21 近づく距離2
「驚いたのは嬉しかったからです。貴女が私の隣にいてくれるだけでも毎日夢ではないかと思っていますのに、名前を呼び捨てでいいだなんて言われたら本当に夢の中にいて、頷いたら覚めてしまうのではないかと不安になってしまいました」
頭上の耳を下げたリーンハルトは格好いいのに可愛らしい。
それに彼の言葉から察するに嫌われなくて良かったと安堵したキャロラインは、眉尻を下げると自分の想いを口にした。
「わ、私も……私も幸せ過ぎて夢かもしれないと思っていて」
「貴女もですか?」
キャロラインがコクリと頷けば、尻尾を嬉しそうに揺らしたリーンハルトがふわりと笑う。
「ああ、こんなに可愛い方が私の番で婚約者だなんて、自分はなんて幸せ者なんでしょう。しかも嬉しい提案までしてくれるなんて、幸せ過ぎておかしくなりそうです。これが夢だったら目覚めた瞬間世界を破壊し尽くしてしまいますね。ですが、どうせなら呼び捨てではなく愛称で呼んでもいいでしょうか?」
「?」
一瞬、愛称の意味がわからずキョトンとしたキャロラインへ、リーンハルトが縋るような眼差しを向ける。
「ダメですか?」
捨てられた白狼(実際、捨て狼など聞いたことはないが)のような眼差しを向けられ、咄嗟にフルフルと首を横に振るキャロラインにリーンハルトの瞳が喜色に染まる。
「キャロ」
初めて呼ばれた愛称は、擽ったくて、照れくさくて、でも飛び切り嬉しくて、キャロラインの心臓がドキドキと早鐘を打つ。
「ひゃい」
鼓動が煩いせいか少し裏返ってしまった声で返事をしてしまい、恥ずかしさでふにゃりと微笑むと、片手で顔を隠しリーンハルトが天を仰いで固まってしまった。
「……無理……可愛すぎる」
キャロラインへは聞こえない位にボソっと小声で呟いたリーンハルトは、天を仰いだままいつまでも動かない。
そんなリーンハルトに少しだけ不安になったキャロラインがそっと声を掛けた。
「あ、あの……殿下? もしかしたら体調が思わしくないのですか?」
気遣うように頬に置かれた手を取りながら、じっと見つめるキャロラインにリーンハルトは慌てて居住まいを正す。
「いえ、危うく昇天しそうになっただけで、体調はすこぶる良好です」
にこやかに微笑んだリーンハルトだったが、またしても彼が口にした聞き慣れない単語に、キャロラインの頭の中では、焦点? 章典? 笑点? と目まぐるしく熟語が飛び交う。
またも勉強不足を痛感したものの、体調不良ではないようなのでキャロラインが安堵していると、リーンハルトが笑みを浮かべたまま驚きの提案をしてきた。
「ところで私だけが愛称呼びでキャロが殿下呼びでは悲しいですので、今から私のことはハルトと呼んでくださいね」
「え? いえ、それは……」
さすがに不敬だとキャロラインは断ろうとする。
だが否定の言葉を紡ごうとしたキャロラインの横から、リーンハルトが必死の形相で見上げてきた。
「キャロ、お願いします。どうかハルトと呼んでください」
懇願するように眉を下げ、おまけに三角の耳まで半たれに下げた仕草に、キャロラインは心の中で呻く。
嬉しそうにピコピコ動く耳も、ベターっと全部下がりきった耳も魅力的だったが、半たれは可愛すぎて直視できない。
しかし今はそれよりも重大な問題に直面しているのだ。
確かに名前を呼び合う仲に憧れたが、キャロラインは自分のことだけ呼び捨てにしてくれればいいと思っていた。
自分なんかが名前呼びをするなど、恐れ多くて考えつきもしなかったのである。
しかし目の前では半たれ耳の捨てられ白狼が、期待と不安の眼差しでキャロラインを見つめてくる。
こんな可愛い仕草をされてモフモフ好きのキャロラインが拒否できるわけがなかった。
「……ハ、ハルト様」
コクリと唾を飲み込んで、震える声で呼びかければリーンハルトの尻尾がブンブンと揺れたが、首を傾げられる。
「様?」
笑ってはいるが不服そうに指摘され、キャロラインの瞳がオドオドと彷徨う。
「お、お許しください。呼び捨ては恐れ多すぎて無理です。それに……は、恥ずかしくて……」
誰かを愛称で呼ぶことでさえ初めてのことなのに、大国の王太子を呼び捨てにするのはハードルが高すぎる。それに単純に恥ずかしかった。
勿論、嬉しくないといえば嘘になるが、自分なんかが王太子を呼び捨てにするなど不敬であるし、そんな自分を想像すると羞恥で居た堪れない。
謝罪し真っ赤な顔を両手で隠してしまったキャロラインだったが、何故かリーンハルトの方が苦しそうに眉を顰めた。
「うっ、どうしてそんなに可愛いんですか? もうダメです……理性が……理性がもたない……早く、早く結婚しましょう!」
「え? け、結婚ですか?」
いきなり飛躍した話に、驚きのあまりに顔から両手を外して瞳を見開いたキャロラインに、リーンハルトは目をしばたたかせる。
「え? 何故驚くのです? 婚約したのですから結婚するのは当然でしょう?」
一気に冷たい色に染まった琥珀の瞳に寒気を覚えてキャロラインがコクコクと慌てて頷けば、リーンハルトは表情を和らげ、キャロラインの髪を優しく梳った。
「良かった。婚約だけして結婚はしないなんて言われたら、危うく狂死してしまうところでした」
「ふぇっ?」
またしても朗らかに物騒な単語を吐いたリーンハルトに、変な声がでてしまったキャロラインだが、そんな彼女を咎める者はここにはいない。
「こんなに可愛いキャロとずっと一緒にいられるなんて本当に夢みたいです。でも、これは現実ですから、諦めて私の腕の中に囚われていてくださいね」
諦めること、それはアカシア王国でキャロラインが何度も自分に言い聞かせてきたことである。
それなのにリーンハルトが使うと違う響きに聞こえてくるから不思議だ。
地味だと蔑まれたキャロラインの栗色の髪を撫でてくるリーンハルトの手はどこまでも優しく、たった数日の間に確実にリーンハルトに惹かれていっている自分に戸惑う。
家族に愛されなかった自分が、こんなにも大切にされていいのだろうか? と不安が過るが、彼を信じたい気持ちがキャロラインの中でどんどん膨らんでゆくのを否定できない。
「愛していますよ、キャロ。私の番が貴女で本当に良かった」
キャロラインの心を読んだかのように、リーンハルトは甘く囁く。
番だから優しくしてくれていると頭では理解しているが、顔は火を噴きそうなほどに熱を持ち、心臓はけたたましく打ち鳴らされているのに、心は心地よい温もりに包みこまれて満たされてゆく。
数日前までは知りえなかった、目の前にある食べかけのチョコタルトのような甘くほろ苦い感情が芽生えていることに、キャロラインは戸惑いつつも幸せを感じていた。




