夢も明日も何もいらない僕は彼女の願いをかなえることにした
飛び散った血がアスファルトに落ちるよりもアナウンスの方が早かった。
『ただいま発生した人身事故により、電車の運転を見合わせております』
終電前の一本だというのに駅のホームはひとであふれていた。目の前で人が死んだというのに悲鳴はひとつもあがらず、低い喧騒だけがあった。
別の帰路を探すために人々がホームの階段を下りていく。みんな一様にいらだちに眉間に皺をよせていた。
およそ人の死に方の内でこれほど迷惑をかけるものはあるだろうか。
どうして人間は周囲を苛立たせるものとそうでないものに別れるのだろう。
自分は前者側の人間だった。
線路上で飛び散るような人間も、周囲の人間を苛立たせてきたのだろう。それを今日で終わりにしたというわけだ。線路上の相手には共感と同情、そしてうらやましさを感じた。
ホームから出た道を歩きながら明日も続く仕事のことを考える。仕事で失敗しないか上司から怒られたりしないか、同僚から馬鹿にされたりしないかという想像ばかりが膨らんでいく。昔からこうだった。何をやっても普通ができなかった。
急に足元がおぼつかなくなってきた。とうとう自分はまともに歩くこともできなくなったらしい。
このままアパートまで帰れるかと不安になったとき公園を見つけた。街灯に照らされたベンチが私を手招きしてくれいるようで、崩れるように腰を下ろした。
そこからは何もできなかった。疲れを自覚した体は動かなくなり、カバンを傍らにおいてうつむいていた。暗い地面をジッと見下ろしていると暗闇に心まで引きずり込まれそうだった。
「大丈夫ですか?」
急にかけられた声にびくりと体をすくませながら顔を上げる。公園に設置されたライトが視界を明るくさせる。光を背負いながら、スーツを着たOL風の若い女性がこちらを心配そうに見ていた。
「こんな夜に、こんなところで寝ていると凍え死んでしまいますよ」
こんな時間にと心配されるのはむしろ相手のほうなのでは。それを口にすると相手は余裕の笑みを浮かべる。
「ご心配いただいてありがとうございます。ですが、私は大丈夫なんですよ」
何か武道か護身術、もしくはチカン撃退グッズでも持ってるのかと思っていたがそうではないらしい。
「危ないというのは変質者や暴漢といった類ではなく、この公園では夜になると女の幽霊がでるからです。どうです? 怖くなってすぐに帰りたくなったでしょう」
女性の口調は軽く、まるで怖さを感じさせない。そのちぐはぐさに思わずくすりと笑みがこぼれた。
「笑うなんてひどいですね。これでも怖がらせるのは得意なつもりです」
また自分は相手を不快にさせたのかと謝ると、本気で怒ったわけではないと彼女は笑った。
今度は彼女のことを怖がろうとしたけれどうまくいかない。それを告げると彼女はさらにおかしそうに笑った。
こんな風にまともに他人と会話したのは久しぶりだったからかもしれない。いつのまにか体が軽くなっていた。
「ほらほら、早く帰ってください」
彼女に急かされるまま腰を上げるとカバンをつかんだ。帰り道を歩いていると、さっきまで重かった足取りが少しだけ楽になっていた。
それが彼女との出会いだった。だけど、彼女について僕はもっと不思議に思うべきだったのだろう。
別の日も、帰り道の途中で体をやすめるために公園のベンチに腰を下ろした。
足音はなかった。だけどなにかがすっと近寄る気配がした。予想通り、顔を上げるとそこには彼女がいた。
「また会いましたね。そんなに幽霊に会いたいのですか? どちらかというと、あなたの顔色のほうが幽霊みたいですけれど」
からかわれているのはわかるがいやな気分にはならなかった。会社にいる間飛んでくるのは面罵と悪意を含んだ言葉ばかりだったから。
こちらの反応のなさに彼女は困った顔をみせる。
「やっぱり、はっきりといわないとわからないみたいですね。公園の幽霊って、それ私なんですよ。この場所で死んだ地縛霊というわけです」
そういうと彼女は街灯の下で両手を広げてみせた。街灯に照らされた肌は青白く硬さをおびて、生気を感じさせない。よく見るとその体を透かして公園の遊具が見えていた。
