もざっくりと開いたドレスを多くの女性たちが身に着けていた。深くスリットの入ったもの、レースで覆われてこそいるものの腹部が透けて見えるもの、そんな男を誘うようなドレスが溢れる中で、ジャクリーンの身に纏っているものは布地の面積が遥かに多い。
首元まで詰まり、デコルテも背中も布に覆われたシンプルな濃紺のビロード生地のドレス。
スリットも入らないマーメイドラインの裾に、少し長めのトレーンと金の刺繍がとても上品な一着だ。
唯一の露出はノースリーブから出た肩と、二の腕までの手袋との間だけ。
ジャクリーンの魅力的な身体のラインだけは隠し切れていないが、それでもタイト過ぎないゆとりのあるデザインだった。
周りの注目を集め、会場がしんと静まり返る。
ジャクリーンは少し間を置いて呼吸を整えると、打って変わって感情の篭らない静かな声音で続けた。
「…貴方たちはわからないでしょう?好きでもない相手に、まるで私が好意を持っているかのように振る舞われる不快感が。自分が力で勝つことの出来ない相手に、常に性的な目で見られていることの恐怖が。大勢の目があるうちはまだマシよ。この会場を一歩出て、化粧室まで行くことさえ恐ろしくて怯えている人間の気持ちがわかる?物陰や休憩室に連れ込まれそうになる、あの恐怖をご存知かしら?」
言いながら、自分を守るようにきゅっと抱きしめる。
「そんな犯罪まがいのことがあれば、警備に報告すればいいじゃないか」
さも当然とばかりに誰かが言う。
ジャクリーンは声の主に視線を向けて、自嘲するような笑みを浮かべた。
「私が報告しなかったとでも?言ったわよ、何度もね。でもその度に言われるの、貴女もその気があったんじゃないですか?本当に嫌だったんですか?って」
警備の人間は、貴族ではない。だからジャクリーンの噂を知っていたかはわからない。でも明らかにジャクリーンの容姿を見て、にやにやと纏わりつくような笑みを浮かべて言うのだ。
さもジャクリーンにも非があったかのように。
「誰も、自分で真実を確かめようとはしないのよ。人がどう言っていたか、そんな不誠実な噂に惑わされて、真相を見極めることもできない。そんな人たちがこの国の未来を担う貴族子女だなんて、なんて嘆かわしいのかしら。たった一人の田舎から出てきた小娘に寄ってたかって欲情して、陰口を叩き、嘲笑う…これが王都の貴族?ほんと貴族だなんて名前だけのとんだ下劣な集団ね!」
大きく溜め息を吐いて、ジャクリーンは気怠げに額に手を当てた。
「もううんざりだわ…まさかとは思っていたけど、お母様の言う通りだったのね。王都の貴族は節操もない盛りのついた猿ばかりだって!」
会場の面々をキッと睨みつけて、ジャクリーンは吐き捨てるように言い放つ。
蔑むような視線でギョッとしたように息を呑んだ面々をふんっと一瞥した。
これなら領地の猿の方がよっぽど理性的だわ、そうぶつぶつと誰に聞かせるでもなく呟きながらくるりと踵を返すと、足早に会場を去って行く。
そんな彼女を引き留める者は誰もいなかった。
*
あれからすぐに荷物を纏めて、ジャクリーンは領地へと帰った。
その顔を涙でぐしゃぐしゃにして帰ってきたジャクリーンに、使用人たちは戸惑った様子であれこれと世話を焼いたが、誰も何があったか聞くことはなかった。
すぐにでも領地に帰りたいと言ったジャクリーンの言葉に、彼らは全力で応えて翌朝には荷造りを完成させてくれたのだ。
その優しさに、ジャクリーンはまた泣いた。
領地に戻ってからは真っ先に、両親にワイルバーン家に泥を塗るようなことをしたと謝罪した。
明らかに元気のない様子でしょんぼりと頭を下げるその姿に、両親は何も責めることなくジャクリーンを抱きしめた。
ジャクリーンはまた泣いてしまった。
しばらく落ち込んだ様子を見せたジャクリーンを、使用人たちはあの手この手で励まそうとした。
しばらく姿を見せないことに、領民たちも何かあったのかと気を揉んでいた。
皆がジャクリーンのことを心から案じていた。
ジャクリーンはそんな真綿のような優しさに幾重にも包まれるように過ごし、次第に元気を取り戻していった。
そうしてあの悪夢のような王都での日々を過去として消化できるようになり、平穏な日常を取り戻した矢先に、事件は起こる――
