ガロン伯爵家の爵位継承〜執事の献身と秘密
「ここにサインを」
普段、私のことを無視しているお父様から書斎へと呼ばれ、不審に思った私は執事のジョセフを伴って部屋に入った。お父様はジョセフが後ろに控えていることに難色を示したが、知らんぷりしてソファに座る。
座った途端にお父様は書類を突き出してそう言ったのだ。
渡された書類に目を落とすとすぐにお父様から声がかかる。
「読む必要はない。早くここにサインを書くんだ」
読む必要ないわけがない。そう思いながらも「わかりました」と口にする。
「お父様、ペンを貸していただけますか?」
そう告げて、お父様が立ち上がって後ろの机からペンを取ろうとした瞬間、書類を真っ二つに引き裂いた。
「何をしている!」
「爵位の譲渡の書類にサインをしたら私を追い出すつもりでしょう?サインなんてするわけないじゃないですか」
この国は男性も女性も爵位を持てる。このガロン伯爵家の先代の当主は3年前に亡くなったお母様で、爵位の継承は直系の血縁者となるため現在は私、リシェーヌ・ガロンが伯爵となっている。しかし国の法律上、未成年のうちは国から指名された後見人が立てられる。後見人は基本的に爵位を持った未成年の近しい親族となり、私の後見人はお父様だ。だから今はお父様が『伯爵代理』として実権を握っている。
しかしお父様が『伯爵代理』でいられるのは、私が16歳になり成人として認められるまで、あと半年を残すばかりとなっている。半年後、さんざん無視し虐げてきた私が伯爵として独り立ちした時、自分の立場はどうなるのか、さすがのお父様にも想像できたらしい。
しかしそこで『爵位の譲渡』の書類にサインを迫るとは思わなかった。頭が悪すぎる。書類の内容もろくに読まずにサインするわけないでしょう、お父様じゃあるまいし。
爵位の譲渡は血縁者に限り許される。お父様は遠縁とはいえガロン伯爵家の傍流の出であるから、書類さえ整えばガロン伯爵家を継承することができる。ただしその書類に必要な私のサインは、私が成人になったあとでないと効力を発揮しない。未成年者のサインなんてなんの意味もないから。
それなのになぜ今、お父様がこの書類を出してきたのかさっぱり意味がわからない。成人後だと警戒されるから今もらってしまえということだろうか。
「追い出すなどと人聞きの悪いことを言うな。伯爵位を私に譲渡すれば『伯爵令嬢』として良縁を望むことができるのだぞ。侯爵夫人にだってなれるかもしれない。今よりずっといい暮らしができるではないか」
「私が成人となり女伯爵として認められれば、今よりいい暮らしができますので家を出る必要がありません」
今の暮らしは衣食住の最低レベルなのだから。
三年前にお母様が亡くなり、葬儀を終えて一ヶ月もしないうちにお父様は一人の女性とその娘を家に招き入れた。喪が明けてすぐにその女性と結婚し、私には継母と一つ年上の義姉ができた。そのスピードと、お父様と同じ黒髪黒目を持ち顔立ちも似た義姉を見れば、いつからそういう関係だったのかは子供の私でも理解できた。
この伯爵家の正当な後継者は私だが、どうやらお父様は自分が伯爵「代理」であることを継母のリシュテーヌ様と義姉のカルロッタ様(二人を呼ぶ時には「様」を付けろと彼女たちに言われている)には伝えていないらしい。
かくして私はこの三年間、継母と義姉にいじめぬかれ、お父様は見てみぬふりを決め込んでいる。
ただ、私にとって救いだったのはこの国の法律上、私が死んだら伯爵位を継ぐのはお父様ではなく、お父様よりもっとガロン伯爵家の直系に近い血族となる。今のような生活をするためにお父様には私を生かしておく理由があったから、継母と義姉のいじめでも生命に危険が及ぶようなものは止めてくれていたようだ。日当たりの悪い部屋をあてがわれたり、服は粗末なワンピースしか与えられなかったり、お母様の形見や伯爵家に代々伝わる宝飾品が奪われたり、食事も使用人の賄いと同じものであったりしたけれど生きていくには充分だった。