「ほらほら、腕がすりぬけちゃいましたよ」
突き出した手が私の体をつけぬけていく。驚きはしたが、こちらのリアクションは彼女にとっては不十分だったらしい。
「あとですね、現実のものには触れられないみたいで意識して浮かんでないと地面にめり込んじゃうんですよ」
地面に沈んでいく彼女が頭だけになってこちらをみあげてくる。地面から首だけが生えているようにしか見えない。しかし、このときの自分の気持ちはというと、怖いというよりは幽霊という存在に感心していた。
「普通の人はここまですると怖がるのですが、困りましたね」
彼女を落胆させてしまったらしいが、いまさら怖がれといわれても無理だった。幽霊といわれても恐怖も嫌悪感もわかなかった。
ちっとも怖がらない僕を前に彼女は腕を組んで悩みだす。彼女のはくパンプスが地面と離れていくのをぼんやりと見ていた。生者と死者のにらみ合いは長くは続かず、何かを思いついた顔でこちらを見てきた。
「一つ提案があります」
そういうと、彼女はお願いがあると切り出してきた。
「幽霊というのはとても気楽でいいのですが、やっぱり生きていた頃をひきずっているようでたまには生身の感覚を味わってみたいんですよ。もしかしたらそれで成仏できるかもしれません」
彼女からのお願いとは、こちらの体を貸すことだった。
「もちろんお礼はしますよ。幽霊ですからなんだってできます」
僕は少し考えてから彼女の提案を受け入れることにした。
「もっと悩んでくださいよ。わたしが悪霊だったら、そのまま体を乗っ取っちゃうかもしれませんよ。あなたみたいに憑依できる相手ってめずらしいんですから」
もちろん体をただで貸すなんてことはしない。交換条件を出した。『そんなことでいいのですか?』と彼女は確認してくるがうなずき返した。
「それでは契約成立ですね」
彼女の顔が近づき笑っている口元が見えたと思った次の瞬間、体の感覚がなくなった。
何もない真っ暗な空間に意識だけが放り投げこまれる。“死”というイメージが湧いてきたが不思議と恐怖はなかった。
時折流れ込んでくる感情は彼女のものだろう。満足感、達成感、充足感、どれも知らないものばかりだった。
どれだけの時間がたったかわからないまま、不意に体に感覚がもどった。手の平にある固い感触はあの公園のベンチらしい。
座ったままぼんやりとした頭で空を眺める。空は変わらず真っ黒で星がまたたいていた。
「ありがとうございます。久しぶりに地面を歩く感覚とか食べ物の味を感じられました」
ふわりと浮かび上がってきた彼女はうれしそうに今日のできごとを語っていく。
「それにしてもあなたの職場には驚かされました。最近は働き方改革なんていわれてるのに、昭和のまま時間がとまっているみたいでしたよ」
交換条件でこちらから彼女に頼んだことは、自分の代わりに働いてもらうことだった。彼女の話しぶりでは問題なくこなせたようだった。
「これでもばりばりのキャリアウーマンでしたから。それに働くのも好きでしたからね」
彼女の口から、自分ではない自分の活躍を聞かされた。自分があれだけ悩んでいた問題を簡単にこなしてしまう彼女にうらやましさを感じた。
だけど、彼女がなぜこんな場所で死んでしまったのかと思ってしまう。
「それでですね、もしよかったら―――」
それからも、彼女との関係は続いた。
街灯が照らす夜の公園、いつものベンチ。彼女に体を渡すのは決まってこの場所だった。何度か経験するうちに暗闇のなかで意識をただよわせる感覚に慣れ始めた。
その日もいつもどおり体に意識が戻ったが、何か体がにおった。鼻をひくつかせていると、彼女がいきおいよく頭を深くさげた。
「すいません、わたしはあなたの体でとんでもない罪を犯してしまいました!」
頭を上げてもらい話を聞いてみる。
「ずっと前から、生きているころからやっておきたかったことがあったんです」
彼女は自分が悪霊だといっていた。もしかして何かのうらみつらみかと思ったが、僕の予想は的外れだった。
「……にんにくをたっぷり効かせたラーメンをたべたんです」
モヤシと焼豚もたっぷりのカロリー爆弾らしい。痩せすぎと言われる僕にとっては丁度いい食べ物だろう。
