最低な人間
「どうなんだろうね。何かのバランスが崩れるってことは、どこかで何かしらの軋轢が必ず生まれるから、僕らの想像には至らない何かが起こる危険性をはらんでるんじゃないかって、僕は逆に考えてしまう」
「シンジは、この仮想世界が生まれて、良い面も確かにあるけど、悪い面のほうが実は多いって考えてるの?」
「本当は半々なのかも。良いことが起きていることももちろん僕自身もいっぱい見てきたし。ただし、悪い面のほうは表で生きている僕らには見えにくい。見えないからこそ、悪い面のほうが実は大きいんじゃないかって思ってしまう」
「シンジは、この世界を壊れてしまったらいいなって思ったことがあるんだ」
「うん、何回もね。ごちゃごちゃ言ってきたけど、この世界が生まれたことで苦しみを抱えてしまった自分もいるから……結局は僕は自分が背負ってしまった苦しみから逃げ出したいだけなのかも」
シンジの言葉に自分が重なる。同じ気持ちを共有している人間が目の前にいる。
「シンジって、最低な人間だね」
ミーナは今にも泣きそうな顔で言った。顔をしわくちゃにして、下を向いて。
「そうさ、僕は最低なんだ。ウソをつきながらずっと生き続けてる。ミーナ、ホントの僕は女なんだ。そして、ホントの僕は女の子しか好きになれない女なんだよ」
ミーナは両手で口を覆った。「うそ」というミーナのつぶやきにも、「本当なんだ」とシンジは返した。
「シンジにとって、この世界は救いになってないの?」
「なってたよ。なってた。それなのに、現実の自分が叫びだしたんだよ、ニセモノの自分に溺れるなって。僕はふざけんなって思った。ホンモノの自分は現実の世界で受け入れてくれない、気味悪がられるばっかりじゃないかって。だったら、受け入れてもらえて、普通の恋ができる仮想世界に住みだして何が悪いんだって。それでも現実の自分は許してくれないんだよ、仮想世界に入り浸る僕のことを」
シンジは涙を流していた。顔をゆがめることなく、音も立てずに泣いていた。
「うちも。うちもね、ホンモノの自分が許してくれへんねん。現実のあたしはね、左足が生まれつき思うように動いてくれなくて、自由に跳ねたり走ったりできなくて。こっちの世界ではめっちゃ動けるから楽しくて、ついついいっぱい遊んじゃって。気づいたら、ホンモノの自分を放ったらかしにしてた」
「このウソの世界が登場するのは、人にとってはまだ早かったのかもしれないね」
「そうやわ、きっとそう。早すぎたんやわ、きっと」
ミーナはシンジの手を取って言った。「トマトケチャップのことについて教えて」と。その言葉にシンジはゆっくりと頷き、二人は再び木製のイスに座った。
アナザー社の副代表研究員である神木はKAMIKIのオープン化を不服に思っていた。神木は安全上、外の世界とは遮断されたローカルな世界で運用すべきだと考えていた。
「そのうち、ユーザーを危険な目にあわせる事案が発生するに決まっているんだ」
女性でありながら一見中学生の少年にも見える二十三歳の神木。ジーンズに白のTシャツ、その上に白衣を羽織って、アナザー社内にある小さな研究室で黒縁メガネのレンズを拭いていた。
「要は、お前に商売っ気がねーことが問題なんだよ。お前の考え方で、どうやって会社として金を稼ぐんだ。それにビジネスにリスクはつきもんだろ」
被験者用の白いヘッドギアをかぶって、ベージュのベッドで座っている男性は木崎浩平、三十三歳。淡い水色のワイシャツに紺のスラックス姿。童顔で普段は人懐っこい感じの雰囲気だが、いざとなると真剣に物事を取り組むところがあり、社内からの信頼は厚い。KAMIKIの開発中に被験者として参加したことをきっかけとして、アナザー社に入社した。
「お商売ならちゃんとこうして関西まで来てやってるじゃないか。僕には他にやるべきことがあるってのに」
神木は口をへの字にした。
「確かに、こうして特殊部隊向けの訓練用仮想世界を創っているっていうのはニッチな市場を攻めているわよね。それだけじゃダメなのかしら」
被験者用の白いヘッドギアをかぶって、ベージュのベッドで座っている女性は遠藤菜月、三十二歳。スリムな黒のパンツに、清潔感のある白いブラウス。背中まで真っ直ぐに下ろされた黒い髪が、大人の色香を感じさせた。菜月もKAMIKIの開発中に被験者として参加したことをきっかけとして、アナザー社に入社した。