「伯爵ともなればいろいろな煩わしい仕事も増えるんだぞ」
とお父様は言ったけど
「今だってほとんど私がやっているではありませんか」
私への嫌がらせのつもりなのか。面倒な仕事がイヤだったのか、母の死後しばらくして『伯爵代理』がやるべき書類仕事は全て押し付けられた。なにもわからない私に仕事を教えてくれたのは、お母様が生きていた頃に家令をしていたジョセフだ。
お母様の死後、お父様の嫌がらせで家令から従僕にまで格下げされていたが、『伯爵代理』の仕事を手伝ってもらうことを理由になんとかお父様を説き伏せて、私の執事になってもらった。今も執事として私の後ろに立っている。
「うるさい!口ごたえするな!私はお前の父親なんだぞ!いいから黙って言うことを聞け!」
と振り上げたお父様の腕を、スッと私を庇うように前に出たジョセフが掴む。ジョセフはお母様やお父様と同じ年頃だから30代後半くらい。お母様が死んでから不摂生でぶくぶく太ったお父様と違って細身ながら筋肉質な体つきで、たぶん今ここで喧嘩になったとしてもジョセフの方が勝つんだろうなと思う。
「なにをする!昔からお前は使用人のくせに生意気なんだ!お前は首だ!さっさとこの家から出ていけ!」
「出ていくのはお父様の方です!」
お父様に負けないくらいの大きな声を出す。ひと呼吸おいて気持ちを落ち着かせてからジョセフに声をかける。
「ジョセフ、あれを」
お父様の腕を離したジョセフは、内ポケットから封筒を取り出して私に手渡す。
「これはお父様たちが伯爵代理に与えられた権利以上に伯爵家の財産を使い込んでいる証拠の一部です」
封筒の中の書類をお父様に見せる
「な……」
「リシュテーヌ様とカルロッタ様の買い込んだ衣装や宝石、お父様が買った美術品、皆さんの遊興費、お父様は裏賭博にも手を出していたのですね。裏帳簿の写しも含めて、お父様を今すぐにでも告発できる証拠を信頼できる外部の方に託しています。私が連絡すれば、あるいは一定期間連絡がなければ然るべき機関に提出することをお願いしています。わかりますか?私は明日にでもお父様から『伯爵代理』の権利を剥奪し、損害を受けた金額の賠償を請求することができるのですよ」
「ま、待ってくれ」
「待ちますよ。半年間だけは。でも私が成人したらお父様たちには領地に下がっていただきます。そして今、この瞬間から、伯爵家の物を外に持ち出したり、換金したり、新たに物を購入することを禁じます。あなた達が自由に使えるお金は一切ありませんし、財産をこれ以上流出させないように。わかりましたね?」
「そんな……」
「残念でしたわお父様。私はあと半年は目をつぶるつもりでしたのよ。でもあんな書類を見せられて爵位を奪われかねないとなれば黙ってはいられません。ガロン伯爵家はあなたたちのものではありません。お母様やお母様のご先祖様たちが守ってきたものです。私はガロン伯爵としてこの家を守り、次世代に繋いでいかなければなりません。ご安心なされませ、領地に下がっても生活していけるだけの最低限の資金はお渡しいたします。ええ、私がこの三年間過ごしていたような生活ができるだけの資金はね」
真っ青な顔でうなだれるお父様に追い打ちをかける。
「リシュテーヌ様やカルロッタ様にもきちんと伝えておいてくださいね。お父様は伯爵代理であって伯爵ではないこと。この家を継ぐのは私であること。これまでのような暴力や暴言を繰り返すようであれば半年を待たずに出ていってもらうこと。この家から出ていく時には私から奪ったお母様の形見の宝石や伯爵家の宝飾品だけでなく、伯爵家の資金で買った全てのものを置いていってもらうこと。もし隠して持ち出すようなことがあれば、窃盗として訴える用意があること。たくさん伝えなくちゃいけないことがありますね」
そういってお父様に笑いかける。
「それではお父様、失礼いたしますね」
なにも言えなくなったお父様を残して書斎を出て、自室に向かう。いつものようにジョセフが先に立って歩く。