気にしていなし好きにしていい。そう言うと彼女はぱっと顔を明るくさせた。
その後も牛丼屋、居酒屋、立ち食いそば屋に立ち寄ったらしくうれしそうに話す。憑依されている間も彼女のたのしそうな感情をたくさん感じていた。
「あなたと出会って一ヶ月、毎日楽しい経験をさせてもらっています。生きている頃にはできなかったことばかりです。これはまだまだ成仏できそうもないですね」
いろいろ試しているらしいけれど彼女が成仏するための条件はまだ見つかっていない。
帰り道で出会った奇妙な関係だけれど、彼女との時間がずっと続けばいいと思った。
僕は仕事から解放されて、彼女は生身を楽しんだ。暗闇の中でながれてこんでくる感情に身をまかせる。自分以外の人間の中に閉じこもっている間だけは安心できた。
だけど、それは唐突に終わりを迎えた。
それはいつも通り彼女に体を貸している最中に起きた。
突然の痛み。頭の中をミキサーでかき混ぜられたようだった。吐きそうになるほどの感情が大量に流れ込んだ後、暗闇から急激に意識が戻される。
目が覚めると、そこは町の往来だった。
急に感じた体の重みを両足でふんばって支える。真昼の太陽のまぶしさに目を細めていると、前を歩いてた中年女性が怪訝な顔をしてすれちがった。
体の感覚が落ち着くと周囲を見回す。いつもなら目が覚めるのはあの公園のベンチのはずだった。しかし、そこは見知らぬどこかの町だった。探したが彼女の姿もどこにもなかった。
スマホを頼りに駅にたどりつくと、数駅を通り過ぎてから公園についた。ベンチに座ってみたが彼女の気配は感じられなかった。
それから、毎晩同じようにベンチに座り続けた。
一週間目の夜、ようやく彼女の気配を感じられた。
「……あの、ほんとにすみません」
まず最初に謝られた。いままでどうしていたのかと聞くと、地球の内側に引きこもっていたそうだ。
「意識がもどったとき、おばさんが近くにいたと思います。そのひとを見たら……感情の押さえがきかなくなって……」
暗く沈んだ声で彼女は説明する。あのときすれちがった女性が彼女の母親だという。なつかしさや里心がついたのかと思ったが、それは真逆だった。
「うちの親ってすこしおかしい人でして、毒親というやつらしいです」
そういって彼女はわざとらしいぐらいに口元に笑みを広げる。だけど、その目はとても暗い色をたたえていた。なんとなく、僕が彼女に気を許せた理由がわかった気がした。どこかで自分と似たものを感じっていたのだろう。
僕はもっと彼女のことを知りたくなった。
どんなことがあったのか聞かせてほしい。そういって彼女に踏み込んだ。
「つまらない上に長い話になりますよ?」
うなずいてから彼女が口を開くのを黙って待つ。やがて、夜の公園に淡々とした声が流れ出した。
小さい頃は母に関して疑問を感じることはありませんでした。クラスメイトの家に遊びにいったときうちとの違いを不思議に思った程度でした。
はっきりと自覚するようになったのは小学校の遠足にいけなかったときです。泣いて頼んでも母は行かせてくれませんでした。大きくなっても束縛は強くなるばかりで、高校卒業を機に逃げ出しました。住所も教えず連絡も絶ちました。
一人きりの生活で苦労はありましたけれど、自分で選べるということがとてもうれしかったのを覚えています。つきたかった職場にも就職できました。
だけど、あるとき入院してしまって気を回した上司が実家に電話をかけてしまったんです。その日のうちに電話がかかってきました。久しぶりに聞く母の声。それは入院を心配するものではありませんでした。逃げ出したことを責め立てると、
『子供なんだから育てた恩を親に返す義務がある』
そういって実家に同居するか、毎月最低でも20万の仕送りをしろと要求されました。当然断りました。でも、それで終わるわけはありません。母はすべて自分の思い通りにいかなければ気が済まない人でしたから。
会社に電話が毎日きてはあることないことクレームをいれられました。上司に事情を話したら同情はしてもらえましたが、取引先にも同様のことがはじまるとどんどん居心地が悪くなっていきました。
