67 過去との決別1
リーンハルトと婚約してからも、ずっとキャロラインは怯えていた。
優しくされてもそれは番だからというだけで、理性が本能を凌駕したら捨てられるのだと思っていた。
そんな鬱屈した後ろ向きな考えをしていたからこそ、リーンハルトを悪者にして自分が傷つかないようにしていた。
人族は番がわからないからキャロラインが不安になるのは仕方がないのかもしれない。
けれど、本当はキャロラインだって出会った時からリーンハルトに惹かれていたのだ。
会ったばかりだというのに置いていかないでほしいと願ったり、嫌われるのが怖いと思ったのが、その証拠である。それを番の本能と言わずして何と言うのか。
そして理性と本能、結局どちらへ傾くかは、その時の自分の気持ち次第なのだ。
本能を理性で閉じ込めていたのはキャロラインの方だった。
臆病なキャロラインのせいでリーンハルトだって不安だったはずだ。
けれど彼はいつだってキャロラインが欲しい言葉を惜しみなく贈ってくれる。
「再会してからずっと大切にしてきたつもりでしたが、私の愛が足りなかったせいで不安にさせてしまったこと、貴方を助けられなかったこと、ずっと後悔していました。キャロのいない世界は色褪せており、全てがつまらないものでした。もう二度とあんな虚無の世界で私を一人にしないでくださいね」
少し拗ねたように三角の耳を下げたリーンハルトに、キャロラインは何度も何度も頷いて、まだ握っていた両手を胸の前に下ろし彼を見上げた。
「はい……はい! たくさん傷つけてしまって、ごめんなさい。私に出来ることなら何でもします。だから、ずっと一緒にいてくださいね」
「キャロ……迂闊に何でもとか言ってはダメです。私は先祖返りで、獰猛な怖い狼に変身してしまうんですから……」
リーンハルトが困ったように微笑みを返すが、キャロラインはキョトンと首を傾げる。
「ハルト様は全然怖くありませんよ?」
「それは、どうでしょう……今までは色々と我慢してきましたから……」
後半の科白を濁して明後日の方向へ視線を逸らせたリーンハルトは、瞳を瞬かせたキャロラインの髪を優しく弄びながら、白銀の尻尾をスリスリと摺り寄せると、琥珀色の瞳を一瞬だけ獰猛な色に染めた。
「トスカーナ王国へ戻ったらきちんと教えてあげますね。その趣味の悪いドレスも早く脱がせなくてはいけませんし」
「? はい?」
リーンハルトが言っていることの意味はよくわからなかったが、アデルセン色のドレスを着ているのは正直嫌だったので、とりあえず肯定の返事をする。
そんなキャロラインを見てリーンハルトは柔らかく瞳を細めた。
「やっぱりキャロは笑顔で話している姿が可愛いですね」
「あ、私……ちゃんと話せて……」
呆然と口元へ手をやったキャロラインは、喉の違和感がなくなっていることに安堵する。
吃りもなくなっており、自分がこんなにも自然に会話が出来るようになったのは、リーンハルトのお陰だと実感して嬉しくなった。
キャロラインが浮かべた笑顔に、何故かリーンハルトは焦ったように彼女を引き寄せると、酷薄な瞳で周囲を見渡す。
「さて、もう十分キャロの可愛さは周囲に見せつけましたから、トスカーナ王国へ帰国いたしましょう。これ以上私の婚約者の愛らしい姿を晒したら、嫉妬でここにいる全員の喉笛を嚙み千切ってしまいそうですしね」
熱烈な恋愛劇を見せつけられたと思ったら一気に冷ややかな視線を向けられ、混乱しながらも固唾を呑んで見守っていた観客席の人々が恐怖に震える。
特にケモノだなんだの騒いでいた輩は、リーンハルトの鋭い眼光に竦みあがり声も出ない。
そんな観客達を後目に、演舞場から退出するためキャロラインを抱き上げようとしたリーンハルトの背に、耳障りな怒鳴り声が降りかかった。
「な、何を二人で盛り上がっている! キャロライン、こんなケモノの言うことを真に受けるなど正気じゃない! だからお前はみんなにバカにされるんだ! 大体、お前はトスカーナ王国へは戻らないと言っていたではないか!」
漸く気がついたのかヨロヨロと立ち上がったアデルセンが、鼻血を拭いながら指摘してきた内容に、キャロラインの肩がビクリと反応し、リーンハルトの三角の耳と尻尾がペタリと垂れさがる。
トスカーナ王国へは戻らない。
確かに言った覚えがある。
キャロラインが動揺したのを見て、リーンハルトは益々尻尾を下げる。
そんな彼を見てキャロラインは、自分で言った過去を否定することはできないが、せめてきちんと弁明しようと繋がれた手を握りしめ眉尻を下げた。
「そ、その時はハルト様の番ではないと勘違いしていたので……申し訳ありません」
言ってから説明不足だったかもしれないと不安になったキャロラインだったが、リーンハルトの耳と尻尾は見事に復活を遂げ、力強く頷き返す。
「いえ、私が至らなかったせいです。キャロは悪くありません。さぁ、あんな人攫いは放っておいて帰りましょう」
繋いだ手を握り返したリーンハルトの顔を、キャロラインは瞬いて見上げた。




