仮想世界"KAMIKI"
病気のない世界。目の見えないひとが、見えるようになって、耳の聞こえないひとが聞こえるようになって。知的障害のひとも健常者みたいになって、母親が泣き崩れたってニュースも出ていた。いくら食べても飲んでも肥えないし、身体も壊さない。ポンペイ人みたいに指を喉に突っ込んで、胃の中のものをリバースアンドリセットする必要もない。
空だって飛べる。色々な魔法も使える。人間は一年前に究極の理想郷を手に入れたんだ。
行きたいところへ一瞬で移動できる。容姿も年齢も思いのままに変えられる。なろうと思えばモンスターにだってなれる。もう、”変”が勝手に与えられることはないんだ。自ら選んだときだけ。望んでいない”変”を一生取れない接着剤でくっ付けられることはない。不幸を作る神のシステムから、とうとう人間は解放されたんだ。
仮想世界"KAMIKI"のオープン化(インターネットへ公開すること)。このニュースは瞬く間に世界へ広がった。
数年前からごく一部の幸運を掴んだひとたちだけで楽しまれていた頃から、ニュースに取り上げられてはいた。
楽しい世界。
そういう認識だけは、俺を含め、体験したことのない人もみんな持っていたと思う。もちろん、否定的な意見も相次いで上がっていた。飛行機を乗ることがいまだに嫌な人はたくさんいる。進んでいく文明に人の心がついていかないことはよくある。人体への影響、ことさら脳に何らかの良くない負荷がかかっているに違いないとか言っている人たちはいる。よく知らないけど、携帯電話が出た頃も、電波によって頭がおかしくなるとか言われていたこともあったそうだ。いまとなっては、ただの杞憂だったと誰もが言うだろう。それと同じ。KAMIKIだって、俺たちに悦を与えてくれるだけで、身体への悪影響はない。このクソみたいな退屈で、苦しみばっかり浴びせられる現実世界だけに生きているほうがよっぽど害があるに決まっている。
持っていた鍵で家の扉を開ける。ボロいから、扉はいつも下手くそなバイオリンのように鳴く。親父もおかんも仕事。生活が裕福だって思ったことは一度もない。家に誰もいなくて寂しいと思ったことは何度もある。ただ、その思いは二ヶ月前に蒸発した。二十六万七千七百円が俺の腐っていた日常に改革をもたらした。
四ヶ月間、バイトをした。親から小遣いなんてもらったことがないから、自分で稼がないといけないことは分かっていた。ていうか、さすがに二十六万とかホイッてくれる親なんてそうそういないだろう。昔はバブルとかあったらしいけど、俺からすればそんなもんは江戸とか明治とか遠い過去の出来事で、本当にあったのかすらと疑いたくもなる。
帰ってきたら、手を洗う。二十六万七千七百円もするヘッドギアに汚れを付着させることは許されない。丹念に洗う。一回トイレに入る。大事なところで尿意が来てはたまらない。下半身をすっきりさせてから、また手を洗う。しっかりタオルで水気も取る。
家着に着替えて、布団を敷く。さあ、最高の時間がやってきた。高校二年生にして、とうとう俺も理想郷へ入るための扉を手に入れた。クラスで言えば、三十六人中、三十一番目。ヘッドギアを買わずにこの残酷現実世界でドMのように生きていくと決めてたやつが大池を含めて五人ぐらいいたはずだから、俺はビリケツ。俺の前に手にいれてた長谷川純は一月に買ったと言っていたから、期間的にもダントツのビリケツ。長谷川純はよく我慢したと思う。転売屋価格で買ったやつが何人もいるなかで、あいつは定価にこだわっていた。俺はもちろん転売屋価格なんて手が出ないから、自分の足で予約券を入手した。大手の電器屋は軒並み予約NGだったから、マイナーどころを狙いまくって、二十三軒目に入ったいかにも町の電器屋さんで奇跡的に予約することができた。
やっと手に入れたメタリックブラックのヘッドギア。家族間共有で使用しているやつも多いが、俺は違う。俺専用機。親父から貸してくれという頼みも、「自分で買えば?」という一言で断った。機械音痴の親父に触られて故障とかシャレにならない。もちろんヘッドギアは鍵付きの引き出しに入れて保管している。
こんな人類の宝を生み出したのが日本人であることを誇りに思う。カースト制並みに階級社会がはびこっていたクソッタレ日本の汚名を、開発したアナザー社は見事に洗い流してくれた。