*
「お客様?私に?王都から?」
庭で母とアフタヌーンティーを楽しんでいたジャクリーンのもとに、執事がやって来て来客を告げた。
ジャクリーンは母と顔を見合わせて怪訝な顔をする。
「ランドルフ・バージェス様とおっしゃる方です。お嬢様と面識はあると」
王都で面識のある人間なんて、ろくな者はいない。
わざわざこんな辺境まで言いがかりをつけるためにやって来たのだろうか。
「用件をお聞きして、お帰り頂いて。もし何かしらの謝罪を求められたりしたら、書面で送ってくれと伝えておいて」
「畏まりました」
去っていく執事を見送りながら、ジャクリーンは不安にその瞳を揺らす。
そんなジャクリーンの手を、優しく母の手が包み込んだ。
その優しい温もりに励まされ、悪夢は再来しないと自身に言い聞かせる。
だがジャクリーンの意に反して、その人物の来訪はあの日から日を置くことなく続いていた。
執事によると、謝罪をしたいのだと言っているらしい。
こちらは謝罪など不要だと何度追い返しても、男は懲りることはなかった。
「わかったわ。私が会いましょう」
そう母が言ったのは、男の来訪から10日が経った頃だった。
初めは父がと言っていたが、まだ車椅子を使用している状態だったために母が却下した。
父は心配して自分も出ると最後まで言い張ったが、最後は母の「私のことが信用ならないの?」という泣き落としで泣く泣く身を引くこととなった。
いつものようにアフタヌーンティーの時間にやって来た男に母が応対する。
ジャクリーンはそわそわと落ち着かず、お茶も進まなかった。
「ジャクリーン、貴女もいらっしゃい」
そう声がかかったのは、面会から半刻程経った頃だった。
ジャクリーンは驚きに身を固くして、優しく微笑む母の顔を見つめる。
「大丈夫よ、貴女を傷付ける方ではないわ。私も一緒に行くから、ね?」
そう言う母の言葉を信じて、恐る恐る顔を出したその場にいたのは、あの最後の夜会で会話した男だった。
そのどこかほっとしたような表情を見て、ジャクリーンの胸は苦しくなる。
罵声を浴びせ、飲み物まで浴びせかけてしまった手前、気まずさに視線を合わせることができない。
「…やっと会うことができた。元気そうで安心したよ」
優しい声音で掛けられた言葉に、ジャクリーンは何も返すことができない。
まるで拗ねた子どものような自分に、情けない気持ちが溢れてくる。
「まずは、あの日のことを謝罪させて欲しい。貴女に不快な思いをさせて、申し訳なかった」
硬い声で言って頭を下げた男に、ジャクリーンは何故だか泣きそうになる。
「やめてください…私の方こそ貴方に酷いことを」
「いや、貴女は何も悪くない。噂を真に受けて、貴女に安易に近付いたのは事実だ」
ジャクリーンは言われた言葉に息を呑む。
あの日、ほんの少しだけこの男に期待した。これまでの男たちと違って、ちゃんとジャクリーンの目を見て話をしてくれたから。
南部の人を褒めるその言葉に偽りはなく、この男なら大丈夫かもしれないと思えたから。
だからその後に浴びせられた言葉は、ジャクリーンにとって裏切りにも等しい言葉だった。
「だが、少し話をしてすぐになんだか噂と違うと思った。貴女がそんな男を取っ替え引っ替えしてるような、そんな気は全然しなかったんだ」
「でも、あの時貴方は…!」
「あぁそうだ。確かに君を傷つけてしまうような言い方をしてしまった。何を言っても言い訳にしかならないが…本当に、ただ二人切りで話したかっただけなんだ。君に纏わりつく視線を遠ざけたくて」
眉を下げ、情けない表情をしてランドルフは言う。
ジャクリーンに信じて欲しいと懇願するように、一言一言に誠意を込めて。
「正直、君のことは忘れようかとも思った。でもどうしても忘れられなかった。むしろ日に日に会いたい気持ちが増して、気付いたらここに来ていた」
ジャクリーンはまだランドルフの言葉をすべて嘘偽りがないと信じることはできない。
でもその熱意の籠った言葉の数々に、胸が揺さぶられるのを感じる。
「あの時の君の言葉…実に刺さった。あれから色々とまぁ…あったよ、王都では」
君には関係ないことだから気にしなくていい、と続けてランドルフは肩をすくめて小さく笑う。
