11 旅立ち1
翌日、キャロラインはトスカーナ王国へ向かうため再び謁見の間に足を運んでいた。
元々何も持っていなかったので支度に手間取ることはなかったが、普通は婚約しただけでは相手の国へ向かったりしない。
ましてや、婚約をした翌日に出国するなどあり得ない。
だが今回は番と離れたくないリーンハルトの要望と、獣人の国へ嫁ぐからには獣人の教育が必要だからという尤もらしい理由で、異例の速さでキャロラインの出国が決まった。
勿論それは表向きのことで、実際は不要な娘を厄介払いできる上に大国へ恩も売れると考えた両親によって、リーンハルトの帰国に合わせて早々に隣国へ追いやられた格好である。
あまりに性急な婚約と出立に一緒に仕事をしていた文官達は国王に異議を申し出てくれたようだが、キャロラインが執務をしていたことを知らない父王は一笑に付しただけで、日程が変更されることはなかった。
そのせいで机に溜まった書類を全て処理するのに明け方までかかってしまい、キャロラインの目の下には隈が出来ていたが、そんな彼女に気づく者は誰一人いない。
両親と兄王子は謁見の間でリーンハルトへ形ばかりの挨拶をすると、隣で佇むキャロラインへは餞の言葉どころか、嫁いでゆく彼女へ一瞥さえすることなく退席していった。
去り際リーンハルトの隣で微動だにしないキャロラインへ、アリアナだけは勝ち誇ったような表情を向けたが、キャロラインが視線を足元へ向けていたため姉の傷ついた顔を見ることが出来ずに不服そうに立ち去ってゆく。
キャロラインは自分の足元をぼんやりと見つめながら、溜息が出そうになるのを堪えていた。
昨日の父王たちの様子とアリアナの言葉から、自分が捨てられたことは理解できていたが、それでもせめて最後くらいはと期待したキャロラインの甘い考えは打ち砕かれた。
だがこれで踏ん切りがついたとも言える。
家族が去って誰もいなくなった檀上へ視線を移しながら、割と平気でいられる自分が不思議でキャロラインは内心で首を傾げる。
ただ唯一の気がかりは、こんな自分が番になってしまったことで大国トスカーナの王太子であるリーンハルトが、小国アカシアに蔑ろにされてしまったことだ。
そのことが申し訳なくて、キャロラインはリーンハルトの顔を見ることができずにいた。
そんな思いを抱きながら立ち尽くすキャロラインの顔を、心配そうに覗き込んだリーンハルトは、彼女の顔を見るなり琥珀の瞳が彷徨うように揺れた。
「そんなにやつれた顔をさせて申し訳ありません。私が無理を言ったせいで出立の準備が慌ただしかったのですね。キャロライン王女と婚約できたことに浮かれて配慮が足りませんでした。何か入用の物があれば道中買い揃えながら参りましょう。貴女に不便をさせるつもりはありませんから」
家族の誰も気づかなかったキャロラインの目の下の隈に、リーンハルトだけは気づいたようで、彼の三角の耳が申し訳なさそうに垂れ下がる。
リーンハルトにしてみれば、自分が慌ただしく婚約と出立を決めたことでキャロラインが眠る暇がなかったと考え狼狽したのだが、対するキャロラインは買い物と聞いてギクリと肩を揺らした。
キャロラインは自分のお金を持っていなかった。
普通、輿入れには持参金が用意されるはずだが、キャロラインはそれを持たされた記憶がない。
ではトスカーナ側へ直接渡されたのかというと、それも否である。
見知った顔の文官や騎士達が数人、昨晩お別れに来てくれた際に持参金が出ないことを憤慨したように話してくれたから、自分が身一つで放り出されたことを知っていた。
その時は、やっぱりという諦めとほんの少しの落胆の気持ちが混ざりつつも、後日リーンハルトに謝罪し自分の食い扶持分の仕事を与えてもらおうと考えていた。
ちなみにトスカーナ王国からは昨日中に莫大な結納金が支払われたそうで、大金をすぐに用意できる大国の資金力に度肝を抜かれたが、キャロラインにとっては申し訳ない気持ちと、情けなさを倍増させただけだった。
しかし、まさかこんなに早くお金の話題が出てくるとは想定外で、そうかといってお金がない以上頷くことも出来ずに曖昧な笑顔でやり過ごす。
(馬車の中でちゃんと謝罪しよう。……呆れてしまうかしら? こんな王女はいらないって、この国に置いていかれてしまったらどうしよう)
昨日会ったばかりだというのに彼に捨てられたらと考えただけで怖くなり、キャロラインはリーンハルトを見つめた。
(置いていかないでほしい……)
無性にそう思ってじっと彼を見つめるキャロラインに、リーンハルトの頬が心無しかほんのり赤くなった気がしたが、恭しく片手を差し出すとエスコートの体をとった。
「では、参りましょう」
置いていかれなかったことに安堵して、キャロラインがリーンハルトの出された手に自分の手を重ねれば、彼の白銀の尻尾が嬉しそうに揺れる。
時折キャロラインを気遣う素振りを見せながらも、白亜の王宮の中を颯爽と闊歩するリーンハルトは堂々としており、獣人と地味王女の組み合わせを卑下するように遠巻きに眺めていた使用人達も、通り過ぎる頃には羨望と嫉妬の眼差しを向けるようになっていた。
リーンハルトはそんな視線を完全無視し、キャロラインは緊張で全く気が付かないまま、やがて正門に待たせてある馬車まで辿り着いたのだった。