勇気ある注進
俺は目を見開いてしまった。なぜ、吉田先生が大池と俺のことを知っている?
「やっぱりか」
吉田先生の大きな両目は俺の変化を逃さなかった。
「あ、いや、僕は何も」
「嘘つけ、このクソ野郎が。他の先生は出し抜けても、俺は出し抜かれへんぞ」
「え?」
俺は大きく瞬きした。何かおかしい。なぜ、急に低い声で俺を罵倒する。
「大池みたいな、あんな活発で元気な子、なんで学校来なくなったんか、ずっとおかしいと思ってたんや」
怒りが見える。その怒りが俺に向けられている。告白を断ることがそんなに悪いことなんだろうか。吉田先生だって誰かをフッたことなんて、これまで一度や二度じゃないだろう。
言いたくない。大池に悪い。でも、ここで言わないと、俺は無事にこの教室から出られない気がした。
「いきなり、告白されてびっくりしてもうたんです、それで」
俺は視線をホコリだらけの床に落とした。
「は? 何を言い出すねん、お前は」
「え?」
「お前、相当悪知恵が働くんやな。別の話にすり替えるつもりか」
「いや、別に僕は何も」
「おい、コラ」
吉田先生はいきなり立ち上がって、俺の胸ぐらを掴んだ。正義を灯した目玉が俺を睨み付ける。
「告白断られたぐらいで学校来なくなるやつなんて、おるわけないやろ」
「いや、ホ、ホントなんです」
恐くて、声が震える。
「まだ、嘘を突き通すか。他の先生は出し抜けても、俺は出し抜かれへん言うとるやろが。お前は大池に性的嫌がらせを加えた。それが真実や」
「な!」
そ、そ、そんなわけあるか! デタラメにもほどがある! 俺が大池を犯した?
「自分が恵まれへん人間やからってな、他人まで不幸にしてええっていう権利なんかあれへんからな」
……!
「次なんかやってみろ、こんなもんやあれへんからな」
吉田先生は俺の胸ぐらを離し、静かに教室を出ていった。
教室に漂う静寂の向こう側から、昼休みを楽しむ生徒たちの笑い声が聴こえる。
俺は、俺は何もしていないのに。なぜ正義の光は俺を焼く。
俺は椅子から崩れ落ちて、そのまま倒れ込んだ。力いっぱい右手を握りしめ、何度もホコリまみれの床を叩いた。心が叫ぶ、もうお前は頑張ったんじゃないかって。これ以上、苦しむ必要ないんじゃないかって。
中途半端な苦しみではなく、いっそのこと俺を殺してくれればいいのに……そうすれば、俺はペナルティーを受けることなく、薄っぺらな壁の向こうへ行くことができる。
神様はいない。そんなわけ無い。いるに決まっている。この世界でクソみたいな出来事は、今日も明日も起こる。神様は人間を救う存在ではない。苦しめる存在でも、憎む存在でも、馬鹿にする存在でもない。ただ生んだんだ。このクソッタレな素晴らしき世界をただ生んだ。悪意も善意もなく、それぞれの分子や原子、細胞にプログラミングを施した。物質も生き物もプログラミングされた通りに存在しているだけ。誰かがプログラミングをしなければ何も存在しない。この世界を創り出した存在は必ずいる。意味も目的も何もなく、ただこの牢獄を創ったんだ。
自分はどんどん頭がおかしくなっていっていると思う。意味不明なことを考えていないと、突然現れる理不尽な猛獣によって与えられる見えない傷が、いつまでも消えてはくれない。
また、おれの心の中の風船が膨らんだ気がした。中の歪んだものの濃度も増し、色もさらに黒くなった気がした。
ふと人の気配を背中に感じたが、俺は無視をして立ち上がった。制服についた汚れを払い、乱れた髪を直し、重たい教室の扉を開けた。
廊下の向こう側、何人かが俺を遠くから確認して姿を消した。田中大和も間違いなくそこにいた。テニス部、近畿大会出場、吉田先生。信頼のある生徒の告げ口は、勇気ある注進へと形を変える。
田中大和には人気がある。誰かをイジメているとか、高感度が下がるようなキャンペーンをあいつはしない。審判の死角から、俺の横っ腹に拳を入れてくる。そういうタヌキだから、影の部分を知るやつは少ない。影を心から愛する者たちで群れをなし、そのグループでしか分からない隠語を巧みに使い、表に出るか出ないかのヒリついた空気を心から楽しむ。多分、そういうこと何だろうと思う。
暗くてジメジメしたところに住む俺は、どうしてもああいう奴らのターゲットになりやすい。俺の湿った言葉は誰の心にも届かないから、俺自身がいくら頑張ったところで、あいつらの闇が日に当たることはない。




