43 手から零れ落ちたもの4~リーンハルト視点~
緑の庭を抜けて、やがて小さな小屋の中へ飛び込むと、嗚咽が聞こえた。
王女の住まいにしては随分と質素なその小屋の中で、彼女に寄り添う人は唯の一人もいない。
慰めたいものの女性の部屋に無断で入るのは躊躇われて、リーンハルトはどうしたものかと逡巡する。
「私、何のために生まれてきたのかな? 誰にも望まれない私に生きてる価値はあるのかな?」
部屋に入るのを迷ったまま、どうしても離れがたくて窓の外で佇んでいると、聞こえてきた彼女の言葉に殴られたような衝撃を受けた。
リーンハルトは自分がいかに甘ったれていたか思い知らされた。
居ても立っても居られず小屋の外に置かれていた甕や木の板をよじ登り、ガラスがはめ込まれていない窓枠を抜け王女の元へ駆け寄ると、彼女から漂う甘い香りに脳内が蕩け、気づけば尻尾を擦り寄せていた。
突然現れた動物に驚いていた王女だったが、キャロラインと名乗るとそっとリーンハルトへ手を伸ばす。
猫だと勘違いしたようだが、やがて心底愛しいというようにリーンハルトを撫でまわす彼女に、リーンハルトの心は蕩けた。
同時にどうしようもない庇護欲と独占欲が湧き上がる。
離れたくない。離れられない。
どうしても側にいたい。その涙を見るのは自分だけでいい。
誰にも見せたくない。自分だけの……そこまで考えて全身が総毛立つ。
彼女が、キャロラインこそが自分の番なのだとリーンハルトは唐突に理解した。
キャロラインを寝かしつけて後ろ髪を引かれる思いで帰った後も、興奮状態だったからなのか狼の姿から戻れないリーンハルトに両親は顔を見合わせたが、ヤレヤレと苦笑しただけだった。
これまでは当たり前だと思っていた優しい両親に、胸がツキツキと痛む。
リーンハルトがこうして両親に愛されている間も、きっと一人ぼっちであろうキャロラインを思い出すと心が苦しくなった。
それからリーンハルトは変わった。
今のままの自分では、悪意ある視線を向けられる中でも毅然と前を向き続けたキャロラインに釣り合わない。
そう思い、彼女に相応しい伴侶になりたくて奮起したのだ。
だが家族から疎まれるキャロラインを放置するのは心配だったので、両親に願いこっそり護衛という名の影を付けてもらった。
影から伝え聞いたキャロラインの様子に一喜一憂するリーンハルトへ、後に気安い関係になったギースが「それはストーカーです」と胡乱な眼差しを向けてきたが、孤児院や街への視察に、護衛も付かずに一人で行かされるキャロラインへ不埒な真似をしようとした輩を影が秘密裡に粛清したとの報告を受ける度、リーンハルトは付けてよかったと心底良かったと思ったものである。
実は当初は番を理由に、キャロラインをトスカーナ王国へ連れ去ってしまうことも考えたが、祖母である太后が嫌がらせに何をしてくるかわからないため断念せざるを得なかった。
祖父である前国王が亡くなって暫く経つが、公爵令嬢だった太后の勢力は大きく、父である国王さえもあまり強くは出られない。そんな存在の祖母が、忌み嫌っているリーンハルトの婚約を素直に整えさせてくれるわけがないことは容易に察せられたからだ。
もし婚約が認められないばかりか、キャロラインがもっと厳しい立場に追いやられ危害を加えられたらと考えただけで、祖母をズタズタに切り裂く自分が想像に難くない。
そうなればキャロラインを守るどころか、祖母殺しの犯罪者の番として一生日陰の暮らしをさせてしまうだろう。
仮にも血の繋がった祖母に対して抱いていい感情ではないことは承知しているが、リーンハルトは祖母を敵認定すると太后勢力を削ぐことに尽力していった。
その間にもリーンハルトは影からキャロラインの様子を聞くたび、何度も迎えに行こうとしては思い留まる。
キャロラインは王妃や兄王子の執務も熟しているらしく、リーンハルトは益々自分を叱咤した。
積極的に他者と向き合い、寝る間も惜しんで様々な政策を打ち出し功績をあげるリーンハルトへ、畏怖の目で見る者も蔑んだ眼差しを向ける者も圧倒的な力と積み重ねた実績で従えさせた。
全ては非の打ちどころがないトスカーナ王国の王太子として太后勢力を抑え、大手を振ってキャロラインを迎えにゆくために。
ただ、幾ら努力しても変身だけは自在にできるようになるのに時間がかかってしまった。
感情のコントロールをするため、リーンハルトは常に丁寧な言葉を使い、いつも穏やかな微笑みを浮かべるよう心掛ける。
その言動が自然体になるまで昇華させた。
そんなリーンハルトに距離をとっていた人々も徐々に集まるようになり、逆に国王が可愛がる王太子をあからさまに邪険にする太后へ阿る者は数を減らしていった。
リーンハルトの裏工作と、数年前から体調を崩すようになっていたことも太后から人が離れた要因で、勢力が衰えるにつれ自身の身体も衰えていった太后は、ついに一年前に住まいである離宮で息を引き取った。
太后は深夜に儚くなっていたようで、死を知らされたリーンハルトの父親である国王は、愛する王妃と息子を虐げていた母親に思うところがあったのか、「そうか」と呟いただけであった。
こうして邪魔する者がいなくなったリーンハルトは、太后の喪が明けると同時にすぐさまキャロラインを迎えに行くことにしたのである。
念願叶ってアカシア王国へ赴いたリーンハルトは、王宮に入った途端に鼻腔を擽る微かな甘い香りに顔が緩みそうになり、ギースに窘められた。
大国トスカーナの王太子の突然の訪問にアカシア国王は王族総出で出迎えたと宣ったが、そこにキャロラインの姿はなく、無駄に眩しい国王の銀色の頭から毛という毛を引き抜いてやりたくなったものだ。
怒りを抑えて第三王女も呼んでほしいと何とか作った笑顔で申し出れば、渋々ながらも承諾したので許してやったが、もし他に王女はいないなどとほざいたら国王の美しい銀髪は、きっと今頃きれいさっぱり無くなっていたことだろう。
そうして漸く再び会えたキャロラインだったが、アカシア王国の王族は家族であるにも関わらず相変わらず彼女への扱いは酷いものだった。
リーンハルトは別に自分の美意識云々はどうでもいいが、キャロラインを侮辱したことは許せないと心中で歯噛みする。
だがここで騒ぎ立てると彼女を手に入れることが難しくなると判断し、殺気を抑え続けた。
ただ国王がキャロラインの妹を勝手に自分の番認定した時には、さすがに怒りで我を忘れて思わず心の声が漏れてしまった。
しかもそれをキャロラインに聞かれたことは誤算だった。
引かれたか? と焦ったが、やっとここまで漕ぎつけたのだ。
なりふり構ってなんかいられない。
キャロラインへ婚約を打診すれば、ぎゃーぎゃー喚いていた妹の時とは打って変わって、あっさりと承諾を得られたことに拍子抜けした。
それはキャロラインも同じだったようで、呆けた様子の彼女に他に好きな奴でもいたのか心配になって確かめたが、返ってきた言葉に飛び上がる位嬉しくなった。
リーンハルトはキャロラインをやっと手に入れたことに完全に浮かれていた。