何度もやめてほしいと頼んでも『いやなら生活を援助すればいいだけ』とこちらの窮状を気にも止めません。
同じでした。家にいたときも、どれだけ訴えても口ごたえをするなと殴られるだけでしたから。会社にはこれ以上迷惑をかけることはできず、仕事をやめるしかありませんでした。
「やっと自分の人生を歩きだせたのに、すべての努力が無駄になってしまいました。きっとどれだけやり直そうとしても同じことの繰り返し。何を考えて生きていけばいいかわからなくなって、このベンチでぼーっとしてたんです。そしたらいつのまにか一晩たってて凍死しちゃったみたいなんですよね」
実体を失った彼女は地面を離れ、発作のように体を震わせて笑いだす。
「でも、死んでみてようやく自由になれたんです。幽霊って楽でいいですよ。でも、寂しいですね。やっぱりあまりおすすめできません」
そういって彼女は軽い調子で肩をすくめた。無言で彼女の話を聞くことしかできなかった。慰めの言葉なんてもう無意味だった。
「もうここまでにしましょう。これ以上は一緒にいたら何をするかわかりません」
これでお別れ。そう告げられた瞬間、
待ってくれ
震える喉で声をだしていた。
行かないでほしい。
もう一度言ってみたが答える声はない。いつもの陽気な雰囲気はなく、感情の読めない表情でうつむいていた。
「……気がついていないようですが、いつまでも死者のことを忘れられない人は引っ張られてしまいます。このままだとあの暗い場所に行くことになりますよ」
その言葉といっしょに彼女にぐっと手をつかまれた。皮膚とは思えないぐらい氷のように冷たくて硬い感触だった。それはどこか強引で暗がりにむかってずるずると引きずりこむ死者の手だった。
「―――私と一緒に死んでくれますか?」
憑依されている間の何もない場所。
だけど、あそこにずっといることになっても何も感じないだろう。生きている時間は何もないただ劣等感に埋もれただけの時間だったと思うだけだ。
僕は昔から不器用な人間だった。何をするにつけてもうまくいかず周囲になじめなかった。子供のころから他人という存在に怯えていた。何か自分が至らぬことをして怒らせてしまうのではないか、という不安が私の足にまとわりつき口を閉ざした。
大人になれば多少はましになると思っていた。なんとか就職することはできた会社で、自分が本当に何もできない人間なのだと思い知らされた。
もちろん普通の人間であれば他の仕事で能力を発揮して居場所を見つけることができるかもしれない。でも、自分にそんな場所があるとは思えなかった。いったいどこにこんな人間を受け入れて必要としてくれる相手がいるのだろうか。
そう思っていた。
だけど彼女に出会った。一人でいるときはいつも彼女のことを考えていた。一緒に死んでもいいと思えた。
まっすぐに彼女を見据えたまま思ったとおりのことを口にした。
「……最後まであなたは私のことをちっとも怖がってくれませんでしたね。私は悪霊なんですよ」
まだ彼女はやりたいことを終わらせていない。だから、それまでは一緒にいさせてほしい。
一緒に死んでもいいなら、一緒に生きていくこともできるはずだ。
「本当にどこまでも甘い人ですね。それなら、またもう一度お願いします」
よかった。
吹っ切れたように無邪気に笑う彼女をみて、僕は安心した。
*
楽しい。
タノしい。
トテモ、とても。
いままでに感じたことがない高揚感。
ようやく彼女がやりたかったことを見つけられたらしい。
意識が戻ると、荒い息遣いが自分の口から聞こえた。
周囲を見回す。そこは真っ赤な部屋だった。
ずっと彼女ができなかったこと。
ずっと彼女がやりたかったこと。
足元にころがる死体をみながら理解する。手足を縛られたまま、顔は恐怖と痛みでゆがみきっている中年女性。それは彼女の母親だったもの。
部屋の中は暴力の跡で埋め尽くされて、まともに形を保っているものはなかった。
彼女の存在は感じられない。この世への未練がなくなったのだろう。
ようやく誰かの役に立てたんだ。
彼女が見たかった景色を一緒に見ることができた。
遠くから近づくサイレンの音を聞きながら、生まれてはじめての感覚にひたった。