「こちらの手の内を明かして大丈夫ですか?証拠もやっと収集できた段階で、外部に預けるのもまだ計画段階なのに」
「早めに計画を進めましょう。でもあのお父様の顔を見る限り、私のハッタリを信じてくれたようだけど」
「そうですね」
「リシュテーヌ様やカルロッタ様は半年間大人しくしていられるかしら」
「一週間も持たないかもしれませんね」
前を歩くジョセフの広い背中をじっと見つめる。子供の頃からこの人はずっと変わらない。無表情で、眼鏡をかけていて、茶色い髪を整髪料できっちりと後ろに撫でつけている。物心ついたときからこの姿以外のジョセフを見たことがない。
……いや、一度だけあったか。従僕に格下げされた頃、嵐で雨風が強い屋外で雑用をさせられてずぶ濡れになったジョセフを見てタオルを渡しに行った時、整髪料が雨で流れて髪を下ろした姿を見た。濡れてくるくると波打ったくせ毛のジョセフは、知らない男の人のように見えた。
自室の扉の前、「それではここで」と立ち去ろうとするジョセフに声をかける。
「ジョセフ、今まで本当にありがとう。予定より早くなったけど、やっとお父様に引導を渡すことができたわ。あなたのおかげよ」
「とんでもないことでございます。全てはお嬢様の、そして今は亡きセレス様の御心のままに」
「あの証拠の数々、特に裏帳簿を入手するのは私では無理だったわ。お父様やお父様の片腕である家令のユークリッドの目を盗んで裏帳簿を発見し、入手することは命がけだったはずよ」
「お嬢様のお役に立てるのであれば、この命、惜しくはありません」
私を見つめるジョセフの茶色い瞳に嘘はない。おそらく本当に私のために命を投げ出すことができるのだろう。
「ダメよ。命は大事にして。これは私の命令。お母様がいなくなって、ジョセフまでいなくなってしまったら、私は悲しくて生きていけないわ。私のことをこれからもずっと支えてほしい。お願いよ」
「セレス様がお亡くなりになる時にお嬢様をよろしく頼むと言われておりますので、命ある限りお嬢様のお側に控えさせていただければと思います」
古くから伯爵家に仕えていた使用人の子として生まれたジョセフは、お母様の乳兄弟として育ち、従者となり、家令となり、お母様が亡くなるまでずっとお母様を支えていた。お母様が亡くなって、家令から従僕に格下げされ給金も雀の涙になり、お父様につらく当たられても伯爵家に残ってくれたのは、お母様がジョセフに「私がいなくなってもリシェーヌを守って」と言われたからだ。
お母様とジョセフの絆の強さは私には想像できない。
……いや、ひとつだけ想像していることはある。そうだったらいいなと思うことが。
自室に入り、夜着に着替える。普通の伯爵令嬢であればメイドの手によって着替えさせられるのだろうが、お父様や継母の采配により私には専属のメイドはいないし誰も身の回りの世話をしてくれない。
顔を洗い、鏡台の前に座って、頭の後ろでひとつにまとめていた髪にいくつも刺さっているピンを抜き、手櫛で髪を解きほぐす。
鏡に映る茶色い髪と茶色の瞳、お母様の色と同じだ。顔立ちもお父様には全く似ていないが、記憶の中のお母様とよく似ていると思う。
手櫛で梳いた髪を、今度は目の荒いブラシで梳かしていく。丁寧にブラシをかけないと、私のくせ毛はすぐに絡まってしまうのだ。
サラサラのストレートだったお母様と違って、ふわふわと波打つウェーブのかかった髪が小さい頃は嫌いだった。
「おかあさまといっしょがよかった」
と膨れる私に
「そう?リシェーヌの髪も可愛いと思うけどな。ふわふわのくるくるで。濡れるともっとくるくるになるのよね。くるくるの髪の毛、私は大好きよ」
と笑っていた母が見ていたのは私だったのか、それとも私の中にいる誰かなのか。今となってはもうわからない。
「お母様、私も今はこのくるくるの髪の毛が大好きです。お母様に似ていなくてよかった」
鏡を見ながらひとりごちる。私の髪の毛がもしストレートだったなら、幸せな想像ができなかったから。