「こんなか弱い女性相手に…本当になんと謝罪していいのかわからない」
「…別に貴方が謝罪なさることではないわ」
「そうだな、謝罪なんて何の意味もない。行動で示さなければ」
じっとジャクリーンの顔を見つめ、膝の上の拳を固く握りしめる。
ジャクリーンは射抜かれた視線の強さに戸惑い、瞳を揺らした。
「あー…だめだ」
そうしてしばらくの間無言で見つめ合った後、ランドルフは急に片手で顔を覆って背もたれに身を投げ出すと、力が抜けたようにだらりと天を仰いで言った。
突然の行動とぽつりと溢れた言葉に、ジャクリーンは首をきょとんと傾げる。
「好きだ。可愛すぎる。好きなんだ。もう理性を保っていられない」
「…はい?」
その言葉を皮切りに、ランドルフの口からは次々と可笑しな言葉が飛び出してくる。
「妄想の中より実物の方がずっと良い。可愛い。好きだ」
「…」
「あの日のドレス姿も良かったが、今日の素朴な装いも良い。実に良い。好きだ」
「…」
「どうしたらいい、好きなんだ。これ以上何を言えば君に信じてもらえる?あの時啖呵を切った君に脳天を貫かれたように痺れたし、不意に見せた泣きそうな顔には庇護欲でどうにかなってしまいそうだった。今も君が目の前にいることに興奮して自分の感情をセーブできない」
何それ怖い、とぶつぶつ呟くランドルフに思わず後ずさるジャクリーン。豹変と言っても過言ではない変わりように、何が何だかわからず、思わず隣の母の手をぎゅっと握って怯えた顔をして母を見た。
母は困ったように首を傾げて、それからふふふと愉快そうに笑う。
「随分と重い愛ですこと」
「ああそうだ、そうです。愛している、ジャクリーン、貴女を」
突然顔を覆っていた手を外し、がばりと体を起こしたランドルフは、身を乗り出すようにしてジャクリーンをじっと見つめて言った。
テーブルを挟んだ向かいからまるで獲物を狙うようにギラギラとした目で見つめられ、ジャクリーンは身の危険を感じソファの背もたれまで最大限身を引く。
「これから貴女にこの気持ちが本物だと認めてもらえるまで毎日通う」
「そ、それは…」
「愛してる、ジャクリーン」
この人発情期の猿なの?とジャクリーンは失礼なことを思いながら頬を引き攣らせる。
母はそんな二人の様子をあらまぁと愉快そうに眺めていた。
この日を境に、ジャクリーンは王都での日々や自分を苦しめた悪意ある噂を思い出すことはなくなった。
それをも凌ぐ嵐が彼女を襲ったのだから当然の結果である。
それが幸か不幸かは、ジャクリーンのみぞ知ることだ。
*
それから連日のように惜しげもなく愛を叫ぶランドルフと、それを邪険に扱いつつも次第に絆されていくジャクリーンの姿が領地では名物になった。
初めはカンカンだった父も、いつの間にか二人でジャクリーンの愛らしさについて語り合う同志となっていた。
そうしてジャクリーンがランドルフの愛を受け入れるようになった頃、またしても領地を激震が襲う。
これまでろくに仕事もせず(ジャクリーンが農作業をする時は共に働いたりはしていた)ジャクリーンの尻ばかり追いかけていたランドルフが、ある日突然王都に戻ると言って旅立ち(何度もジャクリーンにすぐ戻るから必ず待っていてくれと念押ししてうざがられていた)、帰ってきたと思ったら「ワイルバーン領を辺境伯領と認め、その領土を拡大し、隣国との貿易ターミナルとして開拓を進める」という王勅の親書を持ち帰り一同を仰天させ、さらには「第四王子、ランドルフ・バージェス・コルトナー・マルセルとジャクリーン・ワイルバーンの婚姻を承認する。またこれをもって、ランドルフ王子は王位継承権を放棄し、次期辺境伯となることを承認する」というこれまた王勅の親書を披露していよいよジャクリーンを卒倒させた。
放蕩息子と名高かった第四王子は、その後ワイルバーン領を大きく発展させ、国の発展に大きく貢献することとなる。
彼が生涯愛した妻はジャクリーンただ一人。
かつて親子二代に渡って悪女と呼ばれた女性の噂はいつの間にか立ち消え、ワイルバーン領は愛妻家が多い土地として王都でも羨望の地となるのだった。
「オアズケはその絶妙なタイミングが大切なの。あの子にはまだ早かったわねぇ…あれだけオアズケしちゃったら、タガが外れておかしくもなるわぁ」とはジャクリーンの